離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

僕の教理研究⑦

皆さんこんにちは!!

 

今回は、 僕の教理研究シリーズ第⑦弾 をお届けします。天理教においての聖地であり、信仰の芯であるぢばとかんろだい!!」について思案していきたいと思います。

 

 

目次

 

 

ぢば

 

僕達、天理教の信仰者の聖地 ぢば は、「親神様がお鎮まり下さるところ」であり、「人間宿し込みの元なる場所」であり、「よろづたすけのつとめ場所」である信仰者にとって最も重要な地点です。一般的には丁寧に おぢば と表現されます。

 

親神様がお鎮まり下さるところ」という表現は、親神様がそこに鎮座されている とも解釈できますが、この世界は余すところなく親神様の御守護で成り立っているものであり、おふでさきでは、

 

たん/\となに事にてもこのよふわ

神のからだやしやんしてみよ(3-135)

 

はたらきもとんな事やらしろまいな

せかいちうハをやのからだや(15-37)

 

と表現されている事から世界は親神様の身体であるという解釈もできます。

 

僕は、「親神様がお鎮まり下さるところ」という表現は、親神様が鎮座しているところ という事ではなく、親神様のお働きの核であり、根源となる場所 という事ではないかと解釈します。

人間の身体で言うなれば、全てを支配する脳と活動の源である心臓にあたる地点であるというイメージです。

 

「人間宿し込みの元なる場所」、これは、人間を創造された場所という事だと思います。つまり、人類の歴史はこの おぢば からはじまったのであり、そう考えるとこの おぢば 天理教の信仰者のみならず、全人類にとって最も意義深い地点であり、故郷となるところであると言えます。故に おぢば を訪れる事を おぢばがえり(おぢばにかえる)と表現します。

 

「よろづたすけのつとめ場所」つまり、世界のたすかり(陽気ぐらし世界実現)を祈念して、おつとめ(祈り)がつとめられる地点であり、この場合の おつとめ は かぐらづとめ だと思います。おぢば は かぐらづとめ をつとめる事を許されている唯一無二の地点です。そしてこの かぐらづとめ によって世界だすけは推し進められ、陽気ぐらし世界へと建て替わっていきます。おぢば は 陽気ぐらし世界実現 の為になくてはならない地点であり、信仰者の心の拠り所なのです。

 

 

かんろだい

 

 

かんろだい は おぢば に ここがおぢばである という証拠として、建てられている六角形の台です。世界中の人間の心が澄み切ったなら、この台に平鉢を置き、かぐらづとめ をつとめる事により、天から かんろ が降ってくるとされていて、その かんろ を戴く事により、病む事も老いる事もなく115歳の定命を全うできる陽気ぐらし世界が実現するとされています。

おふでさきでは、

 

このみちハどふゆう事にをもうかな

かんろふたいのいちじよの事(17-2)

 


このだいをどふゆう事にをもている

これハにほんの一のたからや(17-3)

 


これをばななんとをもふてみなのもの

このもとなるをたれもしろまい(17-4)

 


このたびハこのもとなるをしんぢつに

とふぞせかいゑみなをしへたい(17-5)

 


このもとハいさなきいゝといざなみの

みのうちよりのほんまんなかや(17-6)

 


そのとこでせかいぢううのにんけんわ

みなそのぢばではじめかけたで(17-7)

 


そのぢばハせかいーれつとこまても

これハにほんのこきよなるぞや(17-8)

 


にんけんをはじめかけたるしよこふに

かんろふたいをすゑてをくぞや(17-9)

 


このだいがみなそろいさいしたならば

どんな事をがかなハんでなし(17-10)

 

と歌われています。

これらのお歌から、かんろだい がお道及び世界にとって非常に重要なものである事が理解できます。

 

 

かんろだいは未完成

 

 

実は、かんろだい はまだ完成していません。かんろだい 建設の計画ではその材質は石のはずですが、現在建てられているものの材質は木です。つまり、現在建てられているものは、本物が完成するまで、仮に置かれているサンプルです。史実では、明治14年(1881年)5月5日(陰暦4月8日)に かんろだい の石普請がはじまり、二段までできるのですが、明治15年 (1882年)5月12日(陰歴3月25日)奈良警察署に没収されてしまいます。石普請を任されていた職人さんも逃走してしまい、かんろだいの石普請は見事に頓挫してしまいました。この頃執筆されたであろうおふでさきでは、

 

このざねんなにの事やとをもうかな

かんろふ大が一のざんねん(17-58)

 


このざねん一寸の事でハないほどに

どんなかやしを月日するやら(17-59)

 


どのよふな事がありてもうらみなよ

みなめゑ/\にしてをいたのや(17-60)

 

と歌われていて、かんろだいの石普請が頓挫した事を残念に思う心情とこの事を受けて何かしらのアクションを起す事を示唆されています。そしてその後、おつとめの第1節と第3節の地歌を「あしきをはらうて」「いちれつすまして」に変更されています。

 

 

変更された計画

 

 

かんろだい没収までは第1節と第3節の地歌は、 あしきはらひ たすけたまえ てんりわうのみこと、あしきはらひ たすけせきこむ いちれつすます かんろだい でした。それが没収後、あしきはらうて たすけたまえ てんりわうのみこと、あしきはらうて たすけせきこむ いちれつすまして かんろだい に変更されました。これは、かんろだい設置の意図が変更された と解釈できます。

 

変更前の第1節の地歌は、人間が悪しきを払う事とたすけの両方を親神様にお願いしている。それを受けて第3節で親神様が悪しきを払いたすけをせきこむ為、いちれつの心を澄ます為にかんろだいを据え置くと解釈します。

 

つまり、当初はかんろだいを設置する事により、人間の心を澄まして陽気ぐらし世界を実現する計画であったのだと考えます。

 

変更後は、人間が自らの悪しきを払う事を条件に親神様にたすけを願っている。それを受けて、親神様が人間が自らの悪しきを払い、たすけのせきこみを願い、いちれつの心を澄ましたならかんろだいを据え置くと解釈します。

 

つまり、世界中の人間の心が澄み切ったなら、かんろだいが完成して、陽気ぐらし世界が実現する計画に変更されたと考えます。

 

おふでさきでは

 

月日にハどんなざねんがあるとても

いまでぢいとみゆるしていた(17-64)

 


さあけふハ日もぢうふんにつんできた

なんでもかやしせずにいられん(17-65)

 


このかやしなにの事やとをもている

神のさんねんばかりなるぞや(17-66)

 


このざねん一寸の事とハをもうなよ

つもりかさなりゆへの事やで(17-67)

 


月日にハせかいぢううハみなハが子

かハいゝばいをもていれども(17-68)

 


それしらすみなーれつハめへ/\に

ほこりばかりをしやんしている(17-69)

 

と歌われています。

 

今までも我が身かわいいの勝手な心遣いが気になってはいたようですが、かんろだい没収事件でこのままの計画では親神様の望まれる 陽気ぐらし世界 は実現しないと判断され、計画を変更されたのだと考えます。

 

 

おさづけ

 

 

 おつとめ 地歌について思案したので、おさづけ についても思案したいと思います。

現存する おさづけ は あしきはらひのさづけ のみです。 あしきはらひ たすけたまえ てんりわうのみこと と唱えながら三回手を振り、なむたすけたまえ てんりわうのみこと と唱えながら三回病気や怪我の部位を撫で、これを1セットとして三回繰り返します。

 

あしきはらひ たすけたまえ てんりわうのみこと と唱えるのは、悪しきを払う事とたすけの両方を親神様にお願いしていると解釈します。つまり、おさづけ は悪しき(埃)を払う為に身上の障りを御守護する目的で授けられている理だと解釈します。その為に必要な要素はその身上の障りを通して、悪しき(埃)を自覚する事だと考えます。この対象は取次ぎ人とそれを受ける者の両者であり、双方が悪しき(埃)をしっかり自覚できたなら、病と共にその埃も親神様が払って下さると解釈します。

 

 

神実様

 

 

国々や、地域にある教会は、おぢばの理 を戴いて設置されています。そして各教会の社には神実様が祀られています。教会で おぢば と同じたすかる理が戴けるという事は信仰的には凄い事です。しかし、勘違いしてはいけないのはその理の根源は おぢば にあるのであって、教会に祀られている神実様はその理を受けているだけだという事です。つまり、いくら教会で熱心に信仰していても、おぢば を軽んじたり、繋ぐ心が無ければ、おぢばの理 は戴けません。教会でおつとめをしていてもその心は ぢば に馳せるべきであるし、かんろだい をイメージするべきであると僕は思います。おぢばと神実様 はその理は同じですが、性質は全く違うものであると考えます。これを言語化するのは非常に難しいです。 おぢばと神実様 の関係性における僕のイメージを最も分かりやすいく表現すると 多重影分身の術 です。(分かる人は分かってくれるはず。。。)

 

分からない人は NARUTO って言うコミックを読んで下さい。。。

 

 

 

最後に

 

 

親神様は世界中のどこに居ても御守護下さるし、たすけを願う者には、その心と誠真実を見定めて、お働き下さいますし、おやさま はお連れ通り下さいます。しかしそこには おぢば に思いを馳せ、心を繋ぐことが絶対条件として必要だと思います。そこに 受ける理 が働くのだと思います。そう考えると信仰において欠かす事のできない精神は 受ける精神 なのかもしれません。素直に受ける事はなかなか難しいですが、日々精進です。

 

これは一個人の見解ですので、そこはご理解下さい。

 

ご拝読ありがとうございました。