離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

自分の人生を生きる!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は、「自分の人生を生きる!!」と題して、「八つの埃」の教理を考察していきたいと思います。

 

天理教 では、人間は誰しも しあわせ になる為にこの世界に存在していると考えます。それは神様が人間を御創造された目的が 人間の陽気遊山をする姿を見たい だからです。


陽気遊山 とは、楽しく明るく遊ぶ様子ではないでしょうか?その状はきっと人間誰しもが しあわせ と感じる事ができる状況ではないかと思います。そしてその状はきっと孤独ではなく、多くの人々との繋がりの中で、成立するものではないかと僕は思うのです。しかしながら、その為には、人間、1人1人がしっかりと自分の人生に 責任 を持って生きている事と、周りの人達と仲良くたすけあう事において 怠惰 にならない事が、必須 であると思います。なぜなら、自分の人生を生きているのは自分だし、世界は自分だけの力で生きて行く事はできないからです。それは 自分の人生の質を上げる為の努力 になるのではないかと思います。

つまり、自分という人間の人生を丁寧に生きる事、もっと言えば、自分の人生において、サボらない という事になると思うのです。

 

 

僕たちの日々の生活の中で、人生の質にもっとも影響を与える要素、それは 身体の健康 人間関係 ではないでしょうか?人間の悩みランキングでもこの二つが1位と2位にランキングされているようです。特に日々の生活における人間お互いの関係性は、近年起こっている多くの社会問題の根底にあるものと言っても、過言ではないような気がします。人間関係は相手が居てはじめて構築されます。構築する過程で何らかの原因で良好な関係を築けない場合もあります。

 

僕たち人間はその原因を自分では無く相手側に見出す場合が多いのではないでしょうか?

 

僕は自分の人間関係に最も影響を与えているものは 相手の言動 ではなく、自分自身の思考や認識 であると思っています。人間の人生は 何が起こったかで決まるのではなく、それをどう認識するか で決まります。

 


僕たちは、自分の人生であるにも関わらず、自分ではなく他者にフォーカスして物事を認識する場合が殆どではないかと感じます。しかしそれでは、いつまでたっても問題は解決しません。何故なら他者は変えられないし、変わらないからです。自分の人生において、自分の裁量で他者の思考や言動を変える事はできません。変える事ができるのは他者ではなく自分自身です。ならば、変えるべきは相手ではなく、自分の思考や認識ではないかと僕は思います。天理教 では思考や認識の仕方を変える事を 癖、性分をとる と表現します。しかしなかなか自分の思考や認識を変える事は難しいです。一度付いた癖や潜在的に持っている性分を取るのはなかなか簡単ではありません。故に楽をして人生の質をあげよとします。

 

 

人間誰しも良い人生を送りたいという願望を持っています。もちろんその願望は生きていく上でとても大切な要素です。その願望が無ければ向上心は生まれないのですから。しかし、その願望も周りの人たちとの関係性を良好にする事や自分自身の人生を良くする努力もしないで実現しようとすると、それはただの我儘になります。結果、その我儘が自分に都合の良い認識を生み出します。天理教 ではその我儘な心遣い、つまり自己中心的な心遣いを「埃」に例えて説かれています。これが「八つの埃」の教理です。八つの埃と言うだけに八つあります。

その心遣いは おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん の八つです。言葉の意味はそのまま解釈して大丈夫だと思います。

 

 

ただ、実はこの八つの埃の要素は、人生の質を下げてしまう要素であると同時に、人生の質を上げる要素となる性質をも持っています。教理的にはシンプルですが、どこからを埃とするかの判断が非常に難しいのです。そこでどこからを埃とするか?について僕なりに考察していきたいと思います。

 

 

埃の性質は実は二種類に分類できるのではないかと考えます。自分の人生の質を上げる努力や、周りの人たちと良好な関係性を築く努力をしないで、良い人生を送ろうとする事、所謂 我儘な心遣い により、埃の特性になるものと、その努力しない事により生じた人生の質を下げる事象の原因を自分ではなく他者に見いだす事、所謂 責任転嫁 により、埃の特性になるものです。前者に分類されるものは おしい、ほしい、かわい、よく、こうまん。後者に分類されるものが にくい、うらみ、はらだち であると考えます。

 

例えば、おしい の埃で言えば、勿体ない精神で物を大切にする事は良い事ですが、他者が物が不足して困っていて、自分はその物を十分過ぎる程持っているにも関わらず、他者がそれを求めて来た時、出し惜しむ事は、自分さえ良ければ他者はどうなってもいい という我儘で自己中心的な心遣いであり埃となります。そしてその心は他者の自分に対する認識を悪くする事に繋がり、周囲の人たちの自分に対する認識を悪くする事にも繋がります。結果自分の人生の質が低下します。

 

つまり、自分の保身の心から周囲との関係性を良好に保つ事において、怠惰になる事は、自分の人生の質を下げる事になる という事です。そして、その原因を自分ではない誰かに見出した結果、その誰かを憎(にく)んだり、怨(うら)んだり、その誰かに対して腹を立てたりすると、これも埃となります。

 

要は、自分が楽をして、自分の人生の質を上げようとする心遣い、そしてその心遣いにより生じた自分の人生の質を下げる事象の原因を自分ではなく、他の誰かのせいにする心遣いが埃となると僕は考察します。そしてこの本質は「自分の人生に責任を持ってしっかり生きていない」という事になると思います。

 

 

人間関係において、お互いにサポートし合う関係性は非常に大切だと思います。それにより自分の人生は間違いなく豊かになるでしょうし、周囲の人達の人生も豊かになると思います。しかしながら、自分の人生を他者がしあわせにしてくれるなんて事はありません。何故なら人間は自分の人生しか生きられないからです。

 

 

例えば、プロ野球選手になりたい少年がいます。仮に A君 としましょう。A君がプロ野球選手になる為には、A君 が自ら努力してプロ野球選手になれるスキルを身につけなくてはなりません。A君 のお父さんが息子をプロ野球選手にしたいからと A君 の変わりに努力しても A君 がそのスキルを身につける事はできないのです。お父さんのできる事は「良いトレーニング環境」をつくるなどのサポートだけです。プロ野球選手になれるかなれないかはあくまで A君 自身の努力にかかっているのです。

 


自分の人生を良きものにするには、自ら努力するしかありません。しかしながら、人間は、往々にして、自分の努力が至らない故の結果を他者や何かのせいにします。自分の努力の至らなさを「正当化」しようとします。しかし、いくら自分を正当化したところで自分の人生は何も変わりません。自分の人生を変えるには、自分の努力の至らなさを自覚し、その努力の至らない部分を自ら埋めていくしかないのです。

 

 

冒頭でも述べましたが、人間が創造された目的は 陽気遊山の状を神様に見せる為 です。神様はその目的で魂を創り、自由を与え、その自由を与えた魂に身体を借すというシステムにしています。つまり、身体の正しい使い方は「皆で仲良く陽気に遊ぶ(暮らす)事」です。故に、この正しい使い方ができていない身体には必然的にガタがでてきます。

 

例えるなら、木材用の鋸を鉄材を切断するのに使うようなものです。つまり、八つの埃の心遣いを続けると人間関係が悪くなるばかりではなく、自分が借りている身体自体にも問題が起こってきます。何故なら肉体と精神は二つで一つだからです。心の在り方と健康は密接に関わり合っています。それについての詳しい説明は今回は割愛します。

 

 

今回は「自分の人生を生きる!!」と題して、「八つの埃」の教理を皆さんとシェアさせていただきました。前述しましたが、この 八つの埃 の教理は教理的にはシンプルですが、どこから埃とするかの線引きが非常に難しい教理です。つまり、日々の生活の中で無意識に使ってしまう心とも言えます。よって敢えて「埃」と表現されているのだと思います。埃は知らず知らずに積もり重なるものです。しかしそれは自然な事です。気づいた時に掃除をすれば良いのです。ならば人間の心においても 埃を積まない事が大切なのではなく、気づいて掃除(反省し、改善する努力)をする事が大切 なのだと考えます。

 

 

世界中の人々が仲良くたすけあい、陽気に暮らせる世界の実現を目指して、先ずやるべき事は「自分の人生に責任を持って生きていく事」だと僕は思います。自分の人生を大切にできない人に他者の人生を大切にする事などできないと思います。自分を尊い存在だと自覚できるからこそ他の命を尊いと認識できるのではないでしょうか?それにより、お互いを尊重する心が培われ、真にたすけ合える関係性を築く事ができるのではないかと思います。その為には精神的に成人する事がとても大切だと思います。自分に甘える事なく、心を磨き続けられるお互いでありたいですね。

 

ありがとうございました。