離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

後継者の育成

皆さんこんにちは!!

 

今日は雨模様です。

 

皆さんは雨の日、どんな事を思いますか?

僕は、空から水が降ってくるって凄くない!?って思います。

 

自然の力は偉大です!!

 

さて今回は、後継者の育成 をテーマに 育成って何? ってところを掘り下げていきたいと思います。よろしくお願いします。

 

目次

 

 

【宗教離れ】

 

現代の日本における宗教の地位は低下しつつあると感じます。どの宗教も厳しい状況に晒されているようです。特に新興宗教と位置付けられている宗教のイメージはかなり悪いと思います。その大きな原因はやはり1995年に某新興宗教が起こした同時多発テロ事件でしょう。

あの事件からこちら、新興宗教への風当たりはかなり厳しいものとなったと思います。

 

あの事件にしても、悪いのは 教祖と数人の幹部 です。その他の信仰者の方々は恐らく何も知らなかったであろうし、事件が発覚した時、誰よりも驚愕し落胆したのではないかと推察します。また、事件を未然に防ごうと尽力された幹部の方々もおられたでしょう。

 

しかし、マスメディア はその事件を教団ぐるみの犯行として報じました。洗脳、マインドコントロール などの言葉を巧みに使い、新興宗教は危ない集団なのだと言うイメージを植え付けるような報じ方をしました。

 

日本の マスメディア はオーディエンスにウケそうな内容や場面を切り取って報じる傾向があります。もちろんそれは 真実 であるし、報道という仕事が真実を伝えるという観点からすれば何も間違ってはいません。

 

ただ、一つの事件や出来事には多くの 真実 が複雑に絡み合っています。それは、多くの人々の関係性による様々な視点があるからです。なのでただ一つの真実をフィーチャーするとその事件や出来事が歪になり、間違いではないにしろ、偏った捉え方をされる可能性があります。ウケそうな内容を断片的に伝えるのではなく、もっと全体的な背景を捉えられるような報道を僕は望みます。

 

【育成】

 

ここからが本題です。僕は 育成 には2種あると理解しています。

 

1つ目は、育成する側のイメージする形に近づけるように育成していく方法です。教内で言われている育成とは恐らくこちらに近いニュアンスだと思います。ひと昔前の日本でもごく一般的に用いられていた方法です。

 

この方法では、育成する側こそ 正義 です。育成する側のイメージに反する思想や行いは 悪 です。だから育成する側はかなりやり易いとも言えます。

 

ただ、育成される側はかなり窮屈です。育成される側が育成する側のイメージに共感できればそうでもないのでしょうが、共感できなければ辛いと思います。特に個人の才能や能力などは度外視に考えられる傾向もあります。ただその分、精神力はかなり鍛えられるし、協調性も育まれます。

 

実際、教内ではこういう育成が行われているケースが多いようです。しかし、このやり方は、育成する側のイメージに必要以上に厳しく縛ってしまうと、育成される側が自立した時、反発から遠ざかっていくケースが少なくないようです。

 

2つ目は、育成される側のイメージに合わせて育成する方法です。今の日本の教育はこちらにシフトチェンジしつつあると感じます。現代社会の個人の自由な発想や価値観を重んじる風潮からすれば自然な流れなのかもしれません。

 

この方法では育成される側が主導となります。なので育成される側はかなりやり易いと思います。ただ、この方法は能力を伸ばしたり開花させる面においては良い方法ですが、精神面を育てるという面においてはあまり期待できません。なので育成する側はかなり気をつけて接していかないとある種のモンスター的な人間になってしまう恐れがあります。

 

【徳分を活かして】

 

最近教内で 徳分を活かして という声をよく耳にします。これがどういうことなのか僕にはイマイチ理解できません。よくよく聴いているとどうやら 能力を活かして に近いニュアンスで使われているようです。

 

確かに 能力を活かす ことはいい事だと思います。しかしそれは 能力がある場合 です。能力がない人が無理に 能力をつけなければならない と思ったり、能力を見つけなければならない と思う必要もないと思います。能力がないからといって徳分がないとも言い切れませんし、逆もまた然りです。僕は 徳分 とは 心の力 だと理解します。心に力があれば、才能や能力が無くてもおやさまは働いてくださいます。徳分を活かす ことを否定はしないですが、それに捉われ過ぎるのも問題だと感じます。

 

【共に育つ時代へ】

 

真柱様が 育てる側が育つ努力をすることが大切である。 とある講話で話されていて衝撃を受けました。おやさま がまだ現し身を隠される前、お道には直接教え導いてくれる絶対的な 親 がありました。そして、先人、先輩達はその絶対的な親に直接教え導かれて成人していかれました。

 

現在はどうでしょうか。確かに おやさま は御存命であり、今なお僕たちを導いてくれていますが、直接教え導いてはくれません。僕たち現代の信仰者は教えを もと に起こってくることを思案し、親の思いを悟っていくしかないのです。そしてその 芯 となるのが教団においては 真柱様 であり、各教会においては 教会長 になるのだと思います。しかし、それぞれは人間であり、それ故に未熟です。だからこそ 育成する側、育成される側 という意識ではなく、共に育つ という意識が大切なのではないかと思います。

 

人間は 一れつきょうだい です。親 が直接導くことができない今、兄や姉が 親 の代わりとして、弟や妹を導いていくのは自然な流れだと思います。ただ 親 であるという 勘違い はしないよう、自分の未熟さを律し、弟や妹の意見にも耳を傾ける。そして互いに立て合い成人していく姿を 親 は望まれているのではないかと強く感じます。

 

【最後に】

 

今回は、後継者の育成  をテーマに僕が思うことを紹介させていただきました。教育評論家とかでもないですし、完全に素人の見解ですけど、一番言いたかったのは 共に育つ って事です。

 

未熟なお互いだからこそ、たすけあって、勇ませあって、親神様、おやさま にお喜びいただける世界へ一歩でも近づけるように歩みを進めていきましょう。

 

ご拝読ありがとうございました。