離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

数を追う信仰からの脱却!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は、「数を追う信仰」について僕が思う事を綴ります。

 

 

目次

 

 

心定め

 

 

天理教 ではよく 心定め という 目標 の様な 誓い の様なものをしたり、またするように促されたりします。こういう場合は大抵、にをいがけ何万軒 とか 初席者何名 とか 修養生何名 とかという具体的な数字を定める場合が多いです。

 

三年千日 なんて言葉もあって、本部や教会 の記念祭や行事には、三年前から 心定め をして三年かけてその心定めを達成できるような動きをします。

 

具体的な数字を定める事により、目指すところが明確になるので、動きとしてはイメージしやすいし、動きやすいと思います。しかし、それは、その事を最優先にしてしまう という事、つまり 信仰的余白 がなくなる事に繋がる可能性が高くなるのではないかと思うのです。

 

例えば、にをいがけ何万軒 という 心定め をした場合、この 何万軒 という数字に捉われ、その達成を 最優先 にしてしまった結果、本来の にをいがけ の目的やあるべき姿を見失うというような状態に陥りやすくなるのではないかと思います。

 

しかしながら、夢中になるからこそ掴めるものがあるというのもまた事実です。一心不乱にやるからこそ掴めるものもあります。この場合、求められるのは 不可能ではない可能性 という要素と 集中力を維持できる期間 である事だと思います。できるかできないかのギリギリの短期間で達成できる数字。あまり長期間になり過ぎるとやはりダレてきますし、雑にもなります。それでは掴めるものも掴めません。長期間になる場合はある程度余裕がある数字を設定するべきだと思います。

 

 

信仰的余白の大切さ

 

 

そもそも 信仰 とは 、目に見えない もの を追うという要素が大きいです。それはある意味 目に見えるものから脱却するからこそ気づけるのではないか とも思えます。

 

数を追うという事は目に見える もの を追うという事。それは確かに 認識 が容易であり分かりやすい世界ではあります。しかし、本来掴むべきものは 目に見えない世界 にこそ存在するのではないでしょうか?そう考えると大切なのは 感じる力 であり、その 感じる力 を最大限に発揮できるのは 視野が広くとれる状況、即ち 余裕のある状況 ではないかと思います。

 

もちろんどんな状況でも視野を広くとる事ができる人はいますが、それには 高い能力 が必要で 万人 には無理です。なのであまり現実離れした数字を 目標 とするのは信仰的には好ましくないのではないかと思います。

 

教内 では、メモリアルなイベントに際して 三年千日 として 心定め  がよく提示されます。しかしこの場合、この心定めを決める作業にその心定めの達成に関与する人たちが 関わっていない という現象が生じます。この場合、具体的な数字を提示してしまうとそれは信仰的な 心定め というよりも 業務 という感覚に近くなります。信仰はあくまで 自主的 な要素があるからこそ 実 を結ぶものだと思います。なのでこのような場合は 抽象的 な提示をして、それを受ける人たちに 自主的な選択 ができるような 余白 を持たせるべきであると思います。

 

 

最後に

 

 

教会単位で 心定め をするのはかなり難しいと思います。何故なら 信仰レベル がそれぞれ違うからです。その レベル を何処に合わせるかで下手をすると 不足 をする人たちも出てきます。そもそも論として、その教会に属する人たちがみんな 同じ事をしなければならない という事はないと思います。そう考えると、教会単位でする 心定め は ナンセンス なのかもしれません。それぞれがそれぞれの 信仰レベル に合わせた 成人の歩み ができるようの環境がやはり ベスト だと思います。

 

大切な事は イベント を成功させる事ではなく、その イベント が 成人の糧 となるかどうかだと思います。もし それ が 成人の糧 とならない要素があるのならそれは信仰的には 必要のないもの ではないかと僕は思います。

 

おしまい!!