離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

御供についての考察!!

 

皆さんこんにちは!!

 

今回は 御供 (主に金銭的御供)について考察しま〜す。!テヘペロ

 

御供って信仰に必要ですか? って疑問をSNSでよく見かけますし、リアルでも聞いたりします。

 

そもそも論として、信仰に必要なものはないし、必要ないものもありません。それは信仰が 無形 であるからです。だから、御供 が信仰に必要なのかどうかなんて人それぞれの 認識  で違うし、答えなんてありません。

 

無形 とは決まった形が無いという事です。それは時代や人により、形が変わるからです。変わっていいし、変わる事が自然なんです。

 

しかし、人間は、形にこだわります。誰がこだわるのか?自分自身がこだわるんです。こだわっているんです。つまり、御供をする という箱を自分で創って、その箱に自ら入り、鍵を掛けているにも関わらず、そこからどうやったら出られるのかが分からなくなっている。

 

誰もそんな箱なんか創ってないし、入りなさいなんて言ってない。ただ自分が自ら進んで入って、鍵まで掛けちゃっている。なんとも言えない状況です。

 

僕の信仰の形において、御供 は大切な要素です。何故なら、日々の親神様からのかりものに対する感謝を表現する行為として、御供 は手っ取り早く感謝を表現できる方法だからです。世間働きをしている手前、たすけ一条に邁進できない僕には 御供 くらいしか親神様への感謝を表現する方法がありません。もちろん 布教 やできる範囲の おたすけ もしますが、自分の中では、自分の感じている感謝を表現し尽くすには全然足らないと思っています。

 

だからせめて、御供くらいは日々、月々させていただきたい。

 

と思っています。

 

最近は、御供は信仰に必要ない と自信満々に言う方々がおられますが、そういう事を言う方々は、御供 をしなくても日々の親神様からのかりものに対する感謝を十分に表現し尽くすだけの行いをされているのでしょうか?どこまで表現すれば もう十分だ と言い切れるのでしょうか?それは何を基準に決められるのでしょうか?僕には、その基準が分かりません。だからやり続けなければならないと思っています。

 

皆さんはどうですか?

 

また、親神様は感謝される事を望んでいない。なんて事を言う方々もいますが、あなたが神様ならば、その意見は正論になるでしょうが、あなたは神様じゃないですよね?たぶん。。。

 

 

例えるならば、Aさんにたすけて貰って、その恩返しに贈り物をしようとするBさんに、Cさんが 「そんな事をAさんは望んでない。」って言うのと同じです。はっきり言って大きなお世話だし、そもそも、たすけて貰った事への感謝を形として表現しようとしない人は、人間的な感性にちょっと問題があるんじゃないかと思います。

 

大恩を大恩と認識できないから、これくらいやってるんだからいいだろうと思っちゃう。それって自分の甘さから来る怠慢じゃないかなって思います。

 

おやさま は確かに、天理教教祖傳逸話篇 72「救かる身やもの」の中で、

 

 おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。

 教祖は、

「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」

と、仰せられた。

 

と諭される場面がありますが、これは、ベストな形 を提示しているだけであって、この形しか受け取らないって」事を言っておられるわけではないですよね。

 

質問されたから、ベストな方法 を提示しただけだと思います。

 

もちろん、ベストな方法 が可能な人はその形で報恩すればいいわけですが、四六時中、24時間、365日おたすけに奔走するって並大抵の覚悟じゃできないですからね。

 

「それを自分は体現できていて、これからも体現し続けられる。」

 

と言い切れるのならば、御供 は必要ないと言い切っていいと思います。

できればの話ですが。。。

 

 

組織の資金運用に疑問を持って、御供 をしない人もいますが、御供 は報恩の形です。なので自分の手から離れた時点でそれは神様に献上したものとなり 報恩の心の理 を神様は受け取ってくれています。だから、献上した後の御供の流れを考える必要なんかないんです。それが気になるのは間違いなく 人間思案 です。おやさま は人間思案を戒められているお言葉を多く残しておられます。お道の信仰者であるお互いは 人間思案 に流される事のない歩みを進められる人でありたいですね。

 

 

結局、何が言いたいかと言うと、自分が持っているお金を手放すのは、それなりの動機が必要で、その動機付けをするのは自分自身という事です。親神様からのかりものに対する感謝の心は信仰者であれば、誰でも感じている事であると思います。それをどんな形でどこまで表現し尽くせるかが信仰だと思います。教えを実践する事やその為の努力は最低ラインです。そのラインにどこまでプラスαを上乗せする事ができるのかという事だと思うんですよね。

 

やりたくないという感情はたぶん誰しも持っています。

 

その感情を正当化する為の理由を探すのか?

 

その感情を越えていける喜びを探すのか?

 

その違いだと僕は思います。

 

最後に、これはあくまで個人の見解を述べているだけですので、今これを読んでいるあなたを責めているわけではありませんし、責める気もありません。冒頭でも言いましたが信仰は 無形 です。なので形に捉われる事なくあなた自身が信仰と向き合い、自分自身と向き合って、自分なりの答えを探してみてください。

 

おしまい。!テヘペロ