離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

ひのきしんとそのカタチ!!

皆さんこんにちは!!

 

日々いかがお過ごしですか?

今年の冬は例年より暖かく、過ごしやすいように感じます。とはいえ寒いんですけどね(笑)

 

皆さまにおかれましては、体調管理に留意され、御自愛ください。

 

さて、今回は「ひのきしんとそのカタチ」 について考えていきたいと思います。

 

よろしくお願いします。

 

目次

 

 

天理教の信仰観

 

天理教の信仰観はただ、信じ、拝み、祈ることに留まらず、その真髄は 教えの実践 あります。

つまり、日々の生活の中で、教えを実践していく事により、陽気ぐらし世界を味わう事が天理教の信仰観だと僕は認識しています。

 

おさしづでは

 

心さえしっかりして居れば、働きをするわ/\。反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。これまでほんの言葉々々でさしづしてある。

 

【明治二十九年四月二十一日】より抜粋

 

と言われています。

 

如何に教えに感動し、その知識を有し、信じ、拝んでいても、それを体現しなければ、陽気ぐらしを実践しているとは言えないと思います。

 

教えの実践には、精神的実践と肉体的実践があると僕は考えています。そして、精神と肉体には 相乗性 があり、精神的実践は肉体的実践への意欲を高め、肉体的実践は精神的な成人を推進し、精神的実践への意欲を高めると考えます。

精神的実践は「八つの埃の掃除」と「いんねんのさんげ(たんのう)」、そして、肉体的実践こそ ひのきしん であると僕は考えます。

 

ひのきしん

 

ひのきしん とは天理教の信仰における信仰実践で、その意味は日々の寄進です。寄進とは「社寺等に物品や金銭を寄付すること。」だそうです。しかしながら、天理教のひのきしんは物品や金銭を寄付することだけに留まりません。その形は千差万別で多種多様な姿があります。

 

多種多様な姿があるとは言っても根底にある精神は一つだと思います。それは、親神様への感謝と報恩の精神 です。人は感謝し、恩に報いようとする時、どのような行動を取るでしょうか。一般的には感謝している相手が一番喜んでくれそうな行動を取ると思います。それでは、親神様 が喜んでくれそうな行動とは何でしょうか。それはもう おふでさき 

 

月日にわにんけんはじめかけたのわ

よふきゆさんがみたいゆへから(14号-24)

 

このお歌で悟りとれると思います。

 

親神様 の「人間が陽気に暮らす状を見て共に楽しもう。」と思われた事が この世はじまりの元のいんねん 、即ち「動機」であり、その思いを成就する事つまり、自ら陽気ぐらしを体現し、世界を陽気ぐらしへ誘う行為こそ ひのきしん であると僕は考えます。

 

ひのきしんの形

 

ひのきしん とは、具体的にどのような行為なのかを考えていきたいと思います。前述もしましたが、ひのきしん に決まった形はありません。

しかし、その根底に 親神様 への感謝と報恩の精神がある事、そしてその行為が「自ら陽気ぐらしを体現し、世界を陽気ぐらしへと誘う行為」になっているかがその定義になると僕は考えます。いまいちイメージがわかない人は、朝起き、正直、はたらきの精神を軸として、行動すれば間違いないと思います。因みに僕的な朝起き、正直、はたらきの精神の捉え方はこちらをご拝読ください。

 

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2019/06/16/223659

 

天理教では、ひのきしん として、特に頻繁に行われる行為が四種類あると僕は認識しています。一つ目は おつとめ という祈り、二つ目は にをいがけ、おたすけ と言われる所謂布教活動。三つ目は、自らの労働力で他に貢献する奉仕活動、四つ目は、金銭や物を奉納する御供と言われる行為です。これからの活動が果たして、自ら陽気ぐらしを体現し、世界を陽気ぐらしへと誘う行為になっているのかを考えていきたいと思います。

 

おつとめ

 

まずおつとめと言われる祈りの行為ですが、僕は間違いなくなっていると思います。

寧ろこの おつとめ 無くして、陽気ぐらしを体現し、また世界を誘う事はできないと言っても過言ではないくらい、この おつとめ の重要度は高いと思いますし、おやさま もこの おつとめ に関してはかなり厳しくせき込んでおられます。

 

天理教教祖傳逸話篇 74 「神の理を立てる」の中では、

 

明治十三年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は、

「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ。」

と、刻限を以て、厳しくお急き込み下された。。

 

と厳しくおつとめをせき込まれる様子が伺えます。

おつとめとは元初はじまりにおける人間・世界創造に際しての親神様のお働きを手振りに表して勤めることにより、元初まりの親神様のご守護を今に頂き、よろづたすけの成就と陽気ぐらしの世への立て替えを祈念するものとお聞かせいただきます。

 

自分自身、しっかりとつとめさせていただきたいと思います。

 

にをいがけ、おたすけ

 

にをいがけ、おたすけについても僕はなっていると思います。

 

みかぐらうた 七下り目の一つには、

 

ひとことはなしハひのきしん

にほいばかりをかけておく

 

と歌われています。

 

世界を陽気ぐらしへと誘う行為として、親神様 の存在と思いを伝え、広めるということは大切なプロセスだと思います。その為にも 親神様 の思いを伝えるにをいがけとその存在を感じてもらえるおたすけは欠かすことのできない行為だと思います。

 

奉仕活動

 

奉仕活動も僕はなっていると思います。自らの労働力で他に貢献することは、「はたらく」の精神に通じていると思います。

 

天理教教祖傳逸話篇 197 「働く手は」の中では、

 

 「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや。」

と、お聞かせ下された。

 

という一節があります。

 

本部、大教会、上級教会での、奉仕活動はもちろん、社会貢献としての奉仕活動も、側々を楽にしようとする行為の中に たすけあい の姿が成ってくるのだと思いますし、その たすけあい の状こそ陽気ぐらしを体現した姿だと思います。

 

金銭や物を奉納する御供

 

この行為に関しては、本当に色々な考え方があると思います。肯定する人もいれば、否定する人もいます。

 

天理教教祖傳逸話篇 7「真心の御供」では

 

 中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。

 すると、教祖は、いつになく、

「ああ、そうかえ。」

と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。

 それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。

 例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、

「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」

と、非常に御満足の体であらせられた。

 これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。

 教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。

 こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。

 そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、

「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」

と、仰せられた。

 

とあります。

 

この逸話篇から考えると、親神様 への感謝と報恩の心でする御供は おやさま は喜んでおられますし、理の親が喜んでいるのだから 親神様  も喜んでおられると僕は推察します。

 

ただ、天理教教祖傳逸話篇 72「救かる身やもの」の中には、

 

 おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。

 教祖は、

「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」

と、仰せられた。

 

という場面があります。

 

この逸話からは感謝と報恩の行いは金銭や物ではなく、人を救けに行く事だという考え方もできます。

 

僕の見解としては、肯定も否定めする必要はないと思います。皆が同じ行為をしなければならないと言われているわけではないですし、それぞれの生活スタイルでやりやすい事、やりにくい事があります。生活スタイルに合わせて、自分のできる形でやっていけばいいと思います。

 

親神様  は金銭や物を望んでいない」と言う人もいます。確かにそうなのかもしれません。しかし、人を救けるツールとして金銭や物を使うことは望まれているのではないでしょうか。例えば、A君とB君という兄弟がいて、B君が旅行に行きたいけどちょっと資金が足りない状況があるとします。その時A君が「僕には関係ないから」という態度をとるのと、「足りないところを足してあげる」という態度をとるのと、親はどちらを嬉しく思うでしょうか。僕は絶対後者だと思います。そしてそれは たすけあい の姿だと思います。教会の維持、運営においても同じことが言えるのではないかと思います。又外に向かっては寄付をするけど内に向かってはしないという人もいますが、治めるべきは先ず内々だと僕は思います。先ずしっかりと内々でたすけあいを実践してから、外に向かっていくのが順序だと思います。

 

天理教教祖傳逸話篇 114「よう苦労してきた」では、

 

 泉田籐吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出遭うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。

 余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、

「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」

と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。

 

とあります。

 

身体をはじめこの世で関わり、用いる全てのものは、親神様 からの「かりもの」です。その理を忘れると自分のものだと勘違いし、欲や執着心からものを必要以上に欲したり、手放せなくなるのだと思います。「かしもの、かりものの理」を心に治める。もちろん簡単ではありませんが、目指すべきところだと思います。日々精進です。

 

最後に

 

今回は、ひのきしん について、掘り起こして考えてみました。大切なのは 親神様 の望む姿を見せることだと思います。その姿こそ陽気ぐらしであり、その精神は感謝と報恩であり、その精神は「かしもの、かりものの理」を理解し、心に治めることにより湧き上がるのだと思います。

 

めへ/\のみのうちよりのかりものを

しらずにいてハなにもわからん(3号-137)

 

かしもの、かりものの理を心に治めることはなかなか難しいですが、意識することはできると思います。しっかり意識して、陽気ぐらしを体現し、生きていること自体が ひのきしん と言える よふぼく となれるよう日々精進です。

 

ご拝読ありがとうございました。