離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

いんねんとたんのう!!

皆さんこんにちは!!

 

梅雨の時期、いかがお過ごしですか?

 

じとじとして嫌だなぁ〜とつい思ったりしますが、雨が降らないと困る事も出てくるし、何より くにとこたちのみこと の御守護ですから、喜んで受けさせていただきます。

 

今回は いんねん と たんのう について考えて、まとめていきたいと思います。

 

先ず、僕の いんねん と たんのう についての考え方は、僕の教理研究② で紹介しておりますのでぜひご拝読ください。

 

目次

 

 

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2019/05/09/142225

 

いんねんと信仰

 

年配の信仰者の方々はよく、

 

いんねん切るためにしっかりお道通らしてもらいや。

 

とか、

 

お道切ったらいんねん出るで。

 

とかよく言われます。

 

この場合の いんねん は 悪いんねん の事です。

 

昔は、

 

そうなんだ〜 いんねんって怖いなぁ〜。

 

って思ってて、信仰していれば、 いんねん でないんだと思っている時期もありました。

 

しかし、お道を通らせてもらって、今思うことは 

 

信仰しててもいんねん出てヒィヒィ言うてる人めっちゃおるやん!!

 

です。

 

なので、僕の中で 信仰してれば悪いんねんは出ない!!って神話は崩壊しています。

 

信仰してても 悪いんねん は出る時は出る!!

 

そもそも、何故お道を通るのか?って事ですよ。問題は。

 

それは、ズバリ!!

 

陽気ぐらし世界の実現!!

 

だと僕は思ってるんですけど、間違ってたらごめんなさい...

 

まぁでもこのていで話を進めていきます(笑)

 

その為に 悪いんねん を切る事は確かに大切だと思いますけど、悪いんねん を切るために信仰しているっていうのはちょっと違和感です。

 

たんのういんねんの関係性

 

いんねん の教理と切っても切れない関係にあるのが たんのう の実践です。

 

一般的には、たんのう して通る事で いんねん が切れるみたいな説き方をされると思います。

 

悪いんねん を切る為に たんのう をする。僕も前はそう思っていました。

 

しかし、最近思うんです。

 

本当にそうなのか?   と...

 

おさしづ では 

 

前生のいんねんという処の理もある。世界は鏡と言うてある。どんな者でも一つ/\心ある。心通り身に現われてある。身を人に見せられんというもある。身に現われるは世上のいんねんと言うてある。そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。

明治二十年峰畑為吉二十七才願)

(宇陀郡見田村講元)

 

いんねん前生、これ世界不自由の不自由難儀の難儀の者もある。よく世上見て一つのさんげ。いんねん一つのさんげはたんのう一つの理を治め。これ程尽して居る、澄まして居ると思う心は、これ思わずに、未だ/\道はこれからや、尽す処もこれからやと、いかなる理も聞き分けて、実一つの心で定めて、理を聞き分け。よく聞き分けんや分からんで。

(明治二十年 村田新七二十七才三十日前より胸悩み、未だ速やかならんに付願)

(大和式上郡川合村講元)

 

みたいな説かれ方をしています。

 

この説き方だと、いんねん を切る為に、たんのう するというよりも、たんのう の心を治めさせる為に いんねん を説いていると捉える方が自然なんじゃないかな?と僕は思います。

 

八つの埃

 

僕たち 天理教 の信仰者の心の置き所は、日々の 八つの埃 のさんげだと思います。基本的には現世で起こってくることは日々の心遣いによる行いの結果と考えて間違いないと思います。

 

ただ、身に覚えのない不意な出来事というのはやっぱり起こってくるもので、そんな時の心の拠り所が たんのう なのだと理解します。

 

そして、この たんのう の心を治めさせたい為に いんねん を説かれているのだと思います。

 

 

陽気ぐらし

 

親神様は、人間の 陽気ぐらし する状を見て神も共に楽しみたい。との思いから人間を御創造されました。つまり人間は神様に 陽気ぐらし する状を見せる為に存在していると言えると思います。

 

陽気ぐらし を語る時、忘れてはならないのはやはり、おやさまのひながた だと思います。

一般的に、おやさまのひながた は月日のやしろにお定まりなされてからの50年を指しますが、おやさま が いざなみのみことの魂 のお方、つまり人間創造において母親の魂のお方と考える時、おやさま90年の御生涯全てが ひながた と言ってもいいのではないか!?と僕は思います。

 

その ひながた こそまさに、たんのう であったのではないかと感じます。そして、その姿こそ、陽気ぐらし なのではないかと僕は思います。

 

最後に

 

たんのう の心を治める事は、なかなか簡単な事ではないと思います。正直、僕自身もまだまだ心に治っていないと言うのが現実です。

 

しかし、たんのうの実践 無くして 陽気ぐらし を味わう事はできないと僕は思います。

 

その為にはやっぱり、いんねんの自覚 が必要なのだと思います。

 

ただ、いんねんを切る というマインドではなく、たんのうの心を治めるというマインドをベースに置いた方がなんだかしっくりくる気が僕はします。

 

真に たんのう の心が治りそれが実践できた時、本当に素晴らしい世界が体感できるんじゃないかなと僕は思います。

 

その時まで日々精進です。

 

これは、あくまで個人の意見ですのでそこはご理解いただきたいです。

 

ご拝読ありがとうございました。