僕の教理研究③
皆さんこんにちは!!
僕です!!
今回は僕の教理研究シリーズ第3弾です!!
今回のテーマは お尽くし!! です。
それでは、僕、いっきまーす(アムロ・レイ風)
目次
【お尽くし】
今日は お尽くし について考えてみたいと思います。
天理教でこの言葉を使う時、それは十中八九 金銭的な大きな御供 という意味で理解して間違いないと考えます。
普請や記念祭などの 旬 を迎えている時に頻繁に使われる言葉です。
しかしながら、天理教の三原典の中に お尽くし という言葉は出てきません。
教祖伝逸話篇の中でも使われていない言葉なので おやさま が使われていた言葉ではないのではないかと推察します。
僕がリサーチした限り、世間一般にも存在しない言葉なので、恐らく先人、先輩方が創られた 造語 が、長い年限の中でいつしか教理用語として定着したものと推察します。
何故このよう造語が創られたのか。その経緯は定かではありません。しかしおふでさき、おさしづの中で 尽くし、尽くす という言葉が使われているので、そこから派生したものと推察します。
尽くす の言葉の意味は
なくなるようにする。終わらせる。できるかぎりのことをして、これ以上はないという状態にする。
だそうです。
おふでさきで は 尽くし、尽くす の言葉が使われているお歌は九首あります。
にち/\に心つくしたそのゑハあとのしはいをよろづまかせる(1-67)
にち/\に心つくするそのかたわむねをふさめよすゑハたのもし(2-28)
なにもかもごふよくつくしそのゆへハ神のりいふくみへてくるぞや(2-43)
いちれつのこともがかハいそれゆへにいろ/\心つくしきるなり(4-63)
ないせかいはじめよふとてこの月日たん/\心つくしたるゆへ(6-85)
月日よりたん/\心つくしきりそのゆへなるのにんけんである(6-88)
いまゝでも月日の心だん/\とせへいゝばいにつくしいれども(12-11)
しんちつが神の心にかなハねばいかほど心つくしたるとも(12-134)
にち/\に心つくしたものだねを神がたしかにうけとりている(号外)
親神様が人間創造にあたって苦心された様子や今なお親心を持って導き続けられている心情、 心を尽くす ことの大切さが歌われているお歌が多いです。
天理教の教理は心(精神)の在り方を説いています。それは自分自身の心の拠り所だと感じます。よって 尽くし、尽くす の言葉は心の在り方を説く時に使われるべき言葉だと考えます。おやさま もそのように使われていますし、それ以外の意味を孕むような使い方はしない方がいいと考えます。
尽くし、尽くす という感情。それにより行われる行為、それは自発的に行われるべきことであって、強制されるものではない と考えます。
この 尽くし、尽くす という感情は何処から湧いてくるのか。僕はそれは 恩 を感じる心から湧いてくると考えます。
僕たち人間は日々親神様の御守護の中で生かされています。そして、お道の教えを聞いている僕たち よふぼく お互いはその事を知っています。
親神様は人間創造から現在に至るまで休むことなく、私たち人間を御守護され、心を尽くされています。
おふでさきでも
いちれつのこともがかハいそれゆへにいろ/\心つくしきるなり(4-63)
ないせかいはじめよふとてこの月日たん/\心つくしたるゆへ(6-85)
月日よりたん/\心つくしきりそのゆへなるのにんけんである(6-88)
いまゝでも月日の心だん/\とせへいゝばいにつくしいれども(12-11)
と歌われています。
僕たち よふぼく はこの親心をしっかりと受け取りその心に報いる通り方をしなければならないと思います。
それこそが世界だすけの道を陽気ぐらし世界実現に向かっての歩みを進めることと考えます。
僕たち一人一人が親神様、おやさまの 名代 であり、その 理 を取り次ぐ 取次ぎ人 であるという自覚を持って、誠の心 で通る日々こそ お尽くし であると解釈します。
おさしづの中では
一つの心を運び尽して置いた事は、神見て放って置かん。(明治二十一年 秋中津 今村熊太郎手の出来物に付伺)
身上に事情内々に一つの事情、早く聞き取りて、いかなる事やと思うかな。これまで真実尽したる処、十分受け取りてある。(明治二十一年八月二十一日(陰暦七月十四日)午前八時上田善兵衞三十六才願)
と言われています。
また、おふでさき でも
にち/\に心つくしたものだねを神がたしかにうけとりている(号外)
と歌われています。
誠の心で 尽くした理 は 親神様、おやさま は十分受け取ってくださっています。その 尽くした心の理 に 世界だすけの理 ができて、世界は 陽気ぐらし の世の中へと建て替わっていくのだと悟ります。
尽くす という行為は親神様の望まれる 陽気ぐらし世界実現 への歩みそのものだと私は解釈します。
教会や教会長の思惑の上に 尽くす のではなく、親神様の思惑の上に 尽くす 事が大前提な事は言うまでもありません。
しかし、気をつけなければならない事はこの 尽くす心 は決して他者から 強要 されるものではないということです。
あくまで自分自身の 心から溢れ出す感情 であるということです。
特に現代社会では色々な価値観が存在し、それぞれの価値観が認められる時代です。
そして、 恩 という 価値観 を持たない人間も現実にいるという事を理解しなければならないと思います。
僕自身、これはとても残念な事だと感じます。しかし、それもまた現実です。
生きる という行為、それ自体が決して一人では成し得られない行為です。僕たちは誰しも例外なく、自然と他者の恩恵を受けて日々生活しています。この事実に気づけば 恩 という 価値観 は自然に生まれてくると感じます。
しかし、それに気づかない人間がいます。それは幼少期の教育の中で、その事を教えられていない、また、それが感じられる体験をしていないという事だと思います。
おさしづでも
もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ/\年取れてからどうもならん。(明治三十三年十一月十六日上原佐助小人出物の障りに付願)
と言われています。
幼少期からしっかりと 親神様、おやさま の親心、そして人と人との関わりの中で 生かされている という事を教え、また体験させる為に、まずは僕たち大人がその事に感謝し、 恩 に報いる通り方をすることが大切であると感じます。
恩 という価値観 を育む。それにより 親の思いを感じる。これが心の成人 なのだと思います。そして親神様、おやさまは、 心の成人 を何よりも望まれています。
おふでさきでも
だん/\とこどものしゆせまちかねる神のをもわくこればかりなり(4-65)
と歌われています。
ここで使われている 出世 という言葉は 偉い地位に就く事や権力を得る事 ではないと考えます。
出世 という言葉の語源、由来は
仏教用語で「俗世間の煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)し悟りを得ること」を意味する「出世間(しゆっせけん)」が略された言葉である。仏教の世界に入ることも言い、僧侶のことを「出世者(しゅっせしゃ)」と呼んでいる。日本では、公卿(くげ)の子息が剃髪(ていはつ)して出家し、僧になったことを「出世者」といった。とくに彼らは昇進が早かったため、僧の高い位になることを意味するようになり、現在の意味に変化していった。(語源由来辞典より抜粋)
とあります。
この場合、おやさま は 出世間 の意味で使われていると解釈します。
つまり、世の中の世間一般的な考え方に捉われるのではなく、親神様の思惑を悟り、その親心に沿った生き方をする心を定めることを親神様は望まれていると解釈します。
ここで 恩 について、おもしろい記事があるので紹介します。為末大さんのブログの記事です。
http://tamesue.jp/blog/archives/think/20150213
【最後に】
おやさまは 尽くす 事の大切さを説かれいますし、おふでさき や おさしづ からも 尽くす 事によって、人生が拓けていく事は理解できます。尽くす という価値観は信仰の上においてもとても大切な事だと感じます。
しかしながら、 尽くさなければならない とは仰ってはいません。即ちそれは強要はしていないという事だと思います。 尽くす という感情は自分自身の心の内から溢れ出すのが 自然 であり、それが 誠の心 だと悟ります。
人間は皆、親神様から 心の自由 を許されています。どんな心遣いをするのも 自由 です。そこは他者の踏み入ることのできない 領域 だと思います。
おかきさげの中では
どうせこうせこれは言わん、これは言えん。言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。
と言われています。
ある歴史学者は
今ある解釈を疑え !!!
と言いました。
長い年限の中、数多の先人、先輩達の言葉には、確かに私たち現代の信仰者を勇ませ、導いてくれるものが多くあります。
しかし、 先人の言葉=おやさまの言葉 ではない という事も理解しなければならないと思います。
お尽くし という言葉もその一つだと思います。
一人の信仰者の信仰信念としての価値観としては非常に素晴らしいと感じます。しかし、あくまで 信仰信念 であって 信念=教理 ではありません。
正しい悟りはどんな立場の人が聞いてもなるほどと納得できるものでなければならないと考えます。その事を僕たち よふぼく 一人一人が肝に銘じ、取次ぎ人 として間違いのない悟りをしていかなければならないと感じます。
おさしづで
さあ/\難しい事は一つも無い、難しい事を言うやない。よう聞き分けにゃならん。どういう事もこういう事も、人間心を以て難しいように仕掛けて来る。何処そこでそら今やならん。元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教には無いで。元々医者にも掛かり、薬も呑み、医者の手余り救けようというは、誰にも医者に掛かる事要らん、薬呑む事要らんというは、どっから出たのや。手余りを救けるのは誰も何とも言うまい。神さんに救けて貰うた、始め掛けのようなもの。めん/\通りよい処を通り難くうする。暫くという、一時難しい、どんならん、暫くの間が難しいてならん。第一道理上運んで置かねばならん。この理取り損いするからどんならん。この道から教会はあろうまい。規約々々という、教会規約一時運び切って出したる限りは治めにゃ。その道変えて皆めん/\で、めん/\に抜けられぬように道を拵える。どうせこうせは言わん。一時治まって了う。さあと言えば直ぐに手順を運ぶ。暫くの間や。それさえ心得、皆んなそうかい、所々でおかしい風説、何かの処、取り決まって一人のために万人ほかして了わにゃならん。
と言われています。
一人のため万人ほかしてしまうこととならぬよう、自戒を込めて、深く心に刻みたいと思います。
今日は お尽くし についての自分自身の考え方をまとめてみました。
しかしこれは僕自身の考え方であり、これが正しいわけではないという事を理解していただきたいと思います。
また天理教で一般的に行われる お尽くし という行為自体を否定しているわけではありません。それにより人生を切り拓いた方々も数多といますので、その事も理解していただきたいと思います。
これが僕の お尽くし に対する考え方です。
現代のお道の言葉には おやさま が使われていた言葉と 先人、先輩方 の信仰信念から造られた言葉が混同していて混乱してしまうケースが往々にしてあります。
教えを説かれたのはあくまで おやさま です。その事を肝に銘じ、慎重に言葉を選ぶ必要があると思います。
僕自身もその事に注意して、日々精進したいと思います。
今回はここまでです。
ご拝読ありがとうございました。