離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

課題をクリアしたと神様が判断すると仰っていますが、どうした時に神様が答えくださるんですか?

皆さんこんにちは!!

 

今回は、Twitter で頂いた疑問について僕なりに考察したいと思います。

 

先日、Twitter でこんな質問をされました。

 

課題をクリアしたと神様が判断すると仰っていますが、どうした時に神様が答えくださるんですか?

 


「神様の判断」というその判断という所も、結局は自分の考えじゃないんですか?

 

 

う〜ん。。。

なかなかにエッジの効いた質問です。

 

まず、 課題をクリアしたと神様が判断すると仰っていますが、どうした時に神様が答えくださるんですか? について、僕は 天理教の信仰者  です。なので判断基準は お道の教え を聞く事により得た僕の 感性 になります。つまり、僕の判断基準に大きな影響を与えているのは お道の教え です。

 

感性 は 教育や経験 により培われるものと考えます。もちろん僕の今まで経験してきた事の中にはお道の教え以外のものもあり 100%お道の教え で培われたものではないので、教えそのものではないですが、8、9割は お道の教え ではないかと自分では認識しています。

 

僕は 陽気ぐらしを実践する ということを自分の 課題 としています。それは 親神様 が 人間の陽気ぐらしする状を見たい という思いに応えたいという想いはもちろんありますが、最大の理由は自分が したい からです。

 

そして、その 課題 をクリアする為にクリアすべき 課題 があると考えています。それが 教理実践 です。教理実践 には 二種類あると僕は考えます。精神的実践 肉体的実践 です。精神的実践は「八つの埃の掃除」「いんねんのさんげ(たんのう)」、そして、肉体的実践は ひのきしん であると考えます。

 

僕の世界はこの認識により構築されています。

 

僕はこの認識によりできた世界の中で 課題 に取り組んでいくわけですが、この 課題 がクリアできたかどうかは僕には 判断できない事 です。それは、この 課題 を認識するに至った要素は僕が創ったものではないからです。これらの 課題 をクリアできたかの判断は お道の教え を説かれた 親神様おやさま或いは 教理 そのものになります。しかし現在 おやさま は現し身を隠されておられるし、教理 においてもクリア条件らしきものはありません。つまり、課題 をクリアできているか 判断 する事は不可能です。なのでこの僕の 課題 は僕の 認識 により構築された世界の中で、永遠に 課題 のままです。

 

もし、これらの 課題 が僕の世界の中で 課題 でなくなる時が来るとするなら、それは 出直す時 か 陽気ぐらしをしたい と思わなくなった時、つまり、陽気ぐらし を諦めた時ではないかと思います。

 

故に、課題をクリアしたと神様が判断すると仰っていますが、どうした時に神様が答えくださるんですか? の僕の答えは、神様は答えてくれない、故に課題はずっと課題のまま。です。

 

次に、「神様の判断」というその判断という所も、結局は自分の考えじゃないんですか? についてですが、これは僕の考えではありません。

 

 

おふでさきでは、

 

ーれつハみなめへ/\のむねしたい

月日みハけているとをもゑよ(6-97)

 

月日よりしんぢつ心みさだめて

うけとりしたいかやしするなり(6-98)

 

いまでハなにをゆうてもをもふても

みなにんけんの心はかりで(6-99)

 

これからハよき事してもあしきでも

そのまゝすぐにかやしするなり (6-100)

 

月日よりみなそれ/\とみさだめて

善とあくとをみハけするぞや(8-52)

 


はたらきもどふゆう事にをもうかな

善とあくとをわけるばかりや(13-40)

 

と歌われています。

 

つまり、神様は人間それぞれの認識に応じて判断し、その人に相応しい世界を見せてくれるという事だと解釈します。

 

まぁこの解釈も 自分の考えでしょ!って言われると何にも言えませんが。。。

 

しかし、教理的根拠 はあるという事になると思います。

 

故に、「神様の判断」というその判断という所も、結局は自分の考えじゃないんですか?  の僕の答えは、僕の教理解釈による根拠から自分の考えではないと思う。です。

 

人間の世界は 真実 や 現実 ではなく 認識 で回っています。つまり、思い込み です。 そしてその 思い込み は 思考の癖 により変わってきます。

 

例えば、優しくて思いやりがあり家の手伝いもよくするけど、勉強ができないT君という少年がいます。T君のお父さんは 東大 出身の弁護士、お母さんは専業主婦です。お父さんはT君を 勉強ができない出来損ないの駄目な子 と思っています。お母さんは 優しくて思いやりがあってお手伝いもよくしてくれる良い子 と思っています。さあこのT君は別人でしょうか?いいえ、同一人物 です。

 

T君という少年が存在している。これが 真実 であり 現実 です。そこに 駄目な子、良い子 という 付加価値 を付けたのはお父さんとお母さんの 認識 です。現実に 駄目なT君 や 良いT君 が存在するわけではなく、そう認識しているお父さんとお母さんがいるだけなのです。

 

世界は認識により変わります。そして認識を変えるには 思考の癖 を変える必要があります。おやさま はこれを 癖、性分をとる と表現されました。それは即ち 仕分け をしないということだと思います。つまり、陽気ぐらし に必要な要素は 判別 ではなく 選択 ではないかと思います。そしてその選択基準は 教理 です。教えをもとにどう認識し、選択するか という事が 陽気ぐらしの実践 には大切であると僕は思います。

 

人間の世界は認識できるもののみで構築されます。それは即ち、認識できるものが多ければ多い程、世界は広がっていくという事です。それは 選択肢 が多いという事でもあります。

 

もし、真実 や 現実 があるとするなら、それは 人間の思考の範囲外 で起こる事象です。それは所謂 奇跡 と言われるものです。その事を 認識 し 選択 する時、人間は真実や現実に辿り着けるのだと思います。

 

ご拝読ありがとうございました。