離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

それは試練か絶望か?

皆さんこんにちは!!

 

今回は「試練」について考察したいと思います。

 

つい最近 Twitter でこんな呟きをしました。

 

https://twitter.com/religionist_007/status/1262211533427204096?s=21

 

「この Tweet に、もっと掘り下げてブログに書いてほしい。」

 

とのリプライが付きましたので、今回はそのリクエストにお応えすべく、この Tweet を掘り下げて 練り練り していきたいと思います。

 

その前に、僕は SNSでリクエストをされた事が皆無だし、そもそもリプライも殆ど付かないので、今回のリプライは凄く嬉しいです。

かと言って今回のリクエストの期待に応えられる記事にする自信も皆無ですが、僕なりに 練り練り した記事をお届けしたいと思います。

 

それでは、Let us go 〜 !!

 

そもそもこの Tweet の感覚をどこで得たかと言いますと、最近観たドラマ 仁ーJINー を観ていてです。

 

仁ーJINー を観た感想は以前ブログにしてますのでよかったら読んでみてください。

 

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2020/05/16/113912

 

その劇中で主人公 南方 仁 が試練にぶち当たるたびに言う台詞が、

 

「神は乗り越えられる試練しか与えない。」

 

でした。普通に名言だと思うし、一般的な感覚の人はこの台詞が出てくるシーンに感動して終わりなんだと思います。

(もちろん僕も涙ながらに観ました。)

 

しかし、僕は捻くれているのでしょう。感動が引いていくとふと思うんです。

 

「いや、試練多すぎやろ!!」

 

それは仕方ない事なんです。構成として 試練 がないとドラマとして成立しないわけですから。だからこそドラマの場合は 試練  に立ち向かわなければならないんです。

 

でも、僕たちの人生はどうでしょうか?

確かに、試練 と認識できる事はそれなりに起こりますが、立ち向かう立ち向かわない かは 選択 できるんじゃないかと思うんです。

 

ならば、試練 は 神様が与えている のではなくて、寧ろ 自分から試練に突っ込んで行っている のではないかと思ってしまったのです。

 

試練 とは

 

実力・決心・信仰の程度を厳しくためすこと。また、その時の苦難。

 

だそうです。

 

厳しくためす、苦難。試練 とは辛く厳しいものです。でも やらなければならない事 でもないですよね。その ためし や 苦難 に乗るか乗らないかの 選択 は提示された本人に委ねられているし、乗らないからといって生きていけない事もないです。試練 は向き合ってはじめて 試練 になります。逆に言えば向き合わない限り 試練 にはなり得ないという事ですよね。しかし、試練 という概念があるという事は向き合うという概念があるからです。何故向き合わなくても生きていけるのに、向き合うという 超どM な選択をするのか?それは、みんなそれぞれに 夢や理想 などの実現したい もの があって、それを実現する為には、その 試練 と認識したものを乗り越えなければならないと分かっているからだと思います。

 

夢や理想 を実現する為のルートは一つではないと思います。自分が歩いているルートにおいて 壁(試練) ぬりかべ のように立ちはだかってきた時の選択肢は2つ、乗り越えるか、迂回して違うルートを行くか だと思います。しかし、どんなに迂回しても避けられない壁というのもまた 存在 します。その時の選択肢は2つ、乗り越えるか、諦めるか です。

 

「あなたはどちらを選択しますか?」

 

次に 信仰的 な 試練 について考察したいと思います。

 

天理教 信仰 している僕が 試練 という言葉で先ずイメージするのは、身上の障り や 事情の縺れ です。これらに直面した時、先ず感じるのは 絶望感 だと思います。特に難しい 障り や 縺れ であればある程、その感情も大きくなるのではないでしょうか。

 

こういう言い方をすると 試練=絶望 と思う人がいるかもしれないですが、僕は 試練 と 絶望 は違うと思います。正確に言うと 絶望 はその もの を 試練 と認識する前の段階で感じる 感情 であると思います。つまり、試練 となり得るものに直面した時、人が最初に感じるのは 絶望 なのではないでしょうか。その 絶望 からある要素を見い出せた時、その もの を 試練 と認識できるのではないかと思うのです。その要素は 希望 です。

 

希望 はより良い未来を拓く為の感情であり、その感情の先にあるのは 成長 です。つまり、その もの を自分自身の成長の糧と認識できた時、それは 試練 になり得ます。逆に言えば、成長をしようとしない人、あるいは、絶望 に向き合う事をしない人には、その もの は 試練 となり得ないし、未来も拓いていかないと言えるのではないでしょうか。

 

天理教 の 理念 は 陽気ぐらし をする事で、世界は 陽気ぐらし に辿り着く為の 理(法則)に支配されています。そう考えると、この世には 絶望 なんか無くて、あるのは果てしない 希望 だと思えます。そういう 価値観 を与えてくれるこの 御教え は本当に素晴らしいと思います。

 

試練 は辛く厳しいイメージが強いけど、その先に見えているのは、明るい未来です。そう考えると 試練 は人生をより良くしてくれるものである事は間違いないと思います。ただ、向き合い、乗り越えるのは1人では難しいです。でもそれを 試練 と認識して乗り越えようとする時、あなたがその 試練 を乗り越えられるように支えてくれる人たちが必ず現れます。だから必ず乗り越えられるはずです。

 

最後に、冒頭でドラマは試練がないとドラマにならない と言いましたが、それは僕たちの人生にも言える事だと思います。良いドラマに 試練 が付き物のように、良い人生にもきっと 試練 は付き物だと思います。試練 を乗り越えた数だけ、豊かで 濃厚 で素敵な人生になるのだろうと僕は思います。

 

おしまい!