離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

【理】についての考察!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は、【理】について考察したいと思います。以前にもこのテーマで考察を深めたブログを書いた事がありますが、最近、理の親 について色々な考え方に触れる機会があり、ある種の 不毛さ を感じ、それは、「結局のところやはり理という概念が曖昧だからではないか?」という結論に至ったので、改めて考察していきたいと思います。

 

尚、この考察は、僕自身の考えを整理する為の作業として行うもので、絶対解 を提示するものではありません。

 

僕が少年期から疑問を感じていて、未だに何処か曖昧さを感じる 信仰的概念 の中で、理 はまずトップクラスに入ります。トップと言っても過言ではないでしょう。

(僕の中での話です。)

 

それは間違いなく、理 という概念を明確に説明してくれる 大人 がいなかったからだと思います。何故 大人 たちは明確に説明してくれないのか?という疑問は、大人になって理解できました。それは、説明できないからです。つまり 概念を明確に定義付けできていないから、要は分からないんです。しかも、たぶんあえて 定義付けしない事 を 選択 しています。それは所謂、巷で言われる 大人の事情 という現象だと僕は理解します。

 

しかし僕は、自分の後輩たちに 大人の事情 で彼らの疑問を有耶無耶にするような 卑怯な大人 になりたくはないですし、自分自身がその 曖昧さ に便乗して、自分に都合の良い使い方をしてしまわないように、自分の中である程度の定義付けをしておきたいと思います。それはその為の試みです。

 

まず 理 の本来の言葉の意味と教理で使われている 理 の意味に相違があるのかを考察します。理 という言葉には本来、もっともな事。道理。条理。理由。わけ。理論。理屈。のような意味が含まれているようです。

 

また、読み方は、り、ことわり、すじ、おさ(める)などがあるようです。

 

元々は、中国哲学の概念であり、本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味するそうです。

 

そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味に派生していったと考えられているようです。

 

神様は人間にその考えを伝える為に、人間の言葉を用いているわけですが、その時の言葉のチョイスは、神様のイメージに近い意味の言葉を選ばれているはずなので、本来の言葉の意味と全く違うことになるような使い方はされていないと推察します。

 

理 の本来の言葉の意味は総じて、決まり事や決め事 という事になるのではないかと理解します。つまりそれは、法則 であるのではないかと考察します。

 

法則とは、いつ、どこでも、一定の条件のもとで成立する関係。きまり。守るべき規範。という意味だそうです。

 

人間がこの世に存在する目的が、陽気に暮らす状を神様に見せる事 と定義されている 天理教 において、理 とは、その状を実現する為の 法則 であると僕は定義します。

 

理 は神様により決められた 陽気ぐらし をする為の 法則 で、それは神様のイメージする 陽気ぐらし をベースに決められていると考察します。世界はこの 法則 により支配されていて、その支配を司るのは 親神様 であると考えます。

 

もし、神様が語源の意味を含ませていると考えるなら、魂を磨く為の行程 という考察もできなくもないです。

 

イメージを明確にする為にいくつか例を挙げます。

 

例えば、いんねんの理 という言葉がありますが、僕の考察からこの言葉を変換すると、いんねんの法則 となります。これは いんねん という条件下に成立する関係であると考察します。

 

親の理 という言葉は、親の法則 と変換できます。これは 親 という条件下に成立する関係であると考察します。

 

最後に、親の理 については、まず、親 の条件を満たす必要があるわけですが、天理教 において親と定義付けられる条件としては、この世、人間を御創造された 親神様この世の 元初まり において 神として拝をさせる という契約の下、月日のやしろ として定められた おやさま 、そして おやさま が現し身を隠された後、その名代の役割をする事を許されている立場(よふぼく)となると考察しますが、親神様おやさま に関しては 無条件 で親の条件を満たしているのに対して、よふぼく は、役割を全うしようとする時のみその条件を満たすと考えます。この意味は、親 の条件が、よふぼくになったその個人に与えられているのではなく、その 役割 に与えられているという事です。

 

こう考えると、お互いに よふぼく同士 である場合は、親 である側面と 子 である側面が両者にあるのではないかと考察できます。つまり、教会長や布教所長 と その教会に繋がるよふぼく との関係は、お互いが 親 でもあり、子 でもあると考えられます。状況に応じて、その立場が入れ替わる事により、お互いを成人させる事が、よふぼく お互いの在り方なのかもしれません。

 

今回は、理=法則 と定義付けましたが、三原典での 理 の使われ方には、必ずしも 法則 と解釈できないものもあります。しかし、基本的には、この 意味から派生していると僕は考えます。つまり、法則 という概念を何かしら孕んでいる表現になっているのではないかと考察します。

 

以上です。おしまい!