離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

責任は誰がとる!!

 

僕が教会組織界隈で最も違和感を感じる感覚は、「やらなければしょうがない。」である。

 

この言い回しは本当によく耳にする。

 

信仰やらなければしょうがないなんて事はない。あるはずが無いのである。何故ならば信仰は自ら選択して行なっているものだからである。

 

自分の信仰に誰が責任を取ってくれようか。自分しか取れないのだ。

 

このコロナ禍、教会行事を例年通り挙行している教会の噂をたびたび耳にする。しかしながら、これらの行事が成立しているのは参加者がいるからである。参加するかしないかの選択権は参加する側にある。よって万が一、クラスターが発生した場合、その責任を問われるのは参加者全員である。

 

某行事で「責任は教会長が取ってくれます。」と息巻いた奥さんがいたらしいが何とも滑稽な話しである。他者の人生にどう責任を取るというのだろうか?そもそも取れると思っている事自体が傲慢であるし、その言葉を聞いて安心する人がもしいるとするなら、その人はきっと自分の人生を生きていない人である。

 

そもそもこれだけ本部行事が軒並み中止になっている現状において、例年通り教会行事を行なえている現象が不思議である。教会の主だったポストにある人たちのなかに「今年は自粛しましょう。」と言う人が一人も居ないのだろうか?居ないのであれば、その人たちの辞書に責任感という言葉はないのであろう。

 

起こった事象に対しての責任は参加者にあるが、その事象が起こるまでのリスク管理に対する責任は運営側(教会)にある。行事を成立する為には人を集めないといけない。その人を集める呼びかけをした人たちも運営側の責任は果たすべきであろう。そうであるなら、「自粛しましょう。」という意見が出ても何の不思議もない。

 

教会長のワンマン運営が成り立っている教会も一定数あるようだが、信仰を実践する場においてワンマン運営が成立している方が不思議である。教会は信者さんの親への孝心の理によって成立している。教会長なんて親を出汁にしているニートである。そんな奴に何をビビる必要があるだろうか?

 

確かに教会設立は神の働き無くしてあり得ない。神の働きを得る為の徳積みの道中は並々ならぬものであると思う。であるならその教会を設立した人の通り方は信仰者として見習うべきものである。しかしそれとて教会設立においてはその人一人の徳とは言い切れない。そこに寄り集った人々の徳と言えるだろう。

 

これは余談であるが、初代会長を神格化する教会が一定数ある。確かに初代の通った道中は並々ならぬものであると思う。その道中の上に僕たちの今がある事も事実である。しかし、それを苦労と認識して必要以上に敬い、神格化する必要は信仰においてはない。初代は苦労などしていない。何故なら信仰はする、しないを選択できるからである。苦労とは選択肢が一つしかない。それを選択しなければ生きていけない人にのみ成立する状態である。よって本教において苦労が当てはまるのは、おやさまとその家族のみであろう。他の人たちは信仰すると自ら選択し、その道に突っ込んできている。それを苦労とは呼ばない。

 

初代会長の努力と労力は凄まじいものだと思う。しかしながら、二代、三代など引き継いだ者たちは、出来上がっているものに乗っかっているだけである。そんな奴に何をビビる必要があるのだろうか?

 

「神様に喜んでもらう為に」。そんなのは当たり前の事なのだ。しかし、その形は千差万別なのだ。信仰の形は皆違うのである。信仰者の集まりである教会という場所でワンマン運営が成り立っていると言う事がその教会に繋がっている者たちの怠慢以外のなにものでもない。僕はそう思う。

 

教会長は人間なのである。教会長が「神様が喜んで下さる。」と言っても、実際本当に喜んでくれているとは限らないのである。喜んでくれているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。確率は50;50である。

 

教会長が思っている事=親の思っている事ではない。これが真実である。だからこそ僕たち信仰者は模索しなければならないのだ。本当の親の思いを。それをしなくなった教会はもはや教会ではない。

 

自分の信仰に責任を取るのは自分だ。それが信仰であり、人生である。コロナ禍はそういう部分をも浮き彫りにしている。

 

最後に、以上は僕の私的認識による見解である事を申し上げて終わりとする。