離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

仮説!!優しくて誠実な男はモテない説!

皆さんこんにちは!!

 

突然ですが、皆さんモテたい願望ありますか?僕はめちゃくちゃあります。日々真剣にどうすればモテるのかを考えています。

 

今回は如何にしてモテるか?を考える中で行き着いたある仮説を紹介します。題して

 

優しくて誠実な男はモテない説!!

 

合コンや女子がいる飲み会に参加した時、ある程度仲良くなって場が温まってくると、だいたい どんな異性がタイプか? って話しになりますよね!?

 

因みに僕は 石原さとみさん です。

 

ただ言いたかっただけなんですけど(笑)

 

どんな男子がタイプ? って女子に聴くと9割以上、ほぼ10割じゃね?って確率で、

 

優しくて誠実な人!!

 

って答えます。

 

男子って単純なんで、この娘、優しくて誠実な人がタイプなんだ〜 って思うと、精一杯優しくて誠実な対応をします。僕なんかも、優しくて誠実であろうと日々努力したもんです。

 

しかしある時、気づきます。

 

優しくて誠実な人はかなりの高確率で彼女がいないし、独身だな〜 って事に...

 

これはどういう事なんだと、10割近くの女子が好きなタイプは 優しくて誠実な人 いうてるのに、 優しくて誠実な人、余りまくってますやん!?

 

そしてある仮説を立ててみました。

 

優しくて誠実な男はモテない説!!

 

そもそも、何故女子が 優しくて誠実な人 がタイプと答えるのか?ということです。

 

それなりに恋愛経験があるであろう娘が 優しくて誠実な人 がタイプと答えるのは、今まで好きになった男子の優しさや誠実さが物足りなかったのではないか?

 

しかし、それは、優しくて誠実 ではなくても、好きになる条件を満たしていたという事ではないか?

 

つまり、好きになりはじめる段階においては、優しくて誠実 という要素はそんなんに重要ではないのではないか?

 

優しくて誠実である。という条件は絶対条件ではなく、オプション的な条件 なのではないかという仮説に着地しました。

 

好きになりはじめる段階でどんなに オプション的要素 が素晴らしくても 絶対的要素 が乏しければ好きにならないのです。

 

じゃあどんな要素が必要なのか?をモテないなりに考えていきます。

 

まず、自分に興味を持ってもらう段階であんまりガツガツ行くと嫌がられます。

 

大切なのは余裕です。しかし、出逢いが少ない環境の男子は ここしかない! と思うのでガツガツいきます。絶対ガツガツになります。ここしかない!って思ってるから。

 

じゃあどうしたら ガツガツ を抑えられるのか?それは 心に余裕 を持つことです。つまり、ここしかない! と思わなければいいんです。

 

その為には 複数の女子と関われるような環境に身を置く 事です。

 

そうすると、失敗しても次がある! というマインドになって結果、心に余裕が生まれます。

 

そして、とにかく 喋り が上手いこと。相手の心を引く為にはコミニケーション能力は絶対条件です。これは話術に長けているということです。イメージ的には詐欺師ですね(笑)

 

そして、とにかくマメな人。フットワークが軽く移動範囲が広いアウトドア派。

 

これらの条件から考えて僕が導き出した答えは

 

チャラい奴!! です。

 

結局、モテるのは 優しくて誠実な人 ではなく、チャラい奴 なんです。

 

まぁある意味 優しくて誠実な人 なのかもしれません。そう考えると、優しくて誠実 という言葉の持つイメージが男子と女子で違うのかもしれない。

 

という仮説に着地しました。

 

まぁどうでもいい話しなんですけどね(笑)

 

ありがとうございました。

 

上杉治憲

皆さんこんにちは!!

 

今回は僕が日本人で1番尊敬する人物 上杉治憲 について記します。

 

江戸時代中期、米沢藩9代目藩主上杉治憲。

 

その名は日本のみならず、世界に知れわたり、元アメリカ大統領 J・F・ケネディーやビル・クリントンに 

 

もっとも尊敬する日本人政治家 !!

 

と称賛される日本史上屈指の名君!!

 

是非皆さんにも知ってもらいたいと思います。

 

目次

 

 

出生〜結婚

 

上杉治憲 寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向国(宮崎県)高鍋藩(たかなべはん)藩主・秋月種美(あきづきたねみ)、妻、春姫の次男として高鍋江戸藩邸で生まれます。幼名は松三郎。

 

実母が早くに亡くなった為、一時祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育されました。幼少の頃より、非常に優秀だったらしく、

 

我が孫ながらこやつ、なかなか賢くね!? 

 

と思った 祖母の瑞耀院が当時男子のいなかった米沢藩藩主 上杉重定 に娘の婿養子にと勧めたのが縁で、宝暦10年(1760年)重定の娘 幸姫 と結婚し、上杉家の養子となります。

 

明和3年(1766年)に元服。のちに 治憲 と改名し、明和4年(1767年)に家督を継ぎます。

当時17歳。

 

財政難

 

上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、初代藩主の意向に縛られ、石高の割に仕える家臣の数が多く、【15万石(実高は約30万石)、家臣6000人】また召し放つこともほぼせず、家臣たちも上杉家へ仕えることを誇りとして離れなかったため、他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高く、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていました。

 

加えて農村の疲弊や、宝暦3年の 寛永寺 普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を 直撃!!

 

名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、

 

もう無理、無理、無理!! つって

 

藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどだったそうです。

 

財政再建

 

新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい 竹俣当綱 や財政に明るい 莅戸善政 を重用し、

 

こんなんやってたら藩、潰れまんで!! 

 

つって

 

先代任命の家老らと バチバチ にやり合います。

 

そして 経費削減 に着手します。

 

それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行います。

 

しかし、まだ若かった 治憲 は対外的な根回しに疎かったらしく、幕臣への運動費 を計算に入れておらず、結果、明和6年(1769年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じます。これにより財政の再建は遅れる事になりました。

 

天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発します。

 

治憲 は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行いました。

 

また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。

 

安永2年6月27日(1773年8月15日)、七家騒動 が勃発します。

 

改革に反対する藩の重役たちが、

 

ちょっと治憲さん、こいつらこんなんしてるんすよ!!

 

つって

 

改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴しますが、

 

しょうもない事すな!! つって

 

これを退けます。

 

治憲 のこれらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の 斉定 時代に借債を完済します。

 

晩年

 

天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた 治広 に譲って隠居しますが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導しました。

 

治憲 が 次期藩主・治広 家督を譲る際、3条からなる藩主としての心得、伝国の辞(でんこくのじ)を申し渡します。

 

そこには

 

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
(国は先祖から子孫へ伝えられるものであり、君主の私物ではない。)

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
(国民は国に属しているものであり、君主の私物ではない。)

一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
(国・国民のために存在・行動するのが君主であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。)

右三条御遺念有間敷候事

(この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。)

 

天明五巳年二月七日  治憲 花押治広殿  

机前

 

と記されいます。

 

伝国の辞 は、上杉家が明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承されたそうです。

 

隠居当初は重定隠居所の偕楽館を住まいとしますが後に米沢城三の丸に餐霞館が建設されると、そちらに移り住みます。

 

享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山 (ようざん)と号します。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われているそうです。

 

文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去。享年72(満70歳没)。

 

人物エピソード

 

正室の幸姫(よしひめ)は 重定 の次女(姉妹は夭折)で 治憲 の2歳年下、脳に障害、発達障害があったといわれているそうです。

 

幸姫は30歳で死去しますが、治憲 は幸姫を邪険にすることなく、自ら側室をとろうとせず、晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、2人は仲睦まじい夫婦だったそうです。

 

家督を譲ってからは米沢で隠居生活を送り、幼少時から娘と顔を合わせていなかった 重定 は、幸姫の死去後、娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘への 治憲 の心遣いに涙したそうです。

 

後継者が絶える事を懸念した重役たちに勧められ、1770年(明和7年)に10歳年下のお豊の方を側室に迎え、長男・顕孝と次男・寛之助の2人の息子を授かりますが、早くに死去し、お豊の方以外の側室を迎えることもなかった為、治憲 の、血筋は途絶えてしまいます。

 

治憲 は35歳の若さで家督を 治広 に譲りますが、その理由は、重定 が存命中に 治広 家督を継がせる事で養父を安心させたかったのではないかといわれています。

 

治広 には同母兄の 上杉勝熙 がいましたが、それを差し置いての後継指名であったそうです。

 

 

身体は元来丈夫で大病でも病床についたことはなかったようです。

 

着衣は羽織、袴から下着に至るまで全て木綿のものを着用し、食事は一汁一菜を基本として、朝食は粥二膳と漬物、昼食や夜食に千魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていたそうです。

 

愛煙家ではありましたが、酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲み、また薬用酒はときどき飲んだそうです。

 

有名な、

 

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり 

 

の歌は 伝国の辞 と共に次期藩主に伝えられたとされています。

 

武田信玄の名言、

 

為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき 

 

を模範にしたものだそうです。

 

天明7年(1787年)8月、実父の秋月種美の危篤の報を受けると、江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取ったそうです。

 

その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報が入ると、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国、翌年2月までの80日間看病を続け、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病し快癒させたそうです。

 

手紙のエピソード

 

ある日、老婆が干した稲束を取り入れ作業中に、夕立が降りそうになり、手が足らずに困っていると、通りかかった2人の武士が手伝ってくれた。

 

餅を持って御礼に行きたいと武士たちに言ったところ殿様お屋敷(米沢城)の北門の門番に話を通しておくからと言われ、餅を持って御礼に行くと、通された先に居たのは藩主治憲だった。

 

お侍どころかお殿様であったので、腰が抜ける程たまげ果てた上に、その勤勉さを褒められ、褒美に銀5枚まで授けられた。

 

その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたという内容の手紙があるそうです。

 

手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵、展示されているそうです。

 

最後に

 

皆さんいかがでしたか?

 

政治家としての手腕だけでなく、愛妻家で親孝行で身分に捉われず、全ての人に優しい、そんな人間的な魅力に溢れる 上杉治憲 を僕は尊敬していますし、こういう人でありたいと思います。

 

まだまだ、未熟ですが日々精進です。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水曜日の昼下がり!!

現代人ってバランス考え無い人が多いですよね。

 

なんか自分がやりたい事をやりたいようにやるって風潮が凄く強いと感じてるんです。

 

教育も個人の意思や価値観を尊重して、能力を伸ばす方向性へとシフトチェンジしてるけど、それを続けてて世界って良くなっていくのかな?と思ったりします。

 

例えば、野球チームがあってチームを成立させるためには9人以上必要なんですけど、9つポジションがあって役割とか特性とか全て違うんですよね。

 

今の時代って、9人のメンバーがいて、

 

ピッチャーやりたい人〜

 

って言って、9人みんなが手を挙げたらみんなにピッチャーをさせようとする時代だと思うんですよ。

 

でも実際、そんなことしたらチームとして成り立たないです。でも今の社会ってチームを成り立たせようとするよりも、個人の意思を過剰に尊重するからチームが成り立たない。

 

チームが成り立たないとピッチャーというポジションさえ成立しないから、かなり揉める。

 

それってわがままになると思うんですよね。

 

ひと昔前は、監督が個人の力量や資質を判断して、各ポジションに振り分けてたんですよね。

 

だから、チームは成立してたし、各ポジションも成立してた。確かに、やりたくないポジションをやらされてる人の方が多いかもしれないけど、チームバランスを考えて納得してた。

 

それって協調性だと思うんです。

 

現代社会はやりたい事をやる事がしあわせだって風潮がかなり強いと思うんですよね。それはいろいろ情報を得る中で自分がやりたい事をやってる人たちの情報を得て、やりたい事をできてない人たちが、羨ましいと思う。

 

そして、自分を自分の子供たちに投影して、自分と同じ思いをさせたく無いと思うからだと思うんです。

 

でも実際は、やりたい事をできている人たちよりできてない人たちの方が断然多い。でもだからこそ世界は成り立っていると思うんです。

 

人がやりたがらない事でも、世界の流れを円滑にする為に必要な事ってあると思うんです。

 

そういう事をやってくれる人たちがいるから世界は成り立っている。世界が成り立っていないと自由も権利も成り立たない。

 

じゃあ、やりたい事ができてない人たちはしあわせになれないのか?

 

野球でもポジションが違えば、必要な知識や技術は違います。そしてその中にそのポジションでしか感じられない楽しみとか喜びを感じる事ができると思うんです。それに気づけばそのポジションが好きになると思うんですよね。

 

だからやりたい事をできてない人たちもその事をやる中でその事をやる事でしか感じられない楽しさや喜びを感じる事ができればしあわせになれるんじゃないかなと思うんです。

 

強いチームを作っていくには、それぞれがそれぞれの特性や資質を遺憾なく発揮できるポジションに配置する必要があると思うんです。

 

人によってピッチャーでは一流になれるけど、ショートでは三流止まりとか、キャッチャーでは一流になれるけど、センターでは二流止まりとかあると思うんです。

 

努力で特性や資質は埋められるって考え方もあるけど、特性や資質がある人が努力して到達できるところと、特性や資質がない人が努力して到達できるところはやっぱり違うと思うんですよね。

 

特性や資質がある人ない人がいるって事じゃなくて、持ってる特性や資質の種類が違うって話しです。

 

でも現代社会はそこもそんな重要視してないと感じるんです。特性とか資質を度外視して、意思や価値観を尊重する。

 

意思や価値観を尊重することももちろん大切ですけど、それを重要視して、特性や資質に配慮しないチームはやっぱりそこそこのチームにしかならないんですよね。

 

そこそこのチームは心地よいけどなんか物足りない感をいつも感じてモヤモヤする。

 

それってやっぱりベストじゃないからだと思うんです。

 

やりたくないっていう感情って結局先入観だと思うんです。根拠がかなり曖昧ですよね。でもやりたくないって先入観があるからやってて楽しくない。

 

その事が楽しくないんじゃなくて、その事の中にある楽しいところを探そうとしないから。

 

結局、しあわせってそういう事なのかもしれないなと思ったり。

 

要は、その事をする事でしあわせを感じられるんじゃなくて、その事の中にある楽しさや喜びを探そうとする精神があるからしあわせを感じられるのかなと思ったり。

 

そんな事に想いを巡らせる水曜日の昼下がり。

 

他宗教を学ぶ④

皆さんこんにちは!!

 

今回は他宗教を学ぶシリーズ第4弾をお届けします。第3弾で 仏教 について学ばせていただきましたが、もう少しだけ学ばせていただきましたので紹介します。

 

目次

 

 

【生は苦】

 

仏教 の根本的な思想は 生は苦である!ということだと思います。その苦を釈迦さんはまず、死、病、老、生 の四苦と表現し、さらに 五蘊盛苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦 を加えて八苦と表現しました。

 

五蘊盛苦(ごうんじょうく)

 

心身を思うようにコントロールできない苦しみ。

 

愛別離苦(あいべつりく)

 

どんなに愛する人とでも、いつかは必ず別れなければならない苦しみ。

 

怨憎会苦(おんぞうえく)

 

恨みや憎しみを抱いてしまう苦しみ。

 

求不得苦(ぐふとくく)

 

お金や物、地位や名誉など、求めるものが手に入らない苦しみ。

 

【苦は煩悩から】

 

その苦が生じる原因と解決方法が 四諦(したい)と言われる 真理 です。

 

苦諦(くたい)- 迷いのこの世は一切が苦であるという真実。

 

集諦(じったい)- 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。

 

滅諦(めったい)- 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。

 

道諦(どうたい)- 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ。

 

世界は 苦 に満ちていて、その 苦 は人間の 煩悩 、妄執、愛執 によって生じる。それらを断つ事で、苦 から解放され、悟りの境地 に至れる。その方法が 八正道 の実践だということだと思います。

 

【十二縁起】

 

仏教 では、全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立していると考えられていて、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるとし、十二の縁起の関係性により生じていると考えられているようです。

 

つまり、物事が起こる十二の要素とその繋がりの関係性を説いたものと考えます。

 

 

無明→行→識→名色→六処→

    ↑                                         

老死  ← 生←有←取←愛 ← 

 

  • 無明ー 無意識。原因が明らかでない煩悩。
  • 行ー 煩悩によって起こる行動。
  • 識ー 行動を意識の中で識別する。
  • 名色ー 識別したものを実体として捉える。
  • 六処ー 六つの感覚 眼、耳、舌、身、心 。
  • 触ー 実体に六つの感覚が触れる事。
  • 受ー 触 により認識し、感情を得る事。
  • 愛ー 得た感情を再び感じたいという欲求。
  • 取ー 愛 に執着する欲望。
  • 有ー 触、受、愛、取、により経験を得る事。
  • 生ー 有 の影響により、生まれる精神的変化。
  • 老死ー 生 が分解し、無意識のレベルに馴染んでいく。

 

諸行無常諸法無我

 

仏教 では 六道輪廻を説いていますが、この考え方は 仏教 だけのものではなく、インド宗教 の一般的な考え方だそうです。

 

人間は死を迎えて肉体は滅びても 魂 は滅びる事なく、六道に転生する。

 

これが、インド宗教の 六道輪廻の考え方です。

 

釈迦さんは、諸行無常諸法無我 を説きました。この世に不変、不滅のものはなく、全てのものは変化し、滅する。そして、固有の実体は存在しないということだそうです。全てのものは固有の存在ではなく、共有の物の中の一部だということだと思います。

 

例えば、ある一つの出来事が起こった時、その出来事を一つの実体として捉えようとしますが、そうではなく、いろいろな要素の関係性の中で生じた事であり、その実は 無 であり、実体として存在しない。

 

それはこの世の全てのものに当てはまり、自分の肉体とか魂とかいうものさえも存在しないのだという事だそうです。

 

そうなってくると、仏教 においての六道輪廻とはどんな世界観なのか?という問題が生じます。

 

十二縁起のループの事を輪廻、と解釈する人もあれば、心の状態の移り変わりが六道輪廻だ。と解釈する人もあるそうです。実際、釈迦さんは六道輪廻について肯定も否定もしていないらしく、解釈によって違いがあるようです。

 

諸行無常諸法無我 の考え方からいくと 六道 という実体があるのではなくいろいろな要素から成り立っている 実体の無いもの とも理解できます。釈迦さんが説いた 仏教 の教えは、最終的に解脱し、六道輪廻から脱却する事なので、悟りに至れば六道輪廻という概念もなくなり、それが 浄土 と表現される状態なのだと僕は解釈します。

 

(六道輪廻)

 

天道  ー  修羅道  ー   飢餓道 

  |                                   |

人道  ー  畜生道  ー  地獄道

 

浄土(悟りに至り解脱する)

 

釈迦さんの出生の時の7歩歩いて、右手で天を、左手で地を指し、天上天下唯我独尊 と言った。 というエピソードは 六道輪廻から脱却し、第7の地に歩みを進めるもの。という意味があるそうです。

 

 

【八正道】

 

八正道 は 苦から解放され、悟りの境地に至る 為に行う信仰実践です。

 

正見ー正しい見解。

正思ー正しい思惟。

正語ー正しい言語行為。

正業ー正しい行為。

正命ー正しい生活。

正精進ー正しい努力。

正念ー正しい想念。

正定ー正しい精神統一。

 

の八つを言います。

 

正見ー 自分の都合などで偏った見方をするのではなく、在るものをあるがまま捉える事。

 

正思ー 自己中心的な考え方ではなく、真理に照らし合わせた正しい考え方をする事。

 

正語ー 嘘、悪口、陰口など他者を傷つけるような言葉を使わない。相手の心を慮り、正しい伝え方をする。

 

正業ー 殺生、盗みなど人として間違った行為をせず、正しい行いをする。

 

正命ー 規則正しい生活を心がけ、真理に即した正しい生活をする。

 

正精進ー 真理に即した正しい生き方をする努力をする。

 

正念ー 真理に即して、正しい信念を持って生きていく。

 

正定ー 正しい見方、正しい信念を胸に正しい座禅を行う。

 

正しいとは、偏った見方をしないことでこの考え方を 中道 というそうです。

 

【最後に】

 

今回は、仏教  をもう少しだけ勉強させていただきました。根本的な考え方が 天理教 とはかなり違うので、感覚がイマイチ捉えられないというのが、正直な感想です。

 

しかし、今まで僕が認識していたイメージとはどうやらかなり違うなぁ〜という印象は受けました。

 

素人の見解がかなり入っているので、仏教 を信仰されている方々からみたら、物足りなかったり、間違った解釈をしているところもあると思いますが、少しでも学ばせていただき、理解したいという思いでトライさせていただきましたので、温かく見守っていただけると嬉しいです。また、こっそり教えてください。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の教理研究⑥

皆さんこんにちは!!

 

今回は僕の教理研究⑥をお届けします。

 

今回は、天理教の信仰において大切な三つのかどめ、朝起き、正直、はたらき について、掘り下げて考えていきたいと思います。この三つが意味するところは何なのか? という事を自分なりに思案して紹介します。

 

どうか暖かくお見守りください。

 

目次

 

 

【逸話篇】

 

この三つのかどめは逸話篇で紹介されています。

 

1つ目は、逸話篇 29 三つの宝 飯降伊蔵 本席さまに おやさま が諭されているお話です。

 

逸話篇 29 三つの宝

 

  ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、

 

「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」

 

と、仰せられた。

 

    伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、

 

「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」

 

と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、

 

「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」

 

と、仰せられた。

 

伊蔵は、生涯この教を守って通ったのである。

 

2つ目は、逸話篇 111 朝、起こされるのと の中で、飯降よしゑさんへ諭されています。

 

逸話篇111 朝、起こされるのと

 

   教祖が、飯降よしゑにお聞かせ下されたお話に、

 

「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのはその身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。」

 

と。

 

僕はこれらの逸話を拝読して、この 三つのかどめ  は、その行為が大切だという側面と、例えとして 大切な精神 を説いている側面があるのではないかと考えます。

 

 

【朝起き】

 

まず、朝起き について考えていきたいと思います。

 

朝起き! 読んで字の如く朝、起きる事だと思います。意味的にはそういう意味だと思います。ただ、朝起きる生活習慣にない人たちがいます。

 

そういう人たちは朝起きの実践ができない事になるのか?

 

という疑問が生じます。僕はそんなことはないと思います。そういう人たちにも実践できるように おやさま は説かれているはず!!

 

という仮説から 朝起き という言葉に隠された信仰的に大切な精神を考えていきたいと思います。

 

まず、朝起き という行いに必要な要素。

 

  • 目覚める。
  • 朝であるという事を認識する。
  • 起きようと決心する。
  • 自分の眠たいという欲求に打ち勝つ。
  • 起き上がる。

 

これを信仰生活に当てはめて考えると、

 

  • 目覚める。→ 親の思いを悟る。
  • 朝であるという事を認識する。→ 時間、時期の把握。→ 旬を読み取る。
  • 起きようと決心する。→ 心定めをする。
  • 自分の眠たいという欲求に打ち勝つ。→ 自分の中の甘さに打ち勝つ。
  • 起き上がる。→ 心定めを実行する。

 

という事に繋がるのではないか?という仮説に行き着きました。

 

また、逸話篇 111 朝、起こされるのと の中で、朝起き について、

 

朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。

 

と おやさま は語られています。これは、自発的に行うことと他者に促されて行うこととでは大きく徳、不徳に分かれるで。という解釈もできると思います。

 

これらのことから 朝起き に込められた信仰において大切な精神は、自ら求めて、親の思いを悟り、旬の中でしっかり心を定め、甘えることなく、実行すること。即ち、やるべき時にやるべき事をやる精神。と解釈します。

 

【正直】

 

次に、正直 について考えていきたいと思います。正直の言葉の意味は、

 

正しく素直で、偽り・ごまかしをしない性質・態度。

 

だそうです。

 

おふでさきには

 

月日にハうそとついしよこれきらい

このさきなるわ月日しりぞく(12-113)

 

と歌われています。

 

また、おさしづでは

 

さあ/\正月二十六日と筆に付けて置いて、始め掛けた理を見よ。さあ/\又正月二十六日より、やしろの扉を開き、世界ろくぢに踏み均しに出て始め掛けた理と、さあ/\取り払うと言われてした理と、二つ合わして理を聞き分けば、さあ/\理は鮮やかと分かるやろ、と。よく聞き分けてすれば、分からんやあろまい。世界ろくぢに踏み均しに出て居る。疑いもあろまい。なれど疑い心があるなれば、尋ねて見よ。神は幽冥と思うやろ。幽冥と思うなよ。五十年以前の道の理を思案して見よ。神は嘘と追従これ嫌い。(明治22年3月10日)

 

と語られています。

 

嘘とは、事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽  り。

 

追従とは、他人の気に入るような言動をすること。こびへつらうこと。また、その言動。

 

だそうです。

 

これらのことから思案すると 正直 に込められた信仰において大切な精神は 誠の心 だと解釈します。

 

逸話篇 111 朝、起こされるのと では

 

蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのはその身が嘘になるで。

 

と諭されています。

 

日々、しっかりと教えを実践し、八つの埃を払い、自分を良く見せようとしたり、相手から良く見られようとする心や言葉遣いをしないよう、自分の心と向き合い、陰、日向なく、心と言葉と行動が一致するような通り方をすることが大切であると諭されているのだと考えます。

 

【はたらき】

 

最後に はたらき について考えていきたいと思います。はたらき について おやさま は、逸話篇 197 働く手は の中で、

 

働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽·ハタラク)と言うのや。

 

と、諭されています。

 

また、逸話篇 111 朝、起こされるのと の中で、

 

もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。

 

と、諭されています。

 

この側楽については以前書いたブログ、側楽について考える の中でも紹介しましたが、

 

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2019/05/22/215815

 

目くばり!気くばり!心くばり!

 

これらの精神が大切なんじゃないかな?と思っています。

 

周りの状況を観察して情報を得る!!

 

その情報から何が必要とされているか気づく!!

 

その気づきから何をすれば周りが楽になるか判断し、実行する!!

 

この精神はつまり、人を思う心!人に尽くす心!だと思います。

 

即ち、人をたすける心! に通じるのではないかと考えます。

 

おふでさきには、

 

いまゝでハせかいぢううハーれつに

めゑ/\しやんをしてわいれども(12-89)

 

なさけないとのよにしやんしたとても

人をたすける心ないので(12-90)

 

これからハ月日たのみやーれつわ

心しいかりいれかゑてくれ(12-91)

 

と歌われています。

 

人をたすける精神が広がっていくことが たすけあい に繋がっていくと思います。たすけあいの精神 が 陽気ぐらし に繋がっていく精神だと考えます。

 

【最後に】

 

今回の内容をまとめると、しっかりと  の思いを悟り、日々、教えを実践し、旬の中で心を定め、自分の甘さに負けることなく、誠の心でたすけあいの上に心定めを実行する。

 

もっとザックリ言うと、たすけあいの上に誠の心で、やるべき時にやるべき事をやる精神。

 

これが、お道の信仰生活のかどめなのかな!?と感じました。

 

あくまで個人の見解ですし、僕の主観的偏見がかなり入っていると思いますが、こんな考え方もあるんだな〜 くらいで ゆ〜るく 受け取ってもらえると嬉しいです。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子、孫視点から観る 嫁姑問題!!

 

皆さんこんにちは!!

 

僕です!!

 

雨降りの週末いかがお過ごしですか?

今回は僕が日々お母さんとおばあちゃんの関係を観察する中で感じる 嫁姑問題 について綴っていこうと思います。

 

目次

 

 

【嫁姑問題】

 

どんなに時代が移り変わろうと巻き起こる問題、それが、嫁姑問題ですよね。まさに 人類の永遠のテーマ と言っても過言ではないくらいどの時代も人はこの問題に頭を悩めてきました。

 

教内においても、この問題は非常に深刻な問題です。離婚という価値観が社会的地位を確立しつつある現代社会、この嫁姑問題で別居または離婚する教会長や教会子弟も少なくないと思います。

 

この問題は、嫁姑だけではなく、家族全体や若年層育成という側面においても影響してくる問題です。なのであまり軽く考えるのではなくもっと大々的に取り上げるべき問題だと思いますが、教内の感覚では比較的軽く考えられる傾向があると僕は感じます。

 

【姑】

 

これは僕のおばあちゃんを観察する中での僕の感想なので、そこを理解していただきたいのですが、おばあちゃんは自分がピラミッドの頂点だと考えているのだと思います。そして、自分の息子をかなり美化して捉えています。なので、自分と自分の息子に刃向かう嫁という存在をうっとしいと思う傾向があるようです。

 

特に天理教では、親孝行の思想が強く、親に意見することを悪と考える傾向が強いです。なので、特に、天理教の教会や熱心な信者の家に嫁がれている方々は信仰的にも逃げ場のない状況になるケースが往々にしてあると思います。

 

【嫁】

 

僕のお母さんを観察していて思うことは、基本的に人の意見を聞かないです。自分の意思を押し切る所謂、我が強いタイプです。だから、姑に何を言われても我が道を行きます。だから常に反発し合ってます。

 

新しい世代の人たちは古い世代の人たちの考え方ややり方を否定する傾向が強いです。なので、姑に言われても、今はそんな時代ではない。 と思う傾向が強いのかな?と思ったりします。

 

 

【ジェネレーションギャップ】

 

ひと昔前の結婚観は、結婚を家対家の行事として捉えられる傾向が強かったですが、最近は個人対個人の行事として捉える傾向が強まってきていると感じます。なので嫁は旦那と結婚したのであって、その両親の面倒をみる為に結婚したのではないと考える傾向が強まりつつあるように感じます。

 

結婚を家を 引き継いでいくこと という思想で育った人と 新しい自分たちの家族を創ること という思想で育った人の 価値観の隔たり はかなり大きいです。

 

【親孝行】

 

天理教内でこの嫁姑問題を治めようとする時、真っ先に説かれるのが、親孝行 です。どんな中も、親を立てて たんのう して通りなさい。僕のお母さんもよく上級教会の奥さんに言われています。

 

しかし、僕の観る限りでは、お母さんは日々かなり たんのう していると思うし、口ごたえ はしますが、行動はかなり 親孝行 です。なのでそんな人に 親孝行 して たんのう して通りなさい。なんて言ってしまうと、逆にその人を追い詰めてしまうと思います。幸い僕のお母さんはアイアンスピリットの持ち主なので、何も問題になってないですが、弱い人は精神的に追い込まれていくと思います。

 

 

【諭すべきは両方】

 

 

天理教は、親孝行 の思想をかなり拡大解釈している傾向があると思います。なので、嫁姑問題で諭されるのは基本的に嫁の比率がかなり高くなります。下手をすると、姑にはお咎めなしみたいなケースも少なくないです。

 

確かに 親孝行 は大切です。しかし、それは子どもからの視点においてです。親 からの視点で親孝行の大切さを説いてはいけないと思います。そして、姑にもしっかり 子を満足させることの大切さ を説くべきだと思います。

 

せんしょのいんねんよせてしうごふする

これハまつだいしかとをさまる(1-74)

 

です。お互いが いんねん  の自覚ができるような諭しをしてあげるべきだと思います。

 

お母さんのやり方におばあちゃんがクレームをつける時があります。また逆のパターンもあります。僕が聞いている限り、どちらも間違ってないです。ただやり方が違っているだけです。ただ2人共自分の意見を他者に押し付けようとする傾向があります。他者には他者のやり方があります。問題が起こらない範囲内であれば、関与しないというマインドも必要だと思います。

 

【最後に】

 

僕は、ある講社でこんな話をさせていただいたことがあります。

 

天理教では、一般的に、親孝行の思想が強く、親に意見することは、あまり好まれない傾向が強いです。

 


しかし基本的には、人間は皆きょうだいです。おさしづでは、

 


可愛から口説き話やで。しっかり聞き取れ。これ言えばどうやら、これ言えば入り難くい出難くいというようでは真のより兄弟と言えるか。遠慮気兼人間の義理を病むは一のほこり、悪気とも言う。さあすっきり掃除、明らかならばどんな雨風でも怖わい恐ろしいは無い。すっきり掃除をして心に錠前を下ろして置け。遠慮気兼は要らん。すっきり要らん。遠慮気兼はあってはどうもならん。遠慮気兼あっては真の兄弟と言えるか。互い/\の疑いは神の理やない。このやしき神やしきと言う。どのようにも言う。皆伝えるよう。すっきり掃除が出来ねば寄る理は無い。大抵の道は説いてある。

(明治二十四年十一月十五日)

 


と言われています。

 


なので思ったこと、言いたいことは言えばいいと僕は思います。

 


ただ、相手に不足ささないよう心を配る必要はあると思います。相手に不足させるのは自分が不足するより深いいんねんを積むことにも繋がります。

 


おさしづに

 


皆来る者優しい言葉掛けてくれ/\。道には言葉掛けてくれば、第一々々やしきには優しい言葉第一。何も知らん者、道はこんなものかと思てはならん/\。

 


と言われています。

 


相手に不足させないよう優しい言葉で、お互いがお互いを尊重し、わかり合うようつとめることが陽気ぐらしにも繋がると思います。

 


お互いに、親神様、おやさまにお喜びいただけるような通り方をさせていただきましょう。

 

人間は一れつ皆きょうだいです。高低の概念を用いて相手を変えようとする諭しではなく、お互いが成人できるような悟りをさせていただきましょう!!

 

僕の日々の生活で感じたことを綴っていますので、全てのケースに当てはまる見解ではないことをご理解いただき、こんな考え方もあるだな! くらいで受け止めてくれると嬉しいです。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

教会と教会長と道専務!!!

皆さんこんにちは!!

 

絶賛通常運転中の 僕 です。

 

今回は、 ダラダラ  行きます。

てか最近ずっと ダラダラ ですね(笑)

 

目次

 

 

突然ですが、道専務って言葉知ってますか?勤労することなくお道の上に従事する人のことをこう表現します。まさに The Tenrikyo な人たち、それが 道専務 な人たちです。

 

僕は因みに サラリーマン教会長 なので道専務じゃないです。

 

教会長は道専務じゃないとダメなんて意見を聞くとちょっと耳が痛いですよね(笑)

 

逆に、教会長も勤労しろよ! なんて意見も聞いたりします。

 

 

【働く教会長】

 

 

実際、教会長って勤労できるの? てことなんですけど、できます。てかできちゃってます。ただ、かなりきついです。職種によってもだいぶ違うでしょうが、僕みたいな サラリーマン で 教会長 の職務を全てこなすのは本当に大変です。また、勤労してる会社に理解がないと難しいですし、実際、一緒に勤務している同僚にもかなり無理言って負担かけてます。

 

教会長 って見た目めっちゃ暇そうでしょ?実際結構やる事あります。まぁ 教会長 さんによってはある程度融通きかせてこなす方もおられると思うんですけど、僕は 真面目 なのでというより、融通がきかない性格なので極力こなすようにしてます。

 

折角、教会長の理を許されたんだからやっぱり歴代の教会長さん達がこなしてた業務はきっちりやりたい!! と僕は思ってます。

 

教会長って何やってるの? てとこをご紹介しますと、これはあくまで一例ですが、支部例会、自教会祭典準備、祭典、上級教会祭典、大教会当番、大教会月次祭、本部月次祭、後うちは、講社が3ヶ所あるので、その講社祭参拝、で合間を縫って布教活動等をします。

 

僕が、担任している教会は島なので大教会当番に入るとなると3日、本部月次祭は2日休みをもらいます。なので月トータルの休みは、13日は必要です。これはあくまで一例ですし、島っていう特殊な環境なので参考にならないかもですが、休みは全て天理教関係で潰れます。さらに僕はまだ青年会の会員なのでその行事に参加するとなると月半分以上休みもらわないと無理です。

 

教会長 も働いて収入を得るべきって意見を聞くと、厳しい意見だなぁと僕は感じます。

 

教会長も人間です。スーパーマンじゃありません。

 

って声を大にして言いたいですね(笑)

 

 

【道専務】

 

 

僕は、サラリーマン教会長 ですけど、道専務推奨派 です。何か微妙なポジションですけど...

 

道専務 でやれる力があるならそれに越したことはないと思います。教会長 は伊達や酔狂で 理 を許されていません。信仰的には、おやさま から直々に許されているわけですから、片手間でやるなど言語道断です。教会に繋がる信者さんをしっかりまとめあげて教会として親神様、おやさまに喜んでもらえるように尽力すべきですし、それは片手間でできるような事ではないと思います。

 

自分で言っててかなり耳が痛いですが...

 

しかし、実際問題、教会施設を維持管理していかないといけない現実もあります。なので僕みたいな末端教会の会長は勤労しなければやっていけない現状もあります。

 

道専務でやれるなら絶対そうすべきです。無理に勤労する必要もないし、そんな暇があるなら、布教活動等に従事すべきだと思います。

 

ただ道専務でなければならないという考え方で縛ってしまうのも問題です。それぞれの教会にそれぞれの事情があります。

 

【教会】

 

何より、まず教会という建物がある以上、それを維持管理しなければならない。そして、その為にはお金がかかります。その現実はどのような現状の教会にも例外なく押し寄せる現実です。

 

教会後継者を教会家族から選出する風潮から教会が教会家族の家と化している教会も少なくないですし、教会に繋がる信者さんも特に若い人たちはそう認識している人たちが多いですが、教会はあくまで教会であって家ではありません。教会の維持管理の費用を教会家族だけに課す考え方は違うと思いますし、教会家族も自分たちの家の如く使うのは違うと思います。

 

教会 は信仰を深める場です。教会 に繋がる信者さんたちが協力してその場を維持管理することは至極当然だと思います。ただ、そうならないのはやはり実際に教会を任されている 教会家族 とその教会に繋がる信者さんたちの意識に問題があるのだと思います。

 

教会を家化することなく、信者さんたちが信仰を深められるような雰囲気を創ることがとても大切だと感じます。そして信者さんたちも教会家族 に配慮してあげて、ある程度のプライベートを確保してあげる。そういう関係性の中に、雰囲気の良い教会はできていくのだと思います。

 

 

【最後に】

 

教会については色々な意見があり、賛否両論が分かれます。教会は必要ないという考え方の人たちも少なくないと思います。

 

ただ、僕は教会は必要だと思います。個人で信仰を深めることももちろん大切ですが、やはり限界があると思います。行き詰まった時、同じ志を持った人たちの存在はかなり大きいです。そしてその人たちとの関わりの中で個人では味わえないような深い味わいを感じることができるのだと思います。

 

お互いがお互いを思いやり、励まし合い、勇ませ合い、陽気ぐらしの姿を地域社会に映していく。その為の教会だと僕は思ってます。

 

そして、その教会をまとめあげる役職にある教会長はやはり 道専務がベスト!!

僕はそう思います。

 

あくまで個人の見解です。

 

ご拝読ありがとうございました。