離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

信仰の素晴らしさと危うさ

 

皆さんこんにちは!!

 

僕です!!

 

今回は、 信仰の素晴らしさと危うさ と題打って、僕が日々の信仰生活で感じる 信仰するということ を掘り下げていきたいと思います。

 

よろしくお願いします!!!

 

目次

 

 

 

【信仰とは】

 

まず 信仰とはどういうこと なのかということを考えていきたいと思います!

 

信仰 の言葉の意味は

 

神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。


特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。

 

だそうです!

 

僕なんかは 親神天理王命 を崇め、おやさま が説かれた教えを心の拠り所として、この教えが世界だすけの最後(だめ)の教えであるという信念 を持って日々を過ごしています。上記の表現を全て満たしているので 信仰している と言えると思います。

 

皆さんはどうでしょうか?

 

【信仰の素晴らしさ】

 

信仰の素晴らしいところ、それは心の拠り所がある。ということだと僕は感じます。

 

特に現代社会は多種多様な価値観がひしめき合う価値観戦国時代 とも言える時代です。その中で一体何を信じればいいのか?を見失ってしまう人たち、つまり 精神的平衡感覚 を取れなくなる人たちも多くいます。

 

しかし、信仰をしている者 には、教えという 指針 があり、向かうべき 目的地 もあります。

このことが 生きていくという行為 に与えるアドバンテージ はかなり大きいと思います。

 

例えば、ドライブをする時、道を知っているのと知らないのとでは精神的、肉体的疲労度は段違いです。疲労度が低くければ、余裕も生まれます。余裕があれば、その環境や状況を楽しむことができます。

 

せっかくこの世に命を与えられ存在しているのですから、どうせなら楽しい人生を送りたい!

僕はそう思います。

 

もう一つ信仰のある生活で素晴らしいと感じるのは 祈る時間 があるということだと思います。

 

現代人は忙しいです。決められたルールと時間の中で、日々溢れ出る莫大な情報を選り分け、処理しながら、起こってくる問題に対処しそれを解決する。それはとめどなく続いていき、人間の本来の輝きを曇らせます。

 

祈りの時間はそんな現代社会の 潤滑油的な要素 になり得ると感じます。

 

神様と対話する。その中で自分を顧み、反省する。世界の治りと平和を願い、大切な人に思いを馳せる。それは自分と向き合い、自分の存在を再認識する尊い時間である。僕はそう感じます。

 

【信仰の危うさ】

 

信仰をするということ。僕自身それは素晴らしいことだと思います。生きていく指針や目的があるということは人生を豊かにします。

 

しかし、だからこそ陥る危うさも秘めています!

 

特に 純粋 信仰 を追い求めている人たち(もちろん僕も含めて)はその 思想や価値観 が絶対だと信じるあまり、他者にもそれを 強要 しようとします。

 

僕たちは、時間をかけてその 思想や価値観 と向き合い、それにより 共感 し 信仰 をしているわけです。つまり、共感 を感じるまでにはある程度 時間  が必要なわけです。しかしながら、強要  する人たちはその 時間 を与えません。そして、理解しない人たちを 悪 として蔑みます。

 

共感 を感じるまでの 時間 、それは人によっても違いますし、環境や人との出逢いによっても違います。焦らずにじっくりとその人が 共感 してくれるまで向き合い、寄り添うことが大切だと感じます。

 

またある行為を これが信仰だ! と思いこんでしまっているケースもあります。そしてその行為を行わない人、また否定する人を 否定し拒絶 します。

 

信仰 とは 心の在り方 です。行為 ではありません。特に 天理教の教え には こうしなければならない ということは説かれてはいません。説かれているのは 心(精神)の在り方 です。

 

精神からくる行いが 信仰 であり、行い= 信仰 ではありません。この勘違いは往々にして起こります。結果、信仰をしている ということが人を苦しめます。特に教会で生まれ育った人たちは こうあるべき という 価値観 の中で育った人が多いです。故に 信仰 の本来の姿に気付かず 信仰 から距離を置くケースが少なくありません。非常に悲しいことです。

 

【最後に】

 

今回は 信仰の素晴らしさと危うさ と題してお届けしました。いかがだったでしょうか?

 

信仰をするということは本当に素晴らしいことです。しかし、その反面 危うさ も秘めています。

 

大切なことは 自分の教えに対する解釈が本当に親の思いに沿っているかどうか を疑う心を常に心の片隅に持っている事だと思います。

 

人間は自分に都合の良い正義を創る生き物です。その事を僕自身、しっかりと自覚し、今一度、自分の信仰を顧み、教えを自分の都合で捻じ曲げる事とならないよう気をつけ、親神様、おやさまにお喜びいただけるような歩みを進めたいと思います。

 

信仰の喜びや素晴らしいさを知っているからこそ、その喜びや素晴らしさをより多くの人たちと分かち合いたい。そんな想いを込めてこの記事を書きました。その一助となれば嬉しいです。

 

ご拝読ありがとうございました。