離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

凡才という才能!!

この世界には二種類の人間しかいない。

天才凡才である。

 

どちらが凄いのか?

 

この問いは極めて愚問だ。何故ならばどちらも世界には必要でどちらが欠けても世界は成立しないからである。

 

しかしながら昨今、持て囃されるのはもっぱら天才だけである。

 

天才凡才の違い。それは0から1を生み出せるか、出せないかだろう。

 

最近は0を1にできる人たちをカリスマなんて呼んだりする。そのカリスマだけで世界が成立するのかと問われれば答えはである。

 

寧ろカリスマなんて呼ばれる輩は一つのコミュニティーに一人で充分である。

 

確かにカリスマと呼ばれる人たちは優れている。想像力、行動力、人間的魅力。だから0を1にできるのであるが、結局、1止まりである。0を1にするには確かに大きな労力を有するが、人一人ができる事は結局のところ1が限界だ。

 

その1を100や200、それ以上に昇華するには、多くの人々の協力が不可欠である。

 

世界を創ってきたのは天才たちなのかもしれない。しかし世界を回しているのは凡才たちである。だからこそ、どちらも必要で尊い存在なのだ。

 

人間は自分に無いものを望む。故に希少である天才が持て囃される。圧倒的に多い凡才がその才能を羨望するからである。

 

しかし凡才天才にはなれなし凡才のようには生きられない。ならばすべき事はお互いを尊重し、協力する事であろう。

 

とは言っても、特別な存在というステータスに人間は弱い。誰もが自分が特別でありたいのだ。

 

故に凡才は天才に憧れ、近づこうと努力する。平凡を憂い、非凡を望む。

 

しかし、凡才が圧倒的に多い世の中で天才をクローズアップしたところで得るものは少ない。何故なら、凡才は天才になれないからである。

 

天才には天才の生き方があり、凡才には凡才の生き方がある。

 

この相容れない生き方が調和するからこそ、世界は成立するのだ。

 

凡才天才になろうとする必要はないし、どこまで行っても凡才凡才である。ならば凡才である事を極めればいい。極めれば天才すら凌駕すり大きな才能になるだろう。

 

天才が増えすぎると調和を保つのは難しい。単独である程度の事を成立させる才能があるからである。そして現代社会は天才を求め過ぎている。故に、世界はバランスを保て無くなってきている。

 

今という時代だからこそ凡才という才能をもっとクローズアップすべきではないかと思う。

 

天才の必要度は思いのほか低い。