離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

ジェネレーションギャップ!!

最近、強烈なジェネレーションギャップを感じた出来事があったので備忘録として記しておこうと思う。

 

きっかけはある動画だ。その動画はあるラッパーのMV(Music Video )なのだが、その舞台となっているのが天理教の教会の神殿なのだ。

 

僕は全て拝見したが、なかなか斬新な仕上がりとなっていた。

 

しかし、それ以上に衝撃的だったのがその動画を高く評価している天理教信仰者が多かった事。「良い」「凄く良い」と評している人が多い事に僕は驚きを感じずにはいられなかった。

 

「こういうのが受け入れられる時代になったんだなぁ〜」と理解はできるが、良いと思う感覚についていけなかった自分は、恐らくこれからの時代、淘汰されるべき人種なのかもしれないが、その前に問題提議をしておこうと思う。

 

第一に、神殿は神聖な場所である。信仰者にとっては聖域と言っても過言ではないだろう。世界の平和を祈り、人のたすかりを祈り、自らの心遣い、行いを省み、心を浄化する。そういう神聖な場所なのである。神の仕事場と言っても過言ではないだろう。そんな場所で人間の創ったラップなるもののMVを撮影するなど僕的には言語道断である。

 

天理教は陽気ぐらしなんだし、動画は陽気な感じだし、神様も喜んでるよ。」という人がいるかもしれない。確かに神様は陽気な状を喜んでくれているのかもしれない。しかしこれは神様が喜ぶ、喜ばないの話ではなく、僕たち信仰者が神殿をどう捉えているのか?という話なのである。神殿でこういう動画を撮影しようとする発想が出てくる事自体が神殿という場所を軽視しているし、それを許した人たちも軽視していると感じずにはいられない。

 

「いい布教やにをいがけになる」という人もいるかもしれない。確かにそういう側面もあるだろう。しかし布教やにをいがけの為なら何をしていいというわけでもないと思う。それが神を冒涜したり軽視する行為となるならどんなに布教やにをいがけになっても本末転倒であると僕は思う。いや本人的には冒涜や軽視をしているつもりは無いのかもしれない。しかしリスペクトもしていないだろう。少なくとも僕は感じない。

 

そして最も納得いかないのは、教会という場所に対するリスペクトが全く感じられないという事。いや、本人はリスペクトしているのかもしれない。しかし動画を観る限り、全くもって感じられない。教会とは先人、先輩方が長い年限をかけて運び、尽くした孝心の理により成ってきたものである。つまりそこには数多の人々の想い意志が詰まっている。教会とはそういう場所なのだ。にも関わらず、そういうところに配慮されていない演出に腑が煮えくりかえる思いでいっぱいだ。

 

次に言いたい事は、教会は家ではない。教会は教会なのだ。教会に住んで居るからと言って教会家族が全てを好きに使っていいという場所ではないのである。特に神殿は特別な場所だ。この撮影をするにあたって、ちゃんと信者さん達の許可は取ったのだろうか?「実家」というタイトルをつけているあたり、十中八九そんな話しはされていないと推察する。

 

僕たち現代の信仰者はそれが当たり前であるばかりに、雑な扱いをしている部分が多い。これは僕自身、大いに反省すべきところである。しかしながら、もっと問題なのは雑に扱っている事に気づかないという事ではないだろうか。もう少しそこら辺の感覚と向き合うべきなのかもしれない。

 

それにしてもこの動画が有りだと思う信仰者が思いのほか多い事には驚きである。神殿という場所が神の聖域という感覚から人間の領域という感覚にシフトしてきているのだろうか?これが良い事なのかどうかは判断しかねるが、神殿はおぢばの理を拝戴した神実様をお祀りしている場所である事を鑑みると、それなりの敬意と節度を持った配慮がなされるべきところであるのではないかと思う。可愛いおばあちゃんが出てくる動画は神殿じゃなくても撮れるし、素敵な家族の動画は神殿じゃなくても撮れる。

 

 

神殿という場所と真摯に向かい合える信仰者で僕はいたい。