離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

理の親についての考察!!

皆さんこんにちは!!

 

先日、Twitter で「理の親」についてディスカッションする機会がありました。なので今回は「理の親についての考察!!」と題して「理の親」についての僕の 現在 の解釈を 備忘録 として綴ります。

 

現代天理教では 理の親 の言葉は 教会長、布教所長 などの コミュニティー を統率する役割を担う人を指し示して使われる場合が多いです。というよりもまず間違いなく その 意味で使われています。しかし、その 意味として使われる事に対する 教理的根拠 はありません。

 

 

理の親 という言葉は 三原典 の おさしづ の中で 一度だけ 使われています。

 

明治三十二年八月二十八日

 

峰畑為吉三十九才身上願

さあ/\尋ねる事情/\、どうも身上に心得ん。心得ん理いかな理であろ尋ねる。事情尋ねば、一つさしづ。よく聞き分けて、めん/\心に治めてくれ。これまで長らえてめん/\治め方通る処、治まったる。治まったるやこそ、何か順序。他に分教会順序これまでそも/\であったやろ。何か事情心に掛かったやろ。一時事情前一つ理はもう無くなった理、又改まりた理は、道順序の理。道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ。出越したる処心に掛かる。何処と言わん、心に掛かる。心に掛かる事無きよう。楽しみ以て一日の日も悠うくり。身に一つ事情は案じる事要らん。日々万事事情心通り受け取ったる/\。楽しみ通りこれまでどうも分かり難ない。どうなろうか知らん、どうしたらよかろ、どうも心いずみ切り、一寸どうなろと言うた日もあったやろ。道に理治まったら、又身上不足無く、不自由無くば、心楽しむは道理であろ。さあ案じる事要らん/\。

 


押して(松坂の方でありましょうか)

さあ/\尋ねる事情/\、それ/\こちらにこうして又あちらへと言えば、一日の日も心休まる事あろまい。めん/\万事道理今一時であろ。前々は、その日/\の道理を見て、心に分かるがよい。

 

おさしづ は表現が 断片的 なので文全体の意味を正確に理解するのはなかなか難しいです。この おさしづ を戴く事になった経緯や当時の状況を把握する必要があると思います。しかしながら、全体的な雰囲気としては、教会の運営に関して何かしらの 事情 が起きていて、その事情を治める為に 順序の理 の重要性を諭されていると僕は推察します。この場合の 順序 とは お道全体の歴史においての流れ を指していると解釈します。つまり お道の歴史の中で親と呼ばれている方 を指す意味として 理の親 という言葉が使われていると解釈します。お道の歴史 において 親 と呼ばれるのはこの世、人間を御創造された 親神様 と 親神様 のやしろとして、同じ理を許された おやさま 以外存在しません。特にこの おさしづ では全体の雰囲気から 親神様 よりも おやさま の意味が強いと感じます。

よって 理の親 の 教理的意味合い は 親神様、おやさま であると解釈します。

 

教理的 には 理の親 は 親神様おやさま 以外存在しません。なので それ 以外の意味を孕むような使い方はするべきではないと考えます。

 

ただ、信仰的に 親 が 親神様、おやさま だけなのか?と言われるとそれは違うと僕は考えます。多くの信仰者は 教理的解釈 と 信仰的解釈 を 混同 して理解している場合が往々にしてありますが、これらは分けて理解すべきだと僕は考えます。

 

教理 は確かに一つですが、信仰形態 は様々です。その善し悪しを一概に判断する事はできません。様々な形があっていいと僕は思っています。よって信仰的に 教会長や布教所長 などのコミュニティーを統率する役割を担う人を 親 とする信仰は 有り だと考えます。

 

天理教教祖傳逸話篇143 「子供可愛い」では おやさま はこう諭されています。

 

 深谷源次郎は、一寸でも分からない事があると、直ぐ教祖にお伺いした。ある時、取次を通して伺うてもろうたところ、

「一年経ったら一年の理、二年経ったら二年の理、三年経てば親となる。親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん。」

と、お諭し下された。

 源次郎は、このお言葉を頂いて、一層心から信者を大事にして通った。お祭日に信者がかえって来ると、すしを拵えたり餅を搗いたり、そのような事は何んでもない事であるが、真心を尽して、ボツボツと信者を育て上げたのである。

 

当時の 講 が現在の 教会 とするなら、教会長が 親 として 親心 を持って 信者 さんを連れて通る事は寧ろ おやさま の望みであると思います。

 

ただ、これはあくまで  信仰的役割 を全うする為の 精神 として 親の精神が大切 であるという解釈です。

 

理 において親子関係が成立するのは 親神様(おやさま)人間 の場合だけだと考えます。人間対人間 の 親と子の関係においては 親と子 という ではなく、いんねんの理 によって生じている関係であり、その いんねん によって生じた関係性においての 役割 を全うする上で 親の精神 が必要であり、大切であるというのが僕の解釈です。

 

僕たちよふぼく(取次ぎ人)は、あくまで 親の理 を用いているのであって 理の親 にはなれません。この意味は親が説かれた理(教え)を用いているのであって、自らが理(教え)を説いているわけではないからです。よふぼくは 親の理 を取次ぐ事は出来ても 理の親 になる事は出来ないと僕は思います。

 

教会長や布教所長 に尽くす事で たすかり を得て、親に尽くす事によりたすかり を得ると解釈して、教会長、布教所長 を 理の親 と解釈する人がいますが、それは 親に尽くしたからたすかりを得た のではなく、ただ、いんねんの理においての 役割 を全うした事により、いんねん が切れたからだと考えます。教会長や布教所長が凄いのではなく、そのいんねんにおいての 役割 を全うした本人が凄いのです。この認識の違いが大きな勘違いを生んでいると感じます。

 

そして、最も愚かな勘違いは いんねん から成る 役割  において、「親なんだから親らしい事をしろ!」とか「子供なんだから親の言う事をきけ!」みたいな 低レベルな解釈 をする事です。解釈が 低レベル 過ぎます。あくまで いんねん においての 役割 ですので、もし 陽気ぐらしをする状を親神様、おやさまに見せようという気があるなら 自分の与えられている 役割(課題に集中すべきです。

 

僕は 理の親 という言葉を教会長及び布教所長などの 人間 を指す意味として使う事を推奨しません。それは教理を理解する上で勘違いを生じる恐れがあるからです。

 

教理理解に誤解を生まないという観点から、理の親 という言葉の使い方をもっと慎重にするべきではないかと考えます。

 

しかし 信仰的解釈  において教会長や布教所長などの 役割 を担う人を 親 役割 と認識する事を否定はしません。ただ、それは 個人の信仰的認識 であり天理教の信仰はそうでなければならない という事では ありません。信仰の形 に決まりはありません。なので自分の 信仰 を他人に 強要 すべきではないし、逆もまた然りです。自分の 自由な感性 で構築していけばいいと思います。ただ、外してはならない 理 はあります。その 判断 を間違えない為にも、しっかりと教理を学び、実践する事は必須です。

 

お互い 理 を外さぬよう、日々精進させていただきましょう。

 

ご拝読ありがとうございました。