離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

天理教の立教と当時の時代背景と理念!!

天理教は、1838年(天保9年)陰暦10月26日、教祖、中山みき様の神懸かりによりはじまったとされています。当時の日本の暦は、月の周期を基準とする「太陰暦」を用いていました。現在は太陽の周期を基準とする「太陽暦」を用いています。陰暦とは「太陰暦」の事です。因みに「太陽暦」では、12月12日、季節感覚は冬です。僕たち天理教の信仰者は中山みき様のことを「おやさま」とお呼びします。

 

神懸かりっていうのは、憑依する事、のりうつる事です。つまり「おやさま」に神様がのりうつったゃったんです。

 

当時の時代背景としては江戸時代中期から幕末へと入っていく転換期になると思います。

因みに、天理教神道の一派と勘違いされている方もたまにおられますが、神道の一派ではありません。天理教は完全オリジナルの独立した教えです。宗教学では天理教のように江戸時代中、後期〜近年にかけて創立された宗教は新興宗教と呼ばれ、天理教はその中でも、諸派と定義づけられています。

 

天保9年頃の日本はどんな状況だったかと言いますと、寛永(かんえい)・享保(きょうほう)・天明(てんめい)に続く江戸四大飢饉の一つである天保の大飢饉の真っ只中にありました。

 

天保の大飢饉は1833年(天保4年)〜1839年(天保10年)まで6年間続いた大飢饉です。農作物が十分に収穫できないわけですから、必然的に国民は貧困と飢えに苦しんでいたと推察できます。米価(べいか)の急騰により、各地で百姓一揆や打ちこわしと言われる江戸時代の民衆運動の形態のうちの一つで、不正を働いたとみなされた者の家などを破壊するという何とも斬新な行為が頻発し、立教の前年、天保8年2月にはあの有名な事件、大塩平八郎の乱も起こっています。まさに日本が絶望と混沌の中にあった、そんな時代に天理教は立教しているわけです。

 

立教に関して先程、神様が教祖中山みき様に憑依したと説明しましたが、突然、いきなり憑依したわけではなくて、そこに至るまでには経緯があります。

 

「おやさま」みき様は13歳で大和国山辺郡庄屋敷村、現在の奈良県天理市三島町の中山家という名家に嫁がれます。夫は善兵衛さん。その善兵衛さんとの間に6人の子供を授かります。うち2人は夭折、つまり幼くして亡くなられています。

 

1837年(天保8年)陰暦10月26日、立教の丁度1年前、長男 秀司さん、当時17歳は、畑仕事の最中、急に左足に激痛を感じ、駒ざらえを杖にして帰宅します。医者に診せたところ、手当の限りを尽くしてくれたましたが痛みは一向に治りません。そこで、人の勧めにより、村で有名な修験者だった 中野市兵衛さんに加持祈祷をお願いします。当時は医学もそんなに発達しておらず、病気の平癒を祈り、加持祈祷がよく行われていました。市兵衛さんに祈祷してもらうと痛みは一旦は治りましたが、しばらくするとまた痛みだし、祈祷してもらうと治る。しかし、しばらくするとまた痛みだし、祈祷してもらうという状況を、3度繰り返し、一応は治りましたが、20日程経つと又々痛みだしました。そこでまた市兵衛さんに相談したところ、「お宅で寄加持をやっちゃいましょう。」と言われ、家族で相談して、意見に従ってやっちゃう事にします。市兵衛さんは、依代に「そよ」さんを雇い、寄加持をしたところ、痛みは治まったのですが、半年程経つと痛みだしたのでまた寄加持をしてもらう、すると治る。しかし暫くするとまた痛みだすので寄加持をしてもらうという状況を1年の間に9度繰り返します。そして1838年(天保9年)10月23日夜四ッ刻(午後10時)、長男 秀司さんの足の痛みに加え、善兵衛さんは眼の痛み、妻みき様は腰の痛みと3人揃っての悩みとなったので、これは只事ではないとすぐ市兵衛さんを呼び、10度目の寄加持をしてもらう事にしました。しかし、その日はいつも依代となってくれる「そよ」さんが不在だった為、その代役として奥さんのみき様を依代として寄加持を行う事になりました。寄加持がはじまると、みき様の様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、この時、憑依を悟った市兵衛さんが「あなたは何神様でありますか」と問いかけたところ、「我は天の将軍なり」との返答があり、市兵衛さんがあらためて「天の将軍とは何神様でありますか」と問いかけると「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」とのお言葉が下ります。神々しい威厳に満ちた声に、身の引き締まるような霊気がその場に漲っていたそうです。善兵衛さんは考えましたが、お断りするがよいと判断し、「うちはまだ小さな子供もいますし、村の役も勤めていますのでお受けできません。他に立派な家もありますのでそちらにお越し願います。」と申し上げ、市兵衛さんも言葉を添えてお昇りくださいとお願いしましたが、「ならん!!」と言われます。未知の神様の声に百戦錬磨の市兵衛さんも途方に暮れてしまいます。「ちょっとみんなで相談します。」と言って一旦引き、協議しますが、「無理でしょう」以外の意見はなく、再三お断り申し上げますが、神様は一向にお引きになりません。
神様 「20年、30年経ったならみんなが納得する日が来るから。」
人間「そんなに待てません。」
神様「言うこと聞かないとこの家、吹っ飛ばすよ。」
人間「それは勘弁してください。」

そんな問答をしているうちに依代となっているみき様も徐々に疲弊してきます。段々と衰弱していく妻の姿を目の当たりにし、1838年陰暦10月26日朝五ッ刻(午前8時)、夫、善兵衛さんは遂に、最後の決断を下します。「みきを差し上げます。」
この善兵衛さんの返答をもって、天理教は立教したと定義されています。

 

これが天理教の立教の経緯です。信じるか信じないかはあなた次第です。

 

実際僕もこの時代にいたわけではないのでこの話しが真実かどうかは分かりませんが、真実なら神様的にはかなりギャンブルだっただろうなぁ〜と思います。善兵衛さんが承知しない可能性も無きにしも非ずだし、決断できずに妻みき様が息絶える可能性だってあったわけですから。。。
しかし、最後の決断を下せたのは、やはり夫、善兵衛さんの妻に対する愛だったのではないかと思います。そう考えると天理教の立教はこの夫婦愛なくしてはあり得ないんですよね。いつの時代も愛は全てを越えていけるパワーになるんだなぁと思います。神様が妻みき様を選んだのには理由があるんですが、今回は割愛します。

 

因みに天理教は立教の年から16年後の1854年(嘉永7年)頃から安産の神様として徐々に知名度が上がっていき、23年後の1861年(文久元年)頃から段々と信仰しはじめる人たちが現れるのですが、夫、善兵衛さんは黒船が浦賀に来航した1853年(嘉永6年)に、この世を去っています。神様の「20年、30年経ったらみんなが納得する日がくる」との言葉が現実になってきたその状を見る事なく生涯を終えられた善兵衛さん。なんだかちょっと切ないです。せめてこの教えを信仰している僕たちは、「あなたの選択は間違ってなかった」と胸を張って言える信仰者でありたいですね。

 

最後は天理教の理念についてです。
天理教の理念、それは「陽気ぐらし世界」を実現する事です。
でもこの「陽気ぐらし」と言う言葉がいつ頃から本教で使われ出したのかは定かじゃないんです。天理教には三原典と呼ばれる信仰の指針となる3種類の書物、キリスト教でいうところの聖書にあたるもがあるのですが、この「陽気ぐらし」という言葉はその三原典の中のおさしづと言われる書物の中で何回か使われています。ただ、「陽気ぐらし」の言葉が使われているおさしづは明治26年からのものなので「おやさま」が陽気ぐらしという言葉を使われていたかどうかは微妙です。「おやさま」が直接筆をとって書き残された三原典の一つ、おふでさきには、「陽気遊山」と表現されていて、「神様が人間を創ったのは人間が陽気遊山する姿を見たいからだよ〜」って言葉があります。遊山とは「山へ行って遊ぶこと。山遊び。よそへ遊びに行くこと。気晴らしに遊びに出かけること。」という意味だそうです。

ただ、「自分だけが陽気遊山をするじゃなくて、みんなで仲良くやるんだよ〜」って言葉もあります。そして、立教の時に神様が言われた「このたび、世界一れつをたすけるために天降った。」という言葉から「世界中の人が陽気に暮らしていける世界」が陽気ぐらし世界ではないかと思います。つまり、自分を含め周りの人たちを教えを用いて、明るく暮らしていけるようにする事が天理教の信仰理念であると僕は定義づけています。

 

じゃあ、陽気ぐらしって具体的にどんな暮らしですか?と言われると、分かりません。たぶん誰も分からないと思います。信仰者それぞれに何となくイメージはあると思いますし、聞かれればそれなりに答えられると思いますが、何処曖昧さが残ると思います。それはまだ誰も体験した事のない未知の領域だからだと思います。だからこそ、それを目指して試行錯誤していくところが信仰の醍醐味ではないかと僕は思います。

 

ご拝読ありがとうございました。