成るもいんねん!!
皆さんこんにちは!!
今回は今日、お昼にお弁当を食べていた時にふと思い浮かんだ事を備忘録として綴ります。
成るもいんねん という言葉を良く聞きます。いんねん により成る事が決まる。というのが一般的な解釈ではないかと思います。
成ってくる事にはいんねん が作用している。だからいんねん が無くなれば(切れれば)成ってくる事も変わってくる。
このような使われ方をする場合のいんねん とは悪いんねん を指している場合が多いです。
この場合、悪いんねん が切れれば、悪い出来事が起こらないという考え方になりやすいと思います。悪いんねん は悪いものでそれを切る事で人生が拓けてくる。
確かに悪いんねん を切る事は必要な事だと思います。ただ、その事にフォーカスし過ぎると本来あるべき姿が霞むような気がします。
そもそも何故親神様は悪いんねんという概念を創ったのでしょうか?
この疑問を考える上で重要になるのは親神様が何を望んでいるのか?という事だと思います。
親神様が望んでいるもの。それは全ての人間が陽気に暮らす状です。これこそが全ての根源であると考えます。
ただ陽気に暮らす人間がみたいだけなら、心も身体も親神様がコントロールして陽気に暮らす人間を創ればいいだけの話しです。しかしそうはされなかった。何故そうされなかったのかを考える時、人間が自ら望んで陽気に暮らす状こそ親神様の望みなのではないかと思えます。
だから親神様は身体を借すというシステムにして、神様のコントロールできる状態にして、心を陽気ぐらしに向ける為に抑止できる状態にしたのだと考えます。
このシステムの目的は心を陽気ぐらしできる心にする事。つまり心の成人だと考えます。
心の成人をする為には、どうすれば陽気ぐらしに近づいて、何をすれば陽気ぐらしから遠ざかるのか?を知る必要があります。
その基準が八つの埃となるわけですが、立教以前はこの埃という概念は無かったので、払ったり掃除をすると言った概念すらなかった。
よって、埃が溜まりに溜まって心が陽気ぐらしできる状態ではなくなっている。
生まれ替わり、出替りをする中で魂にこびりついた埃。これが悪いんねんです。
つまり、何故悪いんねんがあるのかというと、心を成人させる為だと思うのです。僕たちは悪いんねんを負の要素として捉えてがちですが、実は陽気に暮らす為に必要な絶対悪的な要素なのではないかと考えます。
成ってくる事はいんねんによるものですが、何故そう成ったのかを考える事でいんねんを自覚できる。自分の魂にこびりついた埃を自覚できるわけです。だからこそ心を陽気に暮らす事ができるように成人させていけるのだと思います。
悪いんねんがあるから陽気ぐらしができないのではなく、悪いんねんの姿によって陽気ぐらしできない要因を知る事ができる。こう考えると悪いんねんも前向きに捉える事ができるのではないでしょうか。
悪いんねんが姿として見えるからこそ人間は陽気ぐらしに近づいていけるのかもしれません。
おしまい!!