離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

教会の後継と教会という場所

皆さんこんにちは!!

 

最近、だんだんと気温も下がり、冬の近づきを感じる今日この頃。いかがお過ごしでしょうか?体調管理にはくれぐれも気をつけてご自愛ください。

 

さて、今回のテーマは

 

教会の後継と教会という場所

 

です。ここ最近は教会の後継について問題を抱えている教会が増えている印象です。僕もこの問題について考えを巡らせることもあり、その中で思ったことを綴ります。

 

それではよろしくお願いします。

 

目次

 

 

【教会という場所】

 

さあ/\尋ねる処、さあ/\皆々どういう事も聞いてくれねば分からん。世界の処、先ず/\一寸治まる。先ず/\銘々又尋ねる事情あるで。尋ねる世界はこれでよい。先ず/\神の道は、先ず/\一年は一年だけ、十分神の道。又々世界でこれで尽せん、先ず/\年々に付きたる処、これは聞いてくれねばならん。又々聞いてくれ。先ず/\処一つの処、一つ事情世界の処は、先ず/\一年経てば、あゝ成程々々。一年々々と経てば、それ委せ置こう。

 

(明治二十一年五月二十日

諸井国三郎分教会設置の願)

 

さあ/\尋ねる一条、一つのさしづ、さあ/\所々に名を下ろす/\。年限経ちた一つの所、案じは要らんで。皆揃うて心を治め。所に理を無けらならん。皆んな心を揃うてすれば、どんな事も出けるで。急く事は要らんで/\。心を揃うて、あちらこちら/\、皆揃うて、心の理をろっくに治まれば、理を治めるで。皆心を揃うて、談示は第一。ろっくに心を治まれば、綺麗に治まる。一日の日、話一日の日。

 

(明治二十一年十二月十一日

郡山天龍講分教会伺)

 

これらは教会設置に関する おさしづ  です。僕は今まで最初に設置された教会は郡山大教会と思っていましたが、どうやら最初に設置された教会は本部のようです。一つ目の おさしづ  を拝見する限りそう考えるのが妥当だと僕は感じました。教会設置の伺いに対して先ずはおぢばに教会を設置するよう神様側から逆にお願いされているという印象です。そして二つ目の おさしづ でこれから所々に教会の設置を許していくと言われています。

 

これらの おさしづ から教会という場所を考える時、

 

  • おぢばにある教会本部が教会のもとである。
  • 教会本部に国々、所々の教会の設置に関する事情は委ねられている。
  • 国々、所々の教会の理はその教会に繋がる人々の話し合いによって治め、定められた心に許されている理である。

ということになると僕は解釈します。

 

教会本部を除いて、国々、所々における教会の理の許しはその教会がある場所に許されているというよりも、その教会に繋がる人々の心に許されているのではないかという印象です。それは、たすけ一条、神一条の上に治め、定められた心であり、だからこそ教会はおたすけ道場と表現されるのだと思います。

 

【教会の後継について】

 

近年は教会の後継について、後継者がいないという問題が深刻化しつつあります。教会の後継者はその教会に生まれた者の中から選ばれるべきという考え方が一般的なようです。確かに教会に生まれるということを信仰的に悟ろうとする時、やはりお道にもその教会にも深い深いいんねんがあると考えることはごく自然なことなのかもしれません。しかしそれを直結して後継者だと考えるのは安易過ぎると僕は思います。教会の理はその教会に繋がる人々の心に許されている理です。教会は教会家族の家ではありません。だからこそ後継者はその教会に繋がる全ての人の中から適切な人が選ばれるべきではないかと僕は思います。

 

ここで勘違いしてほしくない事は縦の伝道が必要ないと言っているのではないということです。教会に生まれるということはお道とその教会に深い深いいんねんがあると考えることが自然だと思いますし、だからこそしっかりと教えを伝え、実践する中に信仰の喜びを感じれるよう導く必要があると思います。お道を信仰することと教会を継ぐことは全く別の問題だと僕は思っています。ここをごちゃ混ぜで考えるからお道から逸れる教会子弟が続出するのだと思います。

 

人間は 親神様 から、身体を借り、心の自由を許されてこの世に生まれてきます。かしもの、かりものの理と心の自由は 親神様 から僕たち一人一人に許されている権利です。誰もその権利を侵すことはできません。後継者として育てられるという事は「こうあるべき」という強い価値観の中で育てられる可能性が高くなり、結果その権利を侵害することになる可能性も高くなると思います。お互いがお互いを尊重し合える関係性を築いていく事が教会での日々では大切なのではないかと思います。

 

【教会を返納するという選択肢】

 

どこの教会も例外なく教会本部に教会設置を願い出て名称の理の許しをいただいています。それぞれの教会によってそこに至る経緯は違うと思いますが、今ある教会はそこに繋がる人々又は繋がっていた先人、先輩方の名称の理の許しをいただこうという決断があったからこその姿です。最近は教会が信仰の妨げになっているのではないか?という意見を耳にする事がありますが、教会とはそこに繋がる人々や先人、先輩方の信仰の表れだと思います。そこには 気ぐらし世界実現に向かう為のたすけの精神 があると思います。もし教会が信仰の妨げとなっていると感じるのなら、それは 陽気ぐらし世界実現に向かう為のたすけの精神 が少し揺らいでいる可能性は否定できないかもしれません。

 

教会がなくても信仰はできます。ただ本当に信仰と向き合いたすけの精神で歩もうとするなら、やはり教会は必要だと思いますし、先人、先輩方のそういう道中が教会という形になったのだと思います。そう考える時、やはり教会を返納するという選択肢はかなり重い決断になると思います。その教会に繋がっていた先人、先輩方の意志や精神、その教会に繋がる人々が伏せ込んだ理、そういうところに思いを馳せる時、返納という決断はそう易々とできるものではありません。なかなかに難しい選択肢だと思いますし、かなり勇気のいる決断だと思います。

 

【教会運営】

 

教会の運営において、その采配は教会長一人でなされるものではありません。おさしづ では

 

皆んな心を揃うてすれば、どんな事も出けるで。急く事は要らんで/\。心を揃うて、あちらこちら/\、皆揃うて、心の理をろっくに治まれば、理を治めるで。皆心を揃うて、談示は第一。

 

と言われています。

教会の運営はそこに繋がる人々の一手一つに結んだ心の理に委ねられるものだと思います。だからこそ教会の運営に関しては積極的に関わっていくべきだと思います。お互いがお互いの意見を出し合い、理の思案を重ねて、心一つに事を運ぶことが教会運営のあるべき姿だと思います。誰が偉いとか上だとか下だとか おやさま は言われていません。勘違いのないよう自分自身、気をつけたいと思います。

 

【最後に】

 

僕たち よふぼく は陽気ぐらし世界実現の為の 親神様、おやさま の道具衆です。だから僕たちは陽気ぐらし世界を実現する為の働きをしなければなりません。教会はその為の拠点であると思います。そこにはおぢばと同等のたすかる理が無ければならないと思いますし、その理は教会に繋がる人々がおぢばに一手一つに心を繋ぐからこそ受け切ることができるのだと思います。教会がその地域に陽気ぐらしのにをいを漂わせることができるように、自分自身しっかりとした歩みを進めたいと思います。

 

これは個人の見解や意見ですのでそこはご理解いただきたいです。

 

ご拝読ありがとうございました。