離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

感覚とセンスと努力!!

 

 

物事や技術を習得する事において感覚やセンスの良さといった要素は重要である。

この感覚やセンスの良さといった要素は先天的な要素なので、努力でどうこうなるものではない。ただ、こういう要素が重要になるのは最高水準の技術を習得する場合である。世の中で最高水準の技術が必要なケースは極めて少ない。もちろんある一定水準の技術は必要ではあるがそれは万人が到達できる水準である。そのある一定水準のレベルにおいて感覚やセンスの不足は洞察力、判断力、経験などの要素で十分に補う事ができるし、これらの要素は後天的なものなので自分自信の努力で高めていく事が可能だ。逆に言えば、ある一定の水準の技術を習得するまでは、感覚やセンスの良さといった要素は殆ど関係ないと言ってもいい。よく感覚やセンスの悪さを嘆いている人がいるが、そういう人の殆どがある一定の水準にすら達していない。これはつまり、自分の努力不足を感覚やセンスという要素を言い訳にして正当化しているのだ。ただ怠惰なだけなのである。

 

確かに努力しても自分がイメージするだけの水準に到達できない事はある。しかしながらそれは、努力の仕方を間違っているか、あるいはその水準に達す為の努力が不足しているだけである。人の感覚は千差万別、十人十色である。全ての人が同じやり方でできるようになると考える事自体がナンセンスである。自分の感覚に合った努力を模索し、正しい努力をしなければいつまで経っても水準は上がらない。この模索する作業はなかなかに厄介であるし、周りの人たちの理解、つまり環境という要素も絡んでくる。よって正しい努力をできている人は極めて少ない。また、同じ水準に到達する為に必要な努力の量は人それぞれ違う。故に同じだけ努力してもその水準に達する事ができる者とできない者が分かれるのは当然なのである。

 

そもそも、感覚やセンス良さといった要素は人間誰しもが持ち合わせている。ただ自分がどの分野においての感覚やセンスの良さを持ち合わせているのかを自覚している人は極めて少数である。この現象の最も大きな要因は教育である。日本はそれを自覚できるようになるような教育をしない。しかしながら近年は教育の仕方も変化しつつあるので、自分がどの分野において感覚やセンスが良いのかを自覚できるようになる人たちはこれから増えていくだろう。ただ、自分が感覚やセンスの良さを持ち合わせている分野が必ずしもその本人にとってやりたい事、楽しい事とは限らない。結局人間は心で生きていく生き物なのだ。故に水準を上げるのに最も大切な要素は感覚やセンスの良さではなく、やりたいかやりたくないか、楽しいか楽しくないかである。物事を楽しむ為に必要な事。それは余白、余裕である。物事を楽しむ為には、その物事を味わえる冷静さが必要で、その冷静さに余裕は必須である。楽しいからこそ人は更なる楽しさを追い求め、その結果として水準が上がっていく。つまり、水準が上がらないのは楽しんでいないからとも言えるのである。

 

最後に、感覚やセンスの悪い分野において、努力だけで最高水準に達する事ができるか否か。不可能では無いと思う。この世に不可能な事はたぶん無い。もし不可能な事があるとするなら、それは自分自身が不可能だと決めつけているもののみであろう。