離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

リーダーの二極化!!

 

人の上に立つ者には大きく分けて二種類の人間しかいない。自分が偉いと思いどこまでも傲り高ぶる人間と自分は周りの人達に支えられているからこそ存在できていると思い、何処までも謙虚である人間だ。そしてとかく人は、自分で自分を正確にジャッジできない生き物である。

 

何故、このような二極化が起こるのだろうか?

 

その大きな要因は人格とか性格といった要素だと思う。これらの要素は自分自身で形成するという部分もあると思うが、大部分、殆どの部分が教育により育まれものであると僕は認識している。つまり、この二極化が起こる原因は教育、特に日常生活で関わりの深い人達、親や同居人といった人達との関係性の中で受ける教育が最も大きな要因であると思う。

 

人間は歳を重ねるに従って教育を受けるという要素が薄れていく。それは人間は歳を重ねるごとに自我が強くなる生き物でその自我教育を受ける事において様々な弊害をもたらすからである。よって人間は歳を重ねるにつれて教育を受けるから自ら学ぶというスタンスに移行していく。この段階において上手く移行できない者とできる者に分かれる。そしてこの二極化に影響を与える要素もそれまでに受けてきた教育である。

 

天理教組織においてもこれらの二極化は起こっている。組織上層部において特に顕著に現れているようだ。教えの性質上、信仰家庭に生まれれば圧倒的後者に育つ可能性が高いと思う。しかしながら前者になってしまうケースも一定数いるようだ。その要因はやはり教育だと思う。

 

教え通りに生きていく。これが信仰者の理想のライフスタイルであろう。しかしながら、そううまくいかないのが人生なのである。

 

信仰的教育において最も弊害となるものはやはり人情であると思う。これは人情が必要ないというわけではない。寧ろ人情教育には欠かせない要素である。しかし、強すぎる人情弊害となる。天理教的に言えばの心遣いになると思う。血縁関係において親は子に過剰な人情を掛けがちになる。これはある意味人間の性(さが)なのだろう。しかしながら、仕込むべき事を仕込まれなかった人間の末路は裸の王様である。

 

前述もしたが、教育を受けるという段階、自我がまだ確立していない段階の教育により、人格や性格はほぼ完全に形成されると考えて間違いないと思う。つまりこの段階において質の良い教育を受けられなかった人間がその後、その人格や性格を劇的に好転させる可能性はかなり低い。

 

特に天理教には理の親という概念が存在する為、組織的な上層のポストについた者、或はその可能性がある者を他者が教育できるケースは極めて少ない。つまり例えば、本部員や大教会長のポストに着いた者、或はそのポストに着く予定の者が教育を受ける段階において良質な教育が受けらなかった事により適切な人格を形成できなかった場合、その人物がそれから後適切な人格者になる可能性はほぼ皆無である。

 

教内でよく「うちの大教会は〇〇だから仕方ない」とか「うちの大教会長は〇〇だから。。。」のような言い回しを時折耳にする。しかしながら、それは大教会大教会長自体が悪いのではない。寧ろそれを創り出した教育、もっと言えばその教育に携わった者が悪いのである。順番が逆なのだ。大教会長がそうであるからそういう教会になったのではなく、そういう教会にしようと教育したからそういう大教会長になったのである。

 

はっきり言うなれば、そういう大教会になったのは、そういう大教会にしようと教育した周りの大人達の責任なのである。そう考えるなら年配の直轄や部内の教会長が若い大教会長を悪く言うのは何とも滑稽な話である。何故ならばその直轄や部内教会長がそういう人格になるような関わり方(教育)をしたからそういう大教会長になったわけであり、その原因は自分たち自身にあるからだ。

 

人一人の人格や性格の形成は僕たちが思う以上に多くの人間の関わりの中でなされていくものなのだと思う。そして、何より教育を受ける側教育を行う側を思う以上に観察している。教育を行う側の一挙手一投足が受ける側に影響を与えると思って間違いないだろう。そして、忘れてはならない事は教育を受ける側において関わる全ての人間が教育を行う側になり得るという事。自分にはそのつもりがなくとも、他者には何かしらの影響を与えているものだ。

 

それを意識した振る舞いこそ育成には必須であると僕は思う。教育を行う側がまず人格者でなくてはならないし、そうであれるよう自分自身努力し続けたい。