離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

僕の教理研究④

皆さんこんにちは!!

 

僕です!

 

今回は僕の教理研究シリーズ第4弾をお届けしたいと思います!

 

テーマは

 

L.G.B.T !!!

 

このテーマを天理教の教理的にどう考えていけばいいのかを自分なりにまとめていきたいと思います!!

 

今回はかなりの冒険ですが、勇気 を出して チャレンジ  していきたいと思います!

 

どうか暖かく見守ってやってください!!

 

目次

 

 

【L.G.B.T】

 

先ず L.G.B.T って何?ってところからいきます!

 

L(Lesbian ):

レズビアン(女性の同性愛者)

 

G(Gay ):ゲイ(男性の同性愛者)

 

B(Bisexual ): 

バイセクシャル両性愛者)

 

T(Transgender ):

トランスジェンダー(性別越境者)

 

レズビアン と ゲイ は分かりやすいと思います。バイセクシャル は両方いける人達です!

 

分かりにくいのは トランスジェンダー だと思います。トランスジェンダーは身体的性と精神的性がマッチしていない人達です!

 

 

【相違点】

 

 

ここからは僕の主観的な考え方ですが、 レズビアン、ゲイ、バイセクシャル と トランスジェンダー は分けて理解した方がいいと思います。

 

レズビアン、ゲイ、バイセクシャル は簡単に言えば 性的嗜好 の問題だと思います。

例えば、僕は 性的嗜好 は 女性ですが、女性であれば誰でもいいって分けではありません。同じ 性的嗜好  が女性の男性同士でも皆それぞれに 性的魅力 を感じるポイントが違うわけです。胸に魅力を感じる人もいれば、お尻に魅力を感じる人もいます。(因みに僕は脚です!)

 

彼ら、彼女らはその 性的魅力 を感じるポイントがただ 同性、又は両性である。ただそれだけなのだと思います。性的嗜好 は人それぞれ違うのが当たり前です。また年限と共に変わってきたりもします。なので、彼ら、彼女らのそういう感覚もごく自然のような気がします。

 

トランスジェンダー は 性的嗜好 の問題ではなく、自分が自覚している性と見た目の性が違う、つまり 心と身体の性がミスマッチしてる ということです。この場合、どちらの性で判断するかということが問題になります。社会での男女の区別化は身体的特徴でなされます。だから問題となるわけで、もし精神的特徴で男女の区別がなされれば問題にはなりません。ただ精神的特徴で男女を区別することは非常に難しく、時間もかかります。

 

 

【認められるべき存在】

 

 

それでは、彼ら、彼女らの 存在 をどう受け止めていけばいいのか?を教理的に思案していきたいと思います。

 

この問題を考える時、ポイントになるのは、かしもの、かりもの 、いんねん の教理だと思います。

 

おさしづでは

 

さあ/\/\いかなる処、一つの理を尋ねるから、理を諭しよう。人間というものは、皆神のかしもの。いかなる理も聞かすから、聞き分け。心の誠、自由自在と。自由自在何処にもあらせん、誠の心にあるのや。身は神のかしもの、心は我がもの、心次第にかしものの理を聞き分け。子多くて難儀もある、子無うて難儀もある。子ある中に、未だや/\、未だ追々という者もある。これ皆前生のいんねんである。いんねんと言うて分かるまい。皆これ世界は鏡、皆人間生れ更わり、出更わりしても、心通り皆身に映してあるから、よく聞き分け。

(明治二十一年二月十五日)

 

それ世界皆同し兄弟や。神はをや、世界は皆かしもの。救けたいは一条や。多くの中/\、心通りを皆現わしてある。前生や/\、前生のいんねんや。理を聞き分け。生まれ更わり/\、前生のいんねんや。心通りを皆映してある。この理をよう聞き分け。めん/\皆同し兄弟や。めん/\も同し兄弟なら、めん/\もあんな身ならと思て成程と心治めて、たんのうをせねばならん。成程の道を知らして置こと。

【明治二十年佃巳之吉三十一才身上願(池之嶋村)】

 


さあ聞き分け。神というは隔て無い。内々とも人間身の内かしもの順序よう聞き分け。世界の処幾何人、順序の理を見て聞き分け。鏡やしき、鏡ならどういう事もこういう事も、皆映る。善き事悪しき事映るであろ。これは前生々々身に現われる。鏡いかなる心定め、たんのう/\心定めるなら、やれ/\。たんのう無くては、受け取る処一つ無いで。

(明治二十年三月二十五日)

 

またおふでさきでは

 

にんけんハみな/\神のかしものや

なんとをもふてつこているやら(3-41)

 

にんけんハみな/\神のかしものや

神のぢうよふこれをしらんか(3-126)

 

このよふハ一れつハみな月日なり

にんけんハみな月日かしもの(6-120)

 

このはなしにんけんなんとをもている

月日かしものみなわがこども(13-79)

 

と言われています。

 

人間の身体は 親神様 からの かりもの であり、どのような身体を借りるかは前生の いんねん  によって決まるということです。

 

そして忘れてはならないのは 心は我がのもの ということです。僕たちはどんな身体を借りるか選べません。しかし、心は自分のもの!自由に使っていいのです。何を好きになろうと、どんな感じ方をしようと自由です。

 

またおさしづに

 

さあ/\これ聞き分け。前々に天然自然と諭したる。天然自然というは、誰がどうする、彼がこうしょうと言うても出来ん。独り成って来るは天然の理。

(明治三十三年五月三十一日)

 

と語られています。

 

つまり、この世で起こってくることは 親神様 の支配される 天然自然の理 によって成ってくるということです。

 

親神様 には人間は皆、可愛い子どもであり、僕たち人間は きょうだい です。隔てなどありません。お互いがお互いの違いを理解し、認め合うべきだと考えます。

 

 

【性転換】

 

 

教理的 に性転換について思案していきたいと思います。教理的 に性転換は推定するべきか否定するべきか、これは賛否両論別れると思いま

す。

 

信仰的 に大切な事は今、成ってきた状況から親の思いを悟る ということだと思います!

 

おふでさきに

 

だん/\とこどものしゆせまちかねる

神のをもわくこればかりなり(4-65)

 

と歌われています!

 

親神様 は一れつ人間の 心の成人 を望まれています。そしてそのために心を尽くされています。

 

おふでさきに

 

いちれつのこともがかハいそれゆへに

いろ/\心つくしきるなり(4-63)

 

と歌われています。

 

この 親心 をしっかりと受けて、思案し 陽気ぐらし世界実現 に向かって確かな歩みを進める。

 

その為には、心穏やかになれる環境 というのも大切だと思います。

 

おさしづに

 

身上障りと言えば、一時どうする事も出けようまい。皆々満足の理を与えば、皆んなそれからそれへだん/\理を運んで、楽しむやろ。(明治三十二年六月十九日)

 


さあ/\それは心に委せ、満足の理を与えてくれ。(明治三十一年八月十七日)

 

大きい心を持って通れば大きい成る、小さい心を持って通れば小そうなる。親が怒って子供はどうして育つ。皆、をやの代りをするのや。満足さして連れて通るが親の役や。皆、満足さして、元のぢばや親里やと言うて、満足して帰るのやで。どんな事も談示して満足さすよう。

(明治二十一年七月七日)

 

と語られています。

 

もし当事者が、どうしてもその 環境や状況 を喜べないのであれば、喜べる 環境や状況 を創ってあげることは、必要な事であると思います。相手を満足させる精神 これがお道の精神だと理解します。

 

ただ親の思いに沿うということが大前提です!

 

そのために医者や薬もしっかり利用させていただいたらいいと思います。

 

おふでさきでも

 

にんけんにやまいとゆうてないけれど

このよはじまりしりたものなし(9-10)

 

この事をしらしたいからたん/\と

しゅりやこゑにいしやくすりを(9-11)

 

と歌われています。

 

よって 今、成ってきた事からしっかり親の思いを思案するという前提 なら 性転換 は推定すべきと解釈します。

 

これは僕の解釈です!この解釈が全てでないということを理解していただきたいと思います。

 

 

【妊娠、出産】

 

 

(LGBTの)彼ら彼女は子供を作らない、

つまり“生産性”がないのです。

 

 

某政治家の方がこんな発言をして物議を醸していました。まぁこれは個人の 価値観 の問題なので何とも言えないです。

子供を作ることを 生産 と位置づけるのはどうかと思いますが...)

 

例えば、スタンダードな 性嗜好 の男性や女性でも、何らかの理由で子どもが授からないケースは往々にしてあります。

 

僕たちは、 宿し込む行為 はできますが、結果 をコントロールすることは できません。

 

現代社会は、医療が進歩し、体外受精 という方法もありますが、それもできるのは 受精卵を着床させるまで です。その後妊娠 にいたるかをコントロールすることはできません。

 

おふでさきでも

 

たいないゑやどしこむのも月日なり

むまれだすのも月日せわどり(6-131)

 

と歌われています。

 

妊娠、出産 は人間の領域外の話です。人間がどうのこうの言う問題ではないと感じます。

 

僕たちお互いが 男の理、女の理  を授けられているという 親心 を悟り、親の思いに沿う 通り方をする。できるのはそれだけだと思います。

 

【最後に】

 

おふでさきに

 

せかいぢういちれつわみなきよたいや

たにんとゆうわさらにないぞや(13-43)

 

をやこでもふう/\のなかもきよたいも

みなめへ/\に心ちがうで(5-8)

 

と歌われています。

 

世界中、一れつは皆きょうだいです。お互いがお互いの違いを理解し、認め合う暮らし。それが 陽気ぐらし に繋がっていくと僕は思います。

 

人間の陽気ぐらしをみて共に楽しみたい という 親の思い に応えられるように歩みを進めさせていただきたいと思います。

 

 

どうでしたか?

 

一応、僕なりの解釈をまとめてみました!

 

なかなかデリケートな問題だし、賛否両論あると思いますが、この解釈が正しいわけではない のでこれからもお互いに 研鑽 させていただきましょう!!!

 

ご拝読ありがとうございました。