離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

僕は勘違いしていた!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は僕が「うわぁ〜、僕、勘違いしてたわ〜」 と思った感覚を備忘録として綴ります。

 

お道の教えってどんな教えですか? って聞かれたら皆さんどう答えますか?答えは色々あると思いますけど、僕は 人をたすける事で自分もたすかっていく教えです。って答えます。おふでさきでも

 

わかるよふむねのうちよりしやんせよ

人たすけたらわがみたすかる(3-47)

 

と歌われていますし、間違った答えでもないと思います。

 

僕は最近まで 人をたすけなきゃいけないんだ!! と思ってました。そういう精神で日々通らなきゃダメなんだって思っていたんです。人の為に生きる事がこの道を通る者のあるべき姿なんだと。。。

 

しかし、ある人の話しを聞いて、あれ?違うなぁ〜 と思ったんです。

 

人間は 陽気ぐらし の状を 親神様 に見せる事が存在意義です。それが親神様の望みであるし、その為に創られた僕たち人間はその状を体現する生き方がベストだと思っています。ただ、絶対に陽気ぐらしをしなきゃダメ!! とは言われてないんですよね。親神様はあくまで 願望 を伝えているだけなんです。それはつまり、その状を体現するかしないかの選択は僕たち人間に委ねられている ということだと思うんです。

 

つまり、陽気ぐらししなきゃダメなんだ!人をたすけなきゃダメなんだ!という感覚が既に勘違いなんだと思ってしまったわけです。何故「◯◯じゃなきゃダメ!!」って感覚に陥るのでしょうか?それはたぶん 他人の評価を軸にして判断しているから だと思います。

 

例えば親に 人に優しくしなさい と言われて育った人は人に優しくする人になると思いますが、それは 人に優しくしなきゃダメなんだ! って思っているからだと思います。こういう人は 人に優しくない自分 が許せないし 人に優しくない他人 も許せないと思うんです。人に優しくしなきゃダメなんだ! って思っているから。じゃあ 人に優しくしなきゃ何がダメなのか? を問われるとたぶん答えられないと思うんです。これは 他人の評価や価値観を軸に判断しているから だと思います。実際、人に優しくしない事で困る人がいるか?と問われるといないんですよね。確かに人に優しくされたら嬉しいですけで、それって結局 オプション的な要素 であって、優しくされなかったらされなかったでそれなりにやっていけるです。だから 人に優しくしなきゃダメ! って事もないんです。

 

親神様 が求められている 陽気ぐらし って「◯◯じゃなきゃダメなんだ!!」の思考の中にあると思いますか?僕は無いと思います。

 

おやさま はこんな言葉を残されています。

 

この道は人にさせる道やないで。めい/\一人一人が自分からつとめさせてもらう道やから、人がどうのこうのと言うやないで。人間は自分がすると、人にもさせたくなるものやが、なんぼ人にさせようと思うてさせても何にもならん、人がさせて頂かなけりゃと思う心になるようにしてやってくれ。

 

この言葉を読んで感じる事は 選択するのはあくまで当人 ということです。

 

つまり、人をたすけなきゃダメ じゃなくて よし、人をたすけよう! 人をたすけたい! が陽気ぐらしをする為の感覚ではないかと思います。自分の人生を人をたすける事に捧げるのではなく、自分の人生=人をたすける事 という事にする。たすけたいからたすける! やりたいからやる!という 自分軸の感性 こそ目指すべき 境地 ではないかと思います。

 

僕たちは 人をたすける 事は 他人を軸に生活する事 と思いがちですけど、今世の人生は誰の為の人生なのか?を考える時、やっぱり自分自身の為の人生なんですよね。だから基本的な判断基準は自分であるべきなんですよ。そこを勘違いしちゃうから苦しくなってくるんです。極端な話、たすけたい と思えなかったらたすけなきゃいいんです。選択は自分で選べるんです。心は自由なんだから。やりたいと思えない事をやって何が面白いんですか?もし 人をたすける事を人生としたい のであれば、まずやるべきは たすけたい と思える精神を造る事ですよ。それが 僕たち人間に課せらている共通の課題 だと僕は思います。

 

陽気ぐらしをしたい! そう思えた時、人間ははじめて 自分に与えられた課題 と向き合います。与えられているその 課題 は皆そろぞれに違うと思います。まぁなかなかに厄介な 課題 のはずです。なかなか簡単にはクリアできないと思います。この 厄介さ がまた勘違いを生みます。自分に与えられている 課題 がクリアできない(自分が陽気ぐらしできない)のは他者が 課題 をクリアしないからだ。という訳の分からない結論に至って、結果、自分の 課題 そっちのけで 他者の課題 に口を挟みんだり、「早く終わらせろ!」ってけつを叩いたりします。

 

例えるなら、算数の宿題を出されたA君が、その宿題をクリアできなくて、その原因は国語の宿題を出されているB君がその国語の宿題をクリアしてないからだという結論に至って、B君が宿題をクリアできない事に腹を立ててケチをつけているようなものです。言い掛かりも甚だしいですが、現実にこういう人たちは居ます。

 

組織批判をする人たちが正にそれだと思います。はっきり言って批判するだけ時間の無駄です。何故ならその批判している内容を 課題 として出されているのは 批判者 ではなく、批判されている人 だからです。その課題をどう判断しどんな選択をして解決していくかは、その課題を出されている本人に委ねられています。よって 批判者 がどんなに 批判 しても何の解決にもなりません。批判者 が関与できる課題ではないからです。それに他者がその課題をクリアしたからと言って、自分が自分の課題をクリアできていなければ 陽気ぐらし はできません。逆に言えば、自分の課題をクリアできてさえいれば、他者が課題をクリアできていなくても 陽気ぐらし はできます。なので他者を批判する時間があるなら自分の課題をクリアする事に力と時間を注いだ方が自分の人生を切り拓く上では建設的です。

 

もし、どうしても組織を変える事が必要だと思うのであれば、自分がその課題に関与できる位置に行くしかないです。分かりやすく言えば、出世して偉くなったらいいんです。それしか方法はないと思います。無理な事もないです。実際成ってる前例だってあるし、前例があるのであれば、そこまで行く力があれば成れるわけですから。。。 

 

本当に組織を変える事が必要だ と思っているのであれば、頑張って 出世して偉くなる しかないです。

 

僕たち人間は 陽気ぐらしの状を親神様に見せる 事が存在目的であるけど、それは 強制された課題 ではないと思います。選択権はあくまで人間に委ねられています。どんな選択をするかは 自由 ですが、しあわせ になれる選択は一つです。それは 陽気ぐらしをする事 です。その真実に気づいたものから自分に与えられた課題と向き合いクリアしていけばいいのだと思います。

 

あくまで個人の見解として、理解していただきたいと思います。

 

ご拝読ありがとうございました。