離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

自由と我儘!!

皆さんこんにちは!!

 

今回のテーマは「自由と我儘!!」 です。

最近は、この自由と我儘を混同している方が非常に多いという印象です。かく言う僕もイマイチ違いを分かっていません(笑)

 

という事で自由と我儘の違いについて思案していきたいと思います。

 

よろしくお願いします。

 

目次

 

 

 

まずは概念から

 

まずは 自由 と 我儘 とはどういう概念なのかについて、考えていきたいと思います。

 

自由とは

 

他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。

 

我儘とは

 

相手・まわりの者の意に反して、無理な事でも自分がしたいままにすること。したいほうだい。

 

だそうです。

 

なんか言い方を変えただけで同じような事言ってない?って感じですね。。。

 

人間は束縛された存在

 

自由とはの説明の中に 他から束縛を受けず と言う表現がありますが、そもそも僕たち人間は 他から束縛を全く受けずに生きていく という事は不可能です。まず僕たちは 地球 に束縛されています。僕たちは地球の環境下でないと生きてはいけません。

 

また人間は自分たちの社会の秩序を保つ為に多くの規範を創りました。僕たちが安全、安心に暮らしていけるのは、その規範に束縛されているからです。つまり 自由 とはその規範の範囲内で約束されているもの、そして 我儘 はその規範外のものであると考えます。

 

コミュニティーに属している僕たち

 

僕たちは生きていく上で必ず何かしらのコミュニティー(グループ)に属しています。最も大きなコミュニティーは 地球(世界)、二番目は 国 、最も小さいものは 家族 だと思います。全く何のコミュニティーにも属していない人はいないでしょう。そしてそれぞれのコミュニティーに規範は存在します。世界や国であれば 法律 、家族であれば 家訓や教育方針 になると思います。ただ家族というコミュニティーは規範を曖昧にしている場合も多く、暗黙のルール としているところや 「家長=規範」としているケースが多いと思います。

 

そのコミュニティーに属している以上、その規範を守るという事はそのコミュニティーを秩序を持って形成していく上で必要な事であり、「守らない=コミュニティーの崩壊」です。

 

現代社会における家族事情

 

現代社会は 核家族社会 です。この現象の一番の要因は コミュニティーの規範による束縛 を敬遠しているからだと思います。今まで属していたコミュニティーから脱却して自分たちで新たなコミュニティーを形成する。それ自体は悪い事ではないと思います。ただコミュニティーの規模が小さくなるとその規範も曖昧さが増します。曖昧でもある程度の秩序を維持できるからです。しかしそれは規範を守るという概念が構築されない可能性があります。結果、規範を守らない事になんの抵抗も感じない或いは規範を守らない事を注意されてもその意味が理解できない人たちが存在する事になります。

 

ひと昔前は、学校というコミュニティーがそこをカバーする役割を担っていました。しかし近年は少子化による経営維持問題などによりPTAのパワーバランスが崩れ、先生のイニシアチブが低下、保護者の主導権が学校運営においてかなり高いという背景から「規範を守る」という面においての教育レベルは低下しつつあると感じます。

 

結婚とコミュニティー

 

僕は、結婚とは 新たなコミュニティーに属する事又は属しているコミュニティーに新たな人を受け入れる事 。と解釈しています。現代社会は 核家族社会 ですから 新たなコミュニティーを構築する事。という解釈もできますが、構築された新たなコミュニティーは今まで属していたコミュニティーの中で形成されているので、やはり、新たなコミュニティーに属する事又は属しているコミュニティーに新たな人を受け入れる事 。と解釈する方が自然だと思います。

 

女性の場合は お嫁に行く と表現される事が多いですが、これは即ち、新たなコミュニティーに属するという事です。新たなコミュニティーに属するという事はそこの秩序を守る為に決められた規範を守るという事は最低限の責任だと思います。その規範に反するという事は、極端な話、日本に住むけど日本の憲法や法律には従いません。という事と同等です。(かなり極端ですが。。。)また、そんな規範があるなんて知らなかった という人もたまにいますが、そもそも 結婚 とは自分の人生を決める最も重要な決断の一つです。そんな決断を何の情報も得ず勢いだけで安易に決めてしまうという事は極端な話、敵の情報を何も得ず、勢いだけで敵陣に突っ込んでいく戦国武将。と一緒です。(かなり極端ですが。。。)とにかく結婚は重要な決断ですので、情報をしっかり集めて熟考する又はどんな事も受け入れるという決意を持って決断すべき事項だと思います。

 

まず価値観の溝を埋める

 

新たなコミュニティーに属する事又は属しているコミュニティーに新たな人を受け入れる事 。において隔たりとなるもの、それは 価値観 です。属する又は受け入れると決断する前に、まずお互いの 価値観 を知り共有するという作業が円満に事を運ぶには不可欠です。それにより新たな規範を構築する事も可能であるからです。しかしながらこの作業を蔑ろにしている場合が往々にしてあります。結果、結婚した後に問題が生じます。そしてその責任は 新たなメンバー 大半の場合は 嫁 に問われる場合が多いです。しかしながら、この場合、最も責任を問われるべきはその作業を率先してやるべき人、受けれる側の結婚の当事者、つまり 旦那 だと僕は思います。育った時代も環境も違う 嫁 が 価値観 が違うのは当たり前のことであり、それを攻めるのはお門違いです。お嫁さんを貰う立場にも関わらず、お互いの 価値観 の溝を埋める事を怠ったのは受け入れる家族、特に結婚の当事者の怠慢です。この怠慢が日本の離婚率を上げている要因の一つだと思います。

 

結婚してしまえばなんとかなる!!

 

そんな時代はとうの昔に終わっています。現代は 離婚 という選択が簡単にできる時代です。

離婚 は人の幸福感を下げる可能性がある決断です。いつの時代もその事実は変わらないと思います。回避できるならその努力はすべきです。

 

そもそも愛って何??

 

それは全てを受け入れるもの。僕はそう思っています。全て とは愛する対象だけではなく、その対象が形成された要因、背景全てという事です。人は多くの人やものと関わり、教育や環境の影響を受けて形成されます。あなたが愛するその人がその個性を形成し存在しているのは、それを形成する要素に影響を受けたからです。それは 親であり、きょうだいであり、友達であり、時代であり、環境であり、宗教であり。それらが無ければ、あなたが愛するその人がその個性を形成する事はない。ならばその人を愛する時、それらの要素に抱く感情は 感謝 だと思います。感謝 の感情が湧かないのならば、それはたぶん 愛 ではないと僕は思います。

 

最後に

 

自由とは 規範という束縛の中で許されている権利 です。そこには 規範を守るという義務 が生じます。どんな小さなコミュニティーでもそこに属している限り 規範を守るという義務 は必ず生じます。そして 義務 を果たすのは属している者の責任です。責任を果たさない自由、それが 我儘 です。自由 を主張する前にまずそのコミュニティーの規範を把握し、守る という 責任 を果たしているかどうかを考えるべきだと僕は思います。

 

ご拝読ありがとうございました。