離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

信仰と悟り!!

 

個人の悟りは結局、個人の悟りという概念を脱し得ない。個人の悟りはそれ以上でも以下でもないのだ。

 

現代の天理教の信仰者にとって最も大きな問題は信仰的な正しい解答を得る事ができないという事だろう。おやさまは現代においても御存命ではあるが、御身は隠されているので親しく会話を持つ事は不可能だ。故に現代において信仰的な正しい解答を知っている者、又は理解している者はこの世には存在しない。

 

信仰とは何なのか?

 

それは悟りを得る事であろう。悟りを得ずして成人などあり得ないし、成人無くして陽気ぐらし世界の実現など不可能である。

 

教え悟りを得る為に存在する。誰がどんな悟りを得ても構わないし、どんな悟り方をしなければならないなんて決まりもない。誰でも自由に悟りを得ればよいのである。誰がどんな悟りを得たとしてもそれを肯定や否定をする権利は誰にも与えられていないし、そもそも肯定や否定をする事自体が不可能である。何故なら正しい解答を知っている者がいないからである。

 

ただ気をつけ無ければいけない事、心得ていなければいけない事はある。それはその悟り=天理教ではないという事。全ての信仰者の悟りは全て天理教ではないのだ。

 

現代の教内には天理教蔓延している。天理教の教えじゃないけど、天理教の教えっぽいものが蔓延している。少なくとも僕はそう感じている。

 

悟り=教えではない。教えは悟りを得る為のものである。教えが先なのである。悟り<教えなのである。教えを説くとは悟りを説く事ではない。ここを勘違いしている信仰者が多いのだ。

 

自分の悟りをさも天理教の教えが如く説く先生と呼ばれる方々は思いのほか多い。これは現代に限った事ではない。先人、先輩方の中にもそういう輩はいたであろうし、現に現在の教内には、出典不明の言葉や表現が数多と存在している。

 

個人の悟りを説く事が悪いわけではない。個人の悟りをさも天理教の教えが如く説く事が悪いのである。

 

信仰とは悟りを得る事である。であるなら、個人の悟りを説き、語り合う事はごく自然な事であろう。しかしあくまで個人の悟りとして説くべきである。何故ならそれは正解ではないのだから。

 

信仰とは悟りを得る事である。そして、信仰とは正解を得る事ではない。

 

悟りとは必ずしも正解でなくても良いのである。大切な事は親の思いを理解しようとする姿勢ではないだろうか?ならば信仰的に最も怠惰な事は悟りを得ようとしない事である。そして現代信仰者にはこのタイプが思いのほか多いと感じる。

 

おしまい!!