離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

僕の教理研究②

皆さんこんにちは!!

 

僕です!!

 

今回は僕の教理研究シリーズ第2弾です!!

 

今回のテーマは  ズバリ!!

 

い ん ね ん ! ! ! 

 

です。

 

天理教の教えの中で1番納得いかない教理ですよね(笑) 逆にこれが納得できれば  最強 よふぼく になれるんじゃないかと僕は思います。

 

それではまいります!!!

 

目次

 

 

 

【いんねん 】

 

天理教には、 いんねん  という教理があります。この いんねん  とは、はたしてどのようなものなのでしょうか。今日はこの いんねん  について考えていきたいと思います。

 


そもそも いんねん  という言葉の由来は〈仏教〉にあります。言葉の意味を調べてみると


物事はすべて、その起原(=因)と、果(はて)を結ばせる作用(=縁)とによって、定められていること。転じて、物事の持っている定まった運命。 理由。由来。

 

だそうです。

 


つまり、いんねん とは原因と結果を結ぶことであると解釈します。

 


おふでさきでは いんねん  についてのお歌は十三首でてきます。

 

 

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ 
よろづいさいのもとのいんねん(1-6)


このよふハあくしまじりであるからに
いんねんつける事ハいかんで(1-62)


せんしょのいんねんよせてしうごふする
これハまつだいしかとをさまる(1-74)


二二の二の五つにはなしかけ
よろついんねんみなときゝかす(3-147)


どのよふなところの人がでゝきても
みないんねんのものであるから(4-54)


にんけんをはじめだしたるやしきなり
そのいんねんであまくたりたで(4-55)


けふの日ハなにかめづらしはじめだし
よろづいんねんみなついてくる(4-60)


いんねんもをふくの人であるからに
とこにへだてハあるとをもうな(4-61)


月日より三十八ねんいぜんにて
あまくだりたる元のいんねん(7-1)


月日よりそのいんねんがあるゆへに
なにかいさいをはなしたいから(7-2)


この月日もとなるぢばや元なるの
いんねんあるでちうよぢざいを(8-47)


月日よりひきうけするとゆうのもな
もとのいんねんあるからの事(11-29)


いんねんもどふゆう事であるならば
にんけんはぢめもとのどふくや(11-30)

 


天理教では、この いんねん  という言葉を都合の悪い事が起こってきたときの諭しとして使う場合が多いですが、おふでさき での いんねん  の使われ方を見てみるとネガティヴなイメージで使われているのは(1-62)だけです。

 


また、教祖伝逸話篇90「一代より二代」という逸話の中でおやさまは

 


神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。

 


と仰っています。

 


この事から僕は、都合が悪い事だけに いんねん  が作用しているのではなく、この世で起こってくる全てのことに いんねん は作用していると考えます。

 


僕は、この世で起こりうる全ての要素(原因)は全ての人間が持っていると考えます。

しかし、皆、人それぞれ起こってくることは違います。僕はその違いは、その原因と縁があるかどうかだと思います。これが いんねん という考え方だと理解します。

 


それではこの いんねん はどのように決められるのでしょうか。それは、それぞれの人間の日々の心遣い、行動で決まってくると教えられます。

 


そして、 悪いんねん を創らないよう教えられたのが、 八つの埃  の教理です。

 


この いんねん の教理自体だけを考える時、とてもシンプルな教えだと感じますし、とても理にかなっています。

 


しかし、天理教にはこの いんねん の教理を複雑化し、尚且つ切っても切れない教理があります。

 

 

【かしもの、かりものと出直し】

 


それが、 かしもの、かりもの そして 出直しの教理 です。

 


おふでさきに

 


にんけんハみな/\神のかしものや

なんとをもふてつこているやら(3-41)

 


にんけんハみな/\神のかしものや

神のぢうよふこれをしらんか(3-126)

 


と歌われています。

 


借りる という言葉の意味は

 


あとで返す約束で、人の物を一時的に自分のもののように使う。

 


使用料を払って一定の期間自分の用に使う。

 


だそうです。

 


つまり、僕たち人間は、親神様と返すという契約をして、この身体を自分の用に使っているわけです。それは即ち、いつか返す時が必ずくる という事です。

 


そして、身体を返す事を 出直し といいます。

 


出直し の言葉の意味は

 


いったん引き返し、改めてはじめる最初からやり直す。

 

だそうです。

 


ここで勘違いしてはいけない事は 出直し= 死 ではないという事です。

 


死 とは

 

命が絶える。しぬ。なくなる。生気がない。活動力がない。

 


という意味で言葉の意味からしても別ものと考えるべきだと僕は考えます。

 


出直し は新たなはじまりのイメージ。

 


死 は終わりのイメージです。

 


このイメージの差はかなり大きいと思います。

 


魂はどこにいくのか?という疑問については教祖伝逸話篇110「魂は生き通し」という逸話のなかで

 


お側の者が、「お一人で、お寂しゅうございましょう。」と、申し上げると、教祖は、

 


「こかんや秀司が来てくれるから、少しも寂しいことはないで。」

 


と、仰せられるのであった。

 


と語られているので、この世にとどまり続けると考えます。

 


そして時期が来れば、その魂に相応しい身体を借り、 いんねん をつけられて、この世に生まれ出ます。

 

 

【前生のいんねん】

 


この時つけられる前生の いんねん が非常に厄介なのです。

 


今世でついた いんねん であれば、自分のこれまでの通り方を顧みれば、容易に納得できます。しかし、前生の いんねん は自分の身に憶えがない分、なかなか納得できない、特に自分に都合の悪い いんねん になると尚更です。

 

しかしこの事を納得しなければ自らの運命は拓けていかない。それが、お道の教えだと僕は考えます。

 


良き人生を送ろうと思えば、まず過去の自分の行いを顧み、悪いところを反省し、同じ過ちを起こさぬよう、今という時間を大切に生きる。それにより未来が拓けてきます。

 


世間一般の人生観では今世の人間の時間軸の中でそれが行われます

 


しかし、お道の教えを聞いている我々は、今世の人間の時間軸の範囲だけで考えるのではなく、神様の時間軸で考えることが非常に大切だと僕は考えます。

 


僕たち、お道の教えを聞いている者の人生観は、過去=前生  、今世  、未来=来世 と考えるべきと僕は考えます。

 


しかしながら、僕たちには前生の記憶がありません。なのでどのような いんねん がつけられているかもわかりません。どのような いんねん がつけられているか分からなければ、自覚のしようもないし、改善もできません。どうすれば、前生の いんねん を悟ることができるのでしょうか。

 

その方法をおさしづに求めました。

 

おさしづでは

 


前生のいんねん、世界で心皆現われる。世界の鏡に映してある。難儀の中の難儀不自由の理を見て、一つのたんのの理を治めてくれ。

(明治二十年上原さと三十七才身上願)

 


難儀さそという親は無い。なれども、いんねんという理をある。前生いんねんというものは、皆世界に映してある。不自由の不自由、身上に不足ある者もある。世上見て一つを洗えと、一つの理を諭しよと。

(明治二十年数宝友三郎四十才娘ゑい二十三才てんかんに付伺)

 


心通りを皆現わしてある。前生や/\、前生のいんねんや。理を聞き分け。生まれ更わり/\、前生のいんねんや。心通りを皆映してある。この理をよう聞き分け。

(明治二十年佃巳之吉三十一才身上願(池之嶋村))

 


前生のいんねんという処の理もある。世界は鏡と言うてある。どんな者でも一つ/\心ある。心通り身に現われてある。身を人に見せられんというもある。身に現われるは世上のいんねんと言うてある。そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。

(明治二十年峰畑為吉二十七才願(宇陀郡見田村講元))

 


とあります。

 


いくらか抜粋しましたが、これらの おさしづ から考えると、自分の置かれている環境、また起こってくることが いんねん を写しだす鏡のようなものだと悟れます。

 


また おふでさき にも

 


せんしょのいんねんよせてしうごふする

これハまつだいしかとをさまる(1-74)

 


とあります。

 


どうやら自分の置かれている環境、また関わりのある人たちから いんねん の自覚はできそうです。

 

 いんねん の自覚の仕方はわかりました。それにより いんねん は自覚できるでしょう。それではどうすれば 悪いんねん を納消できるのか、という事が問題になります。

 


それについて前述したおさしづの中に さんげ たんのう という言葉が出てきます。

 

僕はこの二つがキーポイントになると考えます。

 


さんげ の言葉の意味は

 


自分の犯した罪過(ざいか)を悔悟(かいご)、告白し、許しを求めること。

 

だそうです。

 


つまり、 いんねん の自覚ができたならば、その事をしっかり反省し、親神様にお詫び申し上げる事が大切だと考えます。

 


そして、しっかり たんのう の心を定め日々通る中に 悪いんねん は納消していくものと考えます。

 


たんのう の言葉の意味は

 


十分に満足すること。気が済むこと。納得すること。

 

だそうです。

 

今、置かれている環境から前生の いんねん を悟り、 悪いんねん を自覚して、しっかり反省し、親神様にお詫び申し上げると共に、自分の置かれている環境が自分の いんねん に相応しいものであると納得し、満足して通る日々こそ 悪いんねん 納消の道だと悟ります。

 


たんのう の心を定める為には、自分の考え方や感性が全てではないという事を理解し、心に治めることが大切であると僕は考えます。これが 癖、性分をとる という事だと思います。

 


教祖伝逸話篇123「人がめどか」

 


という逸話の中で教祖は、

 


入信後問もない梅谷四郎兵衛に「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」と、お諭し下された。

 


と語られています。

 


人間は皆、育った環境が違いますし、世代が変われば時代背景も違います。それにより 教育 も異なり、 考え方や感性 はそれぞれに違います。

 


おふでさきでも

 


をやこでもふう/\のなかもきよたいも

みなめへ/\に心ちがうで(5-8)

 

と歌われています。

 


お互いがお互いの違いを理解し、尊重し合うことが大切だと考えます。

 


しかし、そうは言ってもどうにも納得できない環境というのも往々にしてあります。そういう場合はどうすれば良いのでしょうか?

 


僕は 悪いんねん 切る道には二通りあると考えます。

 


一つは、その 悪いんねん を真正面から受け止め通り切るやり方。

 


そしてもう一つは他者の 悪いんねん に寄り添い、世話取りをすることによって自らの 悪いんねん をも一緒に切ってもらうやり方。つまり おたすけ をさせてもらう事によって 悪いんねん を切るやり方です。

 


自分に通り切る力があるなら前述のやり方もありだと考えます。

 


しかし、通り切る力がない、あるいは 悪いんねん が悪過ぎる場合、やはり後述の通り方をするしかないでしょう。

 


それに後述のやり方は二人で一つの 悪いんねん を切ることにより、その実、二人分の 悪いんねん を切ることができるわけですから労力的にもかなりの エコ です。

 


まさに、おふでさき 

 


わかるよふむねのうちよりしやんせよ

人たすけたらわがみたすかる(3-47)

 

 

のお歌で歌われている 人救けたら我が身救かる です。そしてこの姿こそ たすけあい の姿だと悟ります。

 


これが僕の いんねん に対する悟りです。

 


ここで、非常に興味深い記事を紹介します。

心理学において「鏡の法則」と言われる理論です。

天理教の「いんねん」の教理と非常に酷似しています。

 

http://individual.polaris-heart.com/05_rules/mirror/

 

 

【最後に】

 

 

前生の いんねん の自覚に最も大切な事は、  かしもの、かりもの  出直し の教理を心に治めることだと考えます。この二つの教理が心に治まらなければ、なかなか いんねん の自覚は難しいと考えます。今世の人間の時間軸の中での考え方では、前生の いんねん の自覚はできません。 前生、今世 、 来世 という神様の時間軸で物事を捉える。その為には かしもの、かりもの  出直し の教理を心に治めることが必要不可欠です。これこそが おふでさき 

 


めへ/\のみのうちよりのかりものを

しらずにいてハなにもわからん(3-137)

 


と歌われる所以だと悟ります。

 


皆、それぞれに いんねん の姿は違います。しかしそれは、神様が不平等なのではなく、全て自分自身が通り来たる道の結果である という事を理解し、心に治める必要があります。前述のおさしづの中でも

 


難儀さそという親は無い。なれども、いんねんという理をある。

 


と仰っています。

 


いんねん の教理は絶望感を煽る教理ではありません。自分の置かれている現状をしっかり把握し、そこから未来を切り開く教えです。お互いしっかりと 悪いんねん を自覚し、 さんげ するとともに たんのう の心を定め、 悪いんねん を切る。この たんのう の通り方こそ、私は 陽気ぐらし だと考えます。そして気をつけなければならない事は、 いんねん が切れたからといって、その原因が無くなったわけではないという事です。その原因がある限りまた縁が繋がる可能性があるという事です。その事をしっかり肝に銘じ、 悪いんねん という 縁 を結ばないような通り方をお互いにさせていただきましょう。日々 たんのう の心を定め、 陽気ぐらし を実践する。それが親神様、おやさまにお喜びいただける通り方だと僕は考えます。

 

 

いかがでしたでしょうか?

 

正直、僕もこの いんねん  の教理が心に治っているかと言われるとまだまだです。

 

まぁしかし、今は治っていなくとも、先はまだまだ長いです。

 

ゆ〜っくり、なが〜い 心持ちでお互い心に治めることができるよう日々精進していきましょう!!!

 

また、これは1個人の解釈ですのこれが正しいわけではないという事もご理解いただきたいと思います。

 

ご拝読ありがとうございました。