離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

内々治めるということ!!

皆さんこんにちは!!

 

コロナウィルスの蔓延がいよいよ急速にその深刻度を増しだしました。各地では、信憑性のない不確かな情報により、生活必需品の買い占めやそれに便乗した詐欺の横行、行事自粛の風潮などによる経済への影響からくる不安に更なる信憑性の低い情報が拍車を掛け、世界は混沌とした状況になりつつあるのではないかと思います。

 

信仰者として、この節をどう捉えどう動けばいいのか、それぞれに思案するところは尽きないと思います。そんな中今回は「内々を治めるということ!!」と題して、信仰者に求められている通り方って何だろう?ってところを考えていきたいと思います。

 

尚、この記事はお互いが信仰者である事を前提としています。

 

目次

 

 

陽気ぐらし

 

僕たちお道の信仰者が目指すべきもの、それは「陽気ぐらし」です。おふでさきでも

 

月日にわにんけんはじめかけたのわ

よふきゆさんがみたいゆへから(14-25)

 

と明言されています。

 

このおふでさきの前後にあるお歌に今回のコロナウィルスの蔓延についてどう思案すればいいのかがわかるのではないかと思えるお歌があります。

 

せかいにハこれらとゆうているけれど
月日さんねんしらす事なり(14-22)

 

せかいぢうどこの人でもをなぢ事
いつむばかりの心なれとも(14-23)

 

これからハ心しいかりいれかへて
よふきづくめの心なるよふ (14-24)

 

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから(14-25)

 

せかいにハこのしんぢつをしらんから
みなどこまでもいつむはかりで (14-26)

 

月日よりよふきづくめとゆうのをな
これとめたならさねんゑろなる(14-27)

 

このはなしどふぞしいかりきわけて
はやくしやんをしてくれるよふ(14-28)

 

コレラ というのは当時流行った疫病の事です。これらのお歌をザックリ解釈すると、

 

世界では コレラ ていう疫病で大変な騒ぎになっているが、これは、親神の残念に思っている心情を教えている。親神が人間を創ったのは「陽気ぐらし」をする状を見る為であるのに、人間はその真実を知らず、皆、陽気とは言えない心持ちで日々を過ごしている。これからは、親神が直々に教えるこの教えをしっかり聞いて理解し、心に治めて、親神の思いを思案してくれ。

 

という事だと僕は解釈します。

 

 

陽気ぐらしの実践

 

今回のコロナウィルスという疫病から親神様の心に思いを馳せる時、「実践と布教」この二つが肝になるのではないかと考えます。特に「実践」については非常に重要な要素であると感じます。当時と違い、今は、ある程度教えは世界に広まりつつあります。その現状において、親神様が残念に思っておられるのは、教えを知らない人たちが難儀をする姿もさる事ながら、教えを知っている者たちが「陽気ぐらし」とは程遠い心持ちで日々を送っている事を親神様は残念に思われているのではないでしょうか?もちろんこれは個人の勝手な見解でありますが、僕はそう思えてなりません。そもそも 陽気 な雰囲気を持たない者が他に 陽気 な雰囲気を広められる訳がないのです。まず教えを聞き、理解し共感している僕たち一人一人が「陽気ぐらし」を強く意識し実践する事で、その雰囲気が教えを知らない人たちをも巻き込みながら広がっていく。それが にをいがけの真髄 だと僕は思います。

 

 

まずは内々から

 

 

その為にも先ず内々をしっかり治めていく事が、大切であると思います。おやさま のひながたにおいても、先ずは親近者や身近な人たちに教えを伝え、理解させようと苦心されています。

 

みかぐらうた四下り目では、

 

六ッ むらかたはやくにたすけたい
           なれどこゝろがわからいで

七ッ なにかよろづのたすけあい
          むねのうちよりしあんせよ

 

と謳われていて、その苦心の様子が伺えます。

 

この事から、先ずは 内々を治めて、たすけあいを実践し、その姿を地域社会に映していく事 が大切であると思います。しかしながら、内々を治めるのは難しいです。実際、当時のお屋敷もいろいろな人間関係の事情が起きていたみたいで、

 

見難くい見苦しい処は、皆掃除をしてくれねばならん。鏡やしき濁ってあってどうもならん。鏡やしきは四方正面ともいう。少しぐらいこんな事ぐらいという理はむさくろしい。妬み合いという理が見て居られん。

 

明治二十四年一月二十九日 夜十一時二十分

刻限 より抜粋

 

のように、親神様が残念に思われている心情を吐露されているおさしづもいくつかあります。

しかし、難しいからこそトライする価値は充分あると思います。おやさま のひながたでは官憲の取り締まりが厳しい時代をいそいそと通られていて、それがどんな中も心倒さず通る事がひながたを辿る事と解釈される場合が多いです。確かに、そういう側面もあるでしょう。しかし、教えに無理解な者からの迫害と教えを理解している者同士の歪み合いとでは、その性質は全く異なると思います。教えを聞き、共感しているお互いの通り方はやはり たすけあい だと思います。性質の違う問題をただ ひながた という言葉で片付けてしまう事に僕は違和感を感じます。また いんねん の姿だという人もいます。確かに いんねん の姿なのでしょう。しかし、その いんねん を切る為に引き寄せられたお互いです。ならば、自分の癖、性分と向き合い、事情が事情とならぬよう治めて通るのが、いんねん を切る通り方であると僕は思います。

 

 

最後に

 

 

どんな時代でも疫病は流行するものです。それは、医学や医療が充実している現代の日本も例外ではありません。そしてこの疫病から私たちお道の信仰者が感じ取らなければならない事は、親神様の残念に思っている心情だと思います。特に「陽気ぐらし」を基本理念とするこのお道の教えを聞きながら、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いが如く、ちょっとした周りの人の言動に腹を立て、歪み合う姿を親神様は何と思われているでしょうか?僕は、悲しいく、残念に思われていると思います。人間は皆それぞれに自分勝手で気儘な性質を持っています。それを棚に上げて、人の事をガミガミ言うのはよろしくありません。何より、世界は鏡、自分の癖、性分は周りの人や環境に投影されます。他者を短気な人と思うなら、自分も短気であり、他者の言動が高慢だと思うなら自分も高慢なのです。その事に気づかず、他者を貶め、見下す行為は、鏡に映った汚れた自分の姿を鏡が汚れていると勘違いして一生懸命、鏡を掃除する事と同じであり、いつまでたっても自分は綺麗にならず、それどころか、それを見ている周りの人たちに愚かだと笑われてしまう事となるでしょう。この道の教えは、他人の心を磨くのではなく、自分の心を磨く道です。「陽気ぐらし」の姿をまず実践すべきは自分なのです。その事を忘れる事なく、お互い様に、日々心の成人に精進させていただきましょう。

 

これは一個人の見解ですので、ご理解の程よろしくお願い致します。

 

ご拝読ありがとうございました。