離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

不足じゃないよ!!

皆さんこんにちは!!

 

僕は昨日、大教会当番を務めさせてもらったんですけど、その時、ある大教会の年配の先生との会話から感じた事を綴ります。

 

最初に申し上げておきますが、僕は別にこの先生を貶めて、悪い先生にしようとしているわけではなく、僕が教内の「改善すべきではないか」と思う風潮を表現する上で、良き例であると思ったので、敢えて採用したという事を理解していただきたいと思います。

 

また、この事を一つの出来事として心に留めておける寛容さがある人のみお読み下さい。

 

昨日の当番中、ある年配の先生が大教会を来訪され、お守所で雑談をする機会がありました。その時は4〜5人で雑談をしていたのですが、話しの流れの中で3月の月次祭の話題になり、その来訪された先生と僕の間でこんなやり取りがありました。

 

先生「離島の教会長はおぢばがえりしたんか?」

 

僕「いえ、僕は自教会で遥拝しました。」

 

先生「何?不届き者!!」
 

話しを聞くとこの年配の先生はおぢばがえりをしていたそうです。

 

SNSでも3月の月次祭の様子は多くの人により投稿されていて、帰参された人が神殿南の石畳みの所で参拝している様子を僕も拝見しました。それに対して、賛否両論が飛び交っているのも知っています。

 

僕の見解は、信仰者としておぢばを慕い、おやさま を慕って、帰参された人たちは素晴らしいと思います。新型コロナウイルスが蔓延しているこの状況で様々なリスクが考えられる中、敢えて 「帰参する」事を 選択 した事は、やはりそれなりの 覚悟  が無ければできないと思うし、その 選択 をする 覚悟 がない僕は、信仰者として 不届き なのかもしれません。

 

(今回は 天理教教会本部 が帰参の自粛要請を出されているので、帰参されなかったからといって不届き にはならないと思いますが。。。)

 

しかし、その素晴らしい信仰心は自分の中に持っておけばいいものであり、他者にアピールする必要もないし、他者の 不届きさ はその本人が感じ、反省すればいい事であって、当人以外が判断する事でもないんですよね。

 

この 自分の信仰と他者の信仰 を比較してしまう思考に陥ってしまうのは ◯◯じゃなきゃダメだ信仰 だからだと思うんです。

 

自分は「 ◯◯じゃなきゃダメだ」と思っている。だからそれを達成した自分は素晴らしいけど、誰もその事を評価、承認してくれない。だから自己肯定感が上がらない。その欲求を満たす為に 自分からアピール したり 他者を貶めて 承認欲求を満たそうとしたり、自己肯定感を上げようとする。

 

◯◯じゃなきゃダメだ信仰 は結局、他者の評価や承認がなければ、自己肯定感を保てないんだと思います。そして、自分と違うやり方の人を認めない。何故ならそれを認める事は 自分 を否定する事になるから。。。

 

こういう信仰は辛いと思います。本来、自分らしく生きる為にある教えで自分を縛ってしまって抑え付けてしまうから。。。

そしてその反動は自分の無意識な行動に現れて周りを不愉快にしたり、いつか爆発して自分が壊れてしまう事に繋がっていくと思います。

 

自分の信仰を誰かと比べる必要なんかないと思います。他者のやり方を承認したからといって、自分を否定する事にはなりません。それはただの 思い込み です。「◯◯じゃなきゃダメ」なんて教理の中では一言も言われてないです。それに僕たちは 心の自由  という 選択権 を神様から与えられています。僕たちは自分の人生をどう生きるかを選べるんです。確かに、人生において自分だけで判断できず、他者に助言を仰ぐ事もあるけど、最終的に 選択 するのは自分です。誰も自分の代わりに 心の埃 を払ってはくれないし、悪いんねん を切ってもくれません。自分の 心の埃 は自分で払うしかないし、悪いんねん も自分で切っていくしかない。だからこそ、自分の中の信仰を確立していく事が大切であると思うし、その為に自ら教えを求め、その中で培われた自分の感性を軸とする 自分軸 での 選択 に 自信と責任 を持って生きていく事が重要なのではないかと思います。

 

あくまで信仰は 神様 と 自分 の中で成立しているもの。周りの評価や 無責任な価値観 に振り回される事なく、陽気ぐらし を求めて歩みを進められる自分でありたいと思います。

 

ご拝読ありがとうございました。