離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

種蒔き!!

 

皆さんこんにちは!!

 

今回のテーマは「種蒔き」です。

 

種蒔きについての今現在の僕の見解を備忘録として綴ります。

 

よろしくお願いします。

 

やしきハかみのでんぢやで
まいたるたねハみなはへる

 

(七下り目 八ッ)

 

人は生きている限り、何かしらの種を蒔いていると思います。種蒔き。それは人生であり、生き方と言えるのではないでしょうか。

 

日々の言葉遣い、考え方、行い、姿勢や態度が、後々の実り(成果)の種となる。それを種蒔きという表現で比喩したのだと僕は推察します。

 

蒔いている種は4種類。善き種、悪き種、善き種に見える悪き種、悪き種に見える善き種。

 

このたびいちれつに ようこそたねをまきにきた たねをまいたるそのかたハ こえをおかずにつくりとり

 

(七下り目 十)

 

どんな種も蒔けば必ず生えて、花が咲き、実ります。

 

人は誰しも善き実りを得たいものです。よって善き種を蒔こうとします。しかし思いに反して悪き種を蒔いてしまう時もあります。また善き種だと思って蒔いた種が実は悪き種だったという事もあれば、悪き種を蒔いてしまったと思ってもそれは実は善き種だったという場合もあります。

 

善き種を蒔く努力や悪き種を蒔かない努力はできます。悪き種に見えて実は善き種には棚から牡丹餅的なお得感があります。

 

一番厄介なのは善き種に見える悪き種です。

 

本人は善き種を蒔いていると思っているから悪き実りを受け入れられない。思いと現実が剥離して迷子になります。

 

しかし蒔かない種は生えません。もし生えたのならそれは自分が確実に蒔いた種です。迷子にならない為にもそういう種もあるという事を理解しておく必要はあると思います。

 

種を蒔けば必ず収穫の時がやってきます。善き実も悪き実も実ったなら回収すべきです。それは自分で回収できるかもしれないし、自分ではない誰かが回収する事になるのかもしれない。そしてとかく人は善き実を優先的に回収したがるものです。

 

そして「ありがたい」「結構や」というて通ります。確かにありがたいし結構な事です。ただ、残った悪き実は誰かが回収しないといけない。それが自分で回収できなかった場合、後々の者がそれを回収しなければならない事態になります。

 

神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めんめん勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。

明治三十年十二月十一日のおさしづより抜粋

 

善き実も大いに回収すればいいと思います。ただ、もし悪き実りがあるなら、優先すべきはそちらの方です。悪き種を蒔かない努力をし、それでも実った悪き実を優先的に回収する。それがこの道を通る者の通り方だと思います。

 

今回は種蒔きについて今現在の僕の見解を綴りました。ありがたい、結構や と通らせていただける日々は尊く、素晴らしいと思います。ただそれが善き実りだけを食い荒らす事になっていないかを問う必要はあると思います。

 

後々の人たちに善き実りを残す通り方ができるお互いでありたいですね。