天理教の教会及び信者子弟は天理教をしなければならないのか?
皆さんこんにちは!!
今回は「天理教の教会及び信者子弟は天理教をしなければならないのか?」について僕の私的見解を備忘録として綴ります。
僕の見解は必ずしもしなければならないという事はないです。
そもそも親が信仰している宗教をその子供が必ずやらなければならないという考え方自体が宗教的にはナンセンスです。
僕たちが住むこの日本という国には、信教の自由という権利が法律で定められています。
日本国憲法 第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
信教の自由は国民一人一人に与えられている権利です。それはたとえ親子であろうと侵す事はできません。
しかしこれはあくまで宗教的な見解ではという事です。信仰的な見解ではという事になるとまた別の話です。
そもそもこんな法律を盾に信仰は自由なんだと主張する方々は宗教と信仰を混同しています。
宗教と信仰は似て非なるものです。よって信教の自由があるからといって信仰をしなくてよいという結論に至るのは信仰的にはナンセンスです。
自分が天理教という宗教をしているのか?天理教を信仰しているのか?この感覚の違いには雲泥の如き差があります。これは個人の価値観の問題なのでどちらが良い、悪いではないですが、自分がどちら側にいるのかを見つめ直してみるのもいいかもしれません。
では、宗教と信仰の本質について考察していきたいとと思います。
宗教とは人間が創り出した概念です。この概念の主体は人間です。つまり宗教という概念は人間を基準に成立しています。神<人間です。何故なら人間が神という概念を創ったという思考が核にあるからです。これが宗教の本質です。
信仰とは人間に芽生えた概念です。この概念の主体は人間では無い何か(神)です。つまり信仰という概念は神を基準に成立しています。神>人間です。何故なら神が人間を創ったという思考が核にあるからです。これが信仰の本質です。
信仰的な思考では基準は神にあります。この世で起こる全ての事象は神の御技と考えます。もちろん人一人がこの世に生を受ける時間や場所、環境もです。つまり、信仰的に天理教の教会及び信者家庭に生まれた意味を模索する時、そこには神の意図が必ずあると考えます。よって信仰的に今回のテーマを思案するなら、信仰すべきである。という見解が妥当です。
しかしながら、信仰する事が苦痛であるなら、無理に信仰する必要はないと思います。信仰しないからといってそれはあなたのせいではありません。信仰心は芽生えるものです。もしあなたにその信仰心の芽生えがないならそれは、芽生えない本人に原因があるのではなく、芽生えさせてあげられない周りの大人たちの通り方に原因があると考えるべきです。
どんな事にも言える事ですが、人間が興味を持つきっかけは凄くシンプルです。
楽しいそうか。楽しそうじゃないか。
周りの大人たちが信仰の喜びに溢れて、日々楽しそうに信仰していれば、それを見て育つ子どもたちは信仰に興味を持つと思います。
逆に、周りの大人たちが悲壮感を漂わせながら、信仰していれば、それを見て育つ子どもたちは信仰を敬遠するようになるでしょう。
今盛んに教内で叫ばれている人材育成。その背景には、次世代の信仰離れがあり、その信仰離れの背景には、悲壮感漂う信仰が少なからず影響しているのではないかと思います。
やはり、なんだかんだ、信仰を楽しんでいる姿を見せる事が一番のにをいがけになるんじゃないかと思います。
おしまい!!