離島の働く教会長の blog

天理教の信仰ブログです。

教会の後継と教会という場所

皆さんこんにちは!!

 

最近、だんだんと気温も下がり、冬の近づきを感じる今日この頃。いかがお過ごしでしょうか?体調管理にはくれぐれも気をつけてご自愛ください。

 

さて、今回のテーマは

 

教会の後継と教会という場所

 

です。ここ最近は教会の後継について問題を抱えている教会が増えている印象です。僕もこの問題について考えを巡らせることもあり、その中で思ったことを綴ります。

 

それではよろしくお願いします。

 

【教会という場所】

 

さあ/\尋ねる処、さあ/\皆々どういう事も聞いてくれねば分からん。世界の処、先ず/\一寸治まる。先ず/\銘々又尋ねる事情あるで。尋ねる世界はこれでよい。先ず/\神の道は、先ず/\一年は一年だけ、十分神の道。又々世界でこれで尽せん、先ず/\年々に付きたる処、これは聞いてくれねばならん。又々聞いてくれ。先ず/\処一つの処、一つ事情世界の処は、先ず/\一年経てば、あゝ成程々々。一年々々と経てば、それ委せ置こう。

 

(明治二十一年五月二十日

諸井国三郎分教会設置の願)

 

さあ/\尋ねる一条、一つのさしづ、さあ/\所々に名を下ろす/\。年限経ちた一つの所、案じは要らんで。皆揃うて心を治め。所に理を無けらならん。皆んな心を揃うてすれば、どんな事も出けるで。急く事は要らんで/\。心を揃うて、あちらこちら/\、皆揃うて、心の理をろっくに治まれば、理を治めるで。皆心を揃うて、談示は第一。ろっくに心を治まれば、綺麗に治まる。一日の日、話一日の日。

 

(明治二十一年十二月十一日

郡山天龍講分教会伺)

 

これらは教会設置に関する おさしづ  です。僕は今まで最初に設置された教会は郡山大教会と思っていましたが、どうやら最初に設置された教会は本部のようです。一つ目の おさしづ  を拝見する限りそう考えるのが妥当だと僕は感じました。教会設置の伺いに対して先ずはおぢばに教会を設置するよう神様側から逆にお願いされているという印象です。そして二つ目の おさしづ でこれから所々に教会の設置を許していくと言われています。

 

これらの おさしづ から教会という場所を考える時、

 

  • おぢばにある教会本部が教会のもとである。
  • 教会本部に国々、所々の教会の設置に関する事情は委ねられている。
  • 国々、所々の教会の理はその教会に繋がる人々の話し合いによって治め、定められた心に許されている理である。

ということになると僕は解釈します。

 

教会本部を除いて、国々、所々における教会の理の許しはその教会がある場所に許されているというよりも、その教会に繋がる人々の心に許されているのではないかという印象です。それは、たすけ一条、神一条の上に治め、定められた心であり、だからこそ教会はおたすけ道場と表現されるのだと思います。

 

【教会の後継について】

 

近年は教会の後継について、後継者がいないという問題が深刻化しつつあります。教会の後継者はその教会に生まれた者の中から選ばれるべきという考え方が一般的なようです。確かに教会に生まれるということを信仰的に悟ろうとする時、やはりお道にもその教会にも深い深いいんねんがあると考えることはごく自然なことなのかもしれません。しかしそれを直結して後継者だと考えるのは安易過ぎると僕は思います。教会の理はその教会に繋がる人々の心に許されている理です。教会は教会家族の家ではありません。だからこそ後継者はその教会に繋がる全ての人の中から適切な人が選ばれるべきではないかと僕は思います。

 

ここで勘違いしてほしくない事は縦の伝道が必要ないと言っているのではないということです。教会に生まれるということはお道とその教会に深い深いいんねんがあると考えることが自然だと思いますし、だからこそしっかりと教えを伝え、実践する中に信仰の喜びを感じれるよう導く必要があると思います。お道を信仰することと教会を継ぐことは全く別の問題だと僕は思っています。ここをごちゃ混ぜで考えるからお道から逸れる教会子弟が続出するのだと思います。

 

人間は 親神様 から、身体を借り、心の自由を許されてこの世に生まれてきます。かしもの、かりものの理と心の自由は 親神様 から僕たち一人一人に許されている権利です。誰もその権利を侵すことはできません。後継者として育てられるという事は「こうあるべき」という強い価値観の中で育てられる可能性が高くなり、結果その権利を侵害することになる可能性も高くなると思います。お互いがお互いを尊重し合える関係性を築いていく事が教会での日々では大切なのではないかと思います。

 

【教会を返納するという選択肢】

 

どこの教会も例外なく教会本部に教会設置を願い出て名称の理の許しをいただいています。それぞれの教会によってそこに至る経緯は違うと思いますが、今ある教会はそこに繋がる人々又は繋がっていた先人、先輩方の名称の理の許しをいただこうという決断があったからこその姿です。最近は教会が信仰の妨げになっているのではないか?という意見を耳にする事がありますが、教会とはそこに繋がる人々や先人、先輩方の信仰の表れだと思います。そこには 気ぐらし世界実現に向かう為のたすけの精神 があると思います。もし教会が信仰の妨げとなっていると感じるのなら、それは 陽気ぐらし世界実現に向かう為のたすけの精神 が少し揺らいでいる可能性は否定できないかもしれません。

 

教会がなくても信仰はできます。ただ本当に信仰と向き合いたすけの精神で歩もうとするなら、やはり教会は必要だと思いますし、先人、先輩方のそういう道中が教会という形になったのだと思います。そう考える時、やはり教会を返納するという選択肢はかなり重い決断になると思います。その教会に繋がっていた先人、先輩方の意志や精神、その教会に繋がる人々が伏せ込んだ理、そういうところに思いを馳せる時、返納という決断はそう易々とできるものではありません。なかなかに難しい選択肢だと思いますし、かなり勇気のいる決断だと思います。

 

【教会運営】

 

教会の運営において、その采配は教会長一人でなされるものではありません。おさしづ では

 

皆んな心を揃うてすれば、どんな事も出けるで。急く事は要らんで/\。心を揃うて、あちらこちら/\、皆揃うて、心の理をろっくに治まれば、理を治めるで。皆心を揃うて、談示は第一。

 

と言われています。

教会の運営はそこに繋がる人々の一手一つに結んだ心の理に委ねられるものだと思います。だからこそ教会の運営に関しては積極的に関わっていくべきだと思います。お互いがお互いの意見を出し合い、理の思案を重ねて、心一つに事を運ぶことが教会運営のあるべき姿だと思います。誰が偉いとか上だとか下だとか おやさま は言われていません。勘違いのないよう自分自身、気をつけたいと思います。

 

【最後に】

 

僕たち よふぼく は陽気ぐらし世界実現の為の 親神様、おやさま の道具衆です。だから僕たちは陽気ぐらし世界を実現する為の働きをしなければなりません。教会はその為の拠点であると思います。そこにはおぢばと同等のたすかる理が無ければならないと思いますし、その理は教会に繋がる人々がおぢばに一手一つに心を繋ぐからこそ受け切ることができるのだと思います。教会がその地域に陽気ぐらしのにをいを漂わせることができるように、自分自身しっかりとした歩みを進めたいと思います。

 

これは個人の見解や意見ですのでそこはご理解いただきたいです。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

僕の独り言③

皆さんこんにちは!!

 

夏も過ぎ去って涼しくなり、金木犀の香りが爽やかな今日この頃。いかがお過ごしですか?

 

今日はチョーーー久しぶりにまったりな時間を得たのでチョーーー久しぶりにブログを更新したいと思います。

 

とは言っても何もテーマを決めていない見切り発車状態なので、どんなところに着地するか自分でもわかりません(笑)

 

とりあえず出発しま〜す。。。

 

僕は天理教を信仰しています

 

僕は天理教を信仰しています。最近はSNSの普及によっていろいろな方々と繋がれる時代ですよね。僕もSNS を利用する中で多くの方々と繋がれています。特に同じ思想や趣味、考え方が似たような方々とは比較的繋がり易いし、交流頻度も高いです。

 

僕は天理教を信仰しているので繋がる方々も天理教の信仰者の方々が多いです。

 

繋がっている方々の中には面識がない方もいますし、面識がある方もいます。

 

面識がない方々と交流ができる。

 

これがSNSの最大の醍醐味ですよね。

 

多くの情報や感性に手軽に触れられるSNSはうまく使えば心を豊にする為の最高のツールになるんじゃないかなと思います。

 

しかしながら、SNSでは自分の望まない情報や相反する思想も蔓延しているという現状もあり、不意に触れてしまうなんてこともよくありますよね。

 

僕は天理教を信仰していますが、天理教についても誹謗や中傷、愚痴や不満、批判や非難が溢れかえっています。

 

天理教の教えそのものに対するものよりも天理教団に対するものが圧倒的に多い印象です。天理教の教えは好き、だけど教団は嫌いなんて方々も多いです。

 

特に現代社会は上下関係の隔たりが緩和されて、仲間で力を合わせてってよりも、一人、一人の人生が重んじられる時代ですし、組織に属するよりも一匹狼の変わり者がカッコいいなんて風潮が強まりつつあると感じます。ドラマなんかも熱血スポ根ものより優秀な一人の変わり者が活躍するものの方がトレンドのような気がします。

 

そう考えると今の時代に組織なんてものは必要ないなんて錯覚に陥ってしまいそうになりますが、やっぱりいつの時代も組織って必要だと僕は思います。

 

組織は力です。個人の出来ることなんてたかが知れてます。それを補う為の組織です。そして、組織には先人、先輩方が築き上げてきた 信頼 があります。それが ブランド になります。ブランド あるからこそいざという時にスムーズに事が運びます。

 

ドラマに出てくる一匹狼の変わり者の主人公もその活躍の背景には ブランド の力があります。それは組織に属しているからこその力です。

 

信仰的に

 

確かに天理教団への誹謗や中傷、愚痴や不満、批判や非難の中には、

 

その気持ち凄くわかる!!

 

わかる、わかるよ〜。。。

 

なんてものもありますが、ほとんどは自分の恨みや妬み、嫉みからただの悪口になっているケースが多いです。

 

そもそも僕は疑問に思うのです。天理教の教えは好き、だけど教団は嫌い。その気持ちは分からなくもないです。ただ、天理教の教えは嫌いなものへ誹謗や中傷、愚痴や不満、批判や非難をしていいと説いてはいません。寧ろ、今自分の置かれている環境を受けいれて、その中で喜びを見つけていく生き方を説いていると僕は解釈しています。天理教の教えが好きなのなら、いや好きだからこそ、そういう生き方ができる自分であろうと努力するのではないかと思います。僕はそういう自分でありたいです。

 

とは言っても

 

とは言っても生きていると理不尽な事は起こってくるし、愚痴や不満、批判だってしたくなるのが人間の性だと僕も思います。僕もついつい言ってしまうことがあるのも事実です。ただそれは自分が未熟であるからだと認識しています。未熟であるものが完璧にことを体現することはできません。人間は完璧ではありません。だからこそ愚痴や不満、批判をすることが 悪 だなんて僕も思ってはないです。ただ、それが当たり前だと思ってはいけない。そこに甘んじてはいけないと思います。如何に世の中の理不尽に負ける事なく、陽気に生きていけるかが天理教を信仰する者の目指すところだと思います。

 

愚痴や不満、批判をしてしまうことは 悪 ではないと思いますが、反省すべきことだと思います。

 

しあわせホルモン

 

人間は しあわせ感 を感じるのは、しあわせホルモン なるホルモンが分泌されるからだそうです。そのホルモンの分泌が活発であればあるほど人間は しあわせ感 を感じるそうです。

 

オキシトシン と言われる しあわせホルモン は心を落ち着かせる効果があるホルモンで、相手を思いやったり、親切な行動をしたりすると増えるといわれているそうです。また、人を褒めることでもオキシトシンを増やすことができるといわれているそうです。

 

ドーパミン と言われる しあわせホルモン は意欲を高める効果があるホルモンで目標を達成した後に達成感を感じると分泌量が増えるそうです。

 

セロトニン と言われる しあわせホルモン は心のバランスを整える効果があるホルモンで日光を浴びたり、リズミカルな運動をすると分泌が活発になるそうです。

 

この3つの しあわせホルモン 分泌を活発にする信仰生活を自分なりに考えてまとめました。

聞かれてないけど言います。

 

それは、ズバリ

 

他人に優しい思いやりのある態度や言葉で接して( オキシトシン )、少しできるかな?くらいの心定めをしてそれを達成し( ドーパミン )、しっかりおつとめをし、にをいがけに歩く( セロトニン 

 

若干こじ付け感はありますが、そんなに方向性を間違えてもないと思います(笑)

 

朝起き、正直、はたらき にも通じるところがあるのではないかと感じます。

 

最後に

 

見切り発車した割に、まあまあしっかりしたところに着地できたのではないかと思います(笑)

愚痴や不満、批判は言ってやった感もあってスッキリしますが、何か少しモヤモヤ感が残るものです。やはり陽気ぐらしの天理教ですから、みんなが陽気になれるような言葉遣いや行いをできる自分でありたいです。日々精進です。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きているという事の価値!!

呼ばれてないのにジャジャジャジャ〜ン!!!

 

皆さんこんにちは!!

 

久しぶりにブログを更新していこうと思います。

 

今回のテーマは 生きているという事の価値!! です。

 

自分が思っていることを自分なりの感性で綴っていこうと思います。

 

よろしくお願します。

 

生まれるという事

 

先ず、生まれるという事 について考えていきたいと思います。

 

何でもそうだと思いますが、何かがこの世に生み出される時、生み出される側の意思は100%関与しないと思います。

 

僕は何月何日にどこどこに生まれ出ます。

 

なんて自分の意思でこの世に生まれ出たって人はいないでしょう。

 

何かがこの世に生まれ出る時、関与する意思は生み出す側の意思です。

 

僕の知る限り人間は例外なく男と女の営みによって生まれます。僕はそう認識しています。つまり人間が生み出される時、関与するのは親となる男女の意思です。

 

しかしながら、人間は親となる男女の意思だけで生み出されるものではありません。その意思があり、営みを行ったとしても、生み出される確率は100%ではないからです。

 

そう考えると人間がこの世に生まれ出るという事には、第3者的な意思が関与していると感じずにはいられません。

 

生かされている

 

人間が生まれ出た時の最初の状態は 赤ちゃん です。誰しも例外なくこの状態からスタートします。

 

赤ちゃん の状態の時、それは 自分の意思に関係なくこの世に存在している状態!! と言えると思います。また、これから先の人生、つまり順調に育っていくかどうか?ということについても、赤ちゃん の意思は関与しません。それは 赤ちゃん 自身以外の者の意思に委ねられます。即ち生かされている 状態です。

 

しかしながら、この 生かされている 状態は 成人 してからも続いています。成人 するにつれて、人生の中で自分の意思が関与する事項が増え、非常に認識し辛くはなりますが、人間の人生には自分自身の意思に関係なく起こる事であるにも関わらず、自分の人生を大きく左右する事、それは例えば病気であったり、事故であったりが往々にして起こるからです。

 

僕には小学生の姪っ子がいますが、彼女がまだ2歳の時、電車に跳ねられる事故に遭いました。幸い彼女は命が繋がり、後遺症もなく今も元気に生きています。

 

僕の姪っ子の事故から数ヶ月後、隣の県で同じく2歳の子が電車に跳ねられた事故の記事をネットで見かけました。その子は亡くなったと記事にはありました。

 

この差は何なのか??

 

この問いに答えを出せる人はいないでしょう。それは人間の領域を越えたところに答えがあるからだと思います。

ただ確実なのは、僕たちはこういう世界で生きているという現実。それだけです。

 

生かされていることに感謝する

 

生かされていることに感謝する という言葉をよく聞くし、自分もよく使っています。しかしこの言葉を実感し、感謝することができるのはある条件が必要だと思います。それは 生に価値を見出せしている。ということだと思います。

 

生に価値を見出せていない 人にこの言葉を使ってもその感覚を理解できないと思います。

 

この世界に存在しているということに価値を見出せないのはそれなりの理由があるのでしょう。しかし最も大きな要素は思考の癖だと思います。

 

つまり、思考の癖を変えることができれば、生に価値を見出せる のではないかと思います。

 

思考の癖を変えるには 感性 を磨くことが大切だと思います。そして色々な もの とのふれあいの中で 感性 は磨かれていくのだと思います。感性 を磨く事で今まで気づかなかったことに気づけるようになります。そしてその 気づき は心を豊かにしてくれます。

 

人との関わりの中で

 

人が存在しているということ。ただそれだけでその人の存在には大きな価値があると僕は思っています。何故ならその存在により周りの人に影響を及ぼしているからです。

 

例えば、親子関係にしても、お互いがお互いに影響し合っています。そしてその影響の中で色々な感情を抱くと思います。幸福感や優越感、悲壮感や劣等感。ただそこに存在しているだけで他に影響を及ぼし、心を動かす。それはとても凄い事だと思います。他に影響を及ぼす。ただそれだけで存在している価値は十分にあります。僕はそう思います。

 

生の根源は愛

 

何かがこの世に生まれ出る時、その根源には必ず 愛 があります。愛 なくして、何かがこの世に生まれ出るということはないでしょう。そしてそれは人間にも当てはまります。つまり僕たちがこの世に存在しているそれ自体が 愛 そのものなのです。愛 はこの世で最も美しい感情だと僕は認識しています。そしてその 愛 を具現化している僕たち人間も美しい存在だと思います。

 

もし何かに絶望し、生きる価値を見出せなくなった時は、生の根源にある 愛 を意識してほしいと思います。愛 は もの を生み出すパワーです。そこにあるのは 希望 です。もしあなたが絶望感に苛まれているなら、それは自分の創り出した幻想です。

 

最後に

 

最後のほうはかなり濃ゆい感じになりましたが、自分が今この世に存在しているということに、自分の意思は関与していません。それは即ち与えられているということです。そして与えられているということには必ず意味があります。

 

もしあなたが生きているという事の価値を見出せないのなら、その意味を意識してほしいと思います。

 

無意味な存在などこの世にはない。僕はそう信じています。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

体調を崩し気味の今だからこそ感じる事!

皆さんこんにちは!!

 

毎日、暑い日が続く日々、いかがお過ごしですか?僕は若干、体調を崩し気味です。

 

かしもの、かりもの

 

体調を崩している現在、僕は かしもの、かりものの理 と向き合える状況にあります。元気な時は、正直それが当たり前になって、 かしもの、かりものの理 への意識が無いこともないですが、かなり薄いのは事実です。

 

身上にしるしをいただくという事を天理教では比較的、負の要素として捉えがちになる傾向が強いと感じます。しかしながら、今、体調を崩し気味な状況で僕が感じる事は、元気な状態に比べて、より深く かしもの、かりものの理 を意識し、向き合えていると感じます。

 

そして、かしもの、かりものの理 と向き合う中で、自分の心とも向き合う。ここ最近の自分の通り方を 八つの埃 に照らし合せながら省みる。それは心の成人の過程において、必要不可欠な時間なのだと思います。

 

本当に、人間の身体が かしもの、かりもの である。自分の意思でコントロールできる領域外の もの であるということをしみじみと痛感している今日この頃です。

 

身体が かしもの であり、かりもの であるからこそ、人の魂は陽気ぐらしへと近づいていくことがあるのでしょう。

 

おさづけ

 

天理教の信仰者の中には、病気になるとその病気を隠そうとする人がおられます。それは教理の上から病気が自分の心使いの悪さや悪いんねんが原因であるという要素があり、それに対する後ろめたさがあるからなのだと思います。

 

しかしながら僕は、体調を崩したり、病気になるということに後ろめたさを感じる必要はないと思います。それはごく自然な現象であり、病気にならないということが不自然な事だと思います。

 

人間誰しも悪いんねんを持っているし、八つの埃も心も使います。だからこそ 天理教 の教えがあるわけだし、大切な事は悪いんねんや八つの埃の心使いとどう向き合っていくのか?ということだと思います。

 

そして何より おさづけ をしっかり受けてほしいと思います。体調が崩したり、病気になるからこそ、おさづけの理 お渡しくださっているのだし、おさづけ の取り次ぎほど親心を感じられる行為はないと、体調を崩し気味の今、僕は感じています。

 

今月の上級教会の月次祭の時、上級教会の役員先生に おさづけ を取り次いでいただきました。その最中、なんとも言えない温かさを感じ、今までに感じた事のない感動を感じさせていただきました。おやさま の親心と取次人の温かさに優しく包まれるような不思議な感覚でした。 

 

おさづけ を取り次ぐ事、それは よふぼく が よふぼく たる所以ですが、体調を崩したり、病気になった時には是非、積極的に おさづけ の取り次ぎを受けてほしいと思います。

 

最後に

 

身体は親神様からの かりもの です。だからこそ大切に使わせていただく必要があると思います。体調が悪い時や病気になった時は無理せずしっかり、ゆっくり休養を取ることが必要だと思います。そして、あまり無理な使い方をしないようしっかり管理させていただきたいと思います。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

いんねんとたんのう!!

皆さんこんにちは!!

 

梅雨の時期、いかがお過ごしですか?

 

じとじとして嫌だなぁ〜とつい思ったりしますが、雨が降らないと困る事も出てくるし、何より くにとこたちのみこと の御守護ですから、喜んで受けさせていただきます。

 

今回は いんねん と たんのう について考えて、まとめていきたいと思います。

 

先ず、僕の いんねん と たんのう についての考え方は、僕の教理研究② で紹介しておりますのでぜひご拝読ください。

 

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2019/05/09/142225

 

いんねんと信仰

 

年配の信仰者の方々はよく、

 

いんねん切るためにしっかりお道通らしてもらいや。

 

とか、

 

お道切ったらいんねん出るで。

 

とかよく言われます。

 

この場合の いんねん は 悪いんねん の事です。

 

昔は、

 

そうなんだ〜 いんねんって怖いなぁ〜。

 

って思ってて、信仰していれば、 いんねん でないんだと思っている時期もありました。

 

しかし、お道を通らせてもらって、今思うことは 

 

信仰しててもいんねん出てヒィヒィ言うてる人めっちゃおるやん!!

 

です。

 

なので、僕の中で 信仰してれば悪いんねんは出ない!!って神話は崩壊しています。

 

信仰してても 悪いんねん は出る時は出る!!

 

そもそも、何故お道を通るのか?って事ですよ。問題は。

 

それは、ズバリ!!

 

陽気ぐらし世界の実現!!

 

だと僕は思ってるんですけど、間違ってたらごめんなさい...

 

まぁでもこのていで話を進めていきます(笑)

 

その為に 悪いんねん を切る事は確かに大切だと思いますけど、悪いんねん を切るために信仰しているっていうのはちょっと違和感です。

 

たんのういんねんの関係性

 

いんねん の教理と切っても切れない関係にあるのが たんのう の実践です。

 

一般的には、たんのう して通る事で いんねん が切れるみたいな説き方をされると思います。

 

悪いんねん を切る為に たんのう をする。僕も前はそう思っていました。

 

しかし、最近思うんです。

 

本当にそうなのか?   と...

 

おさしづ では 

 

前生のいんねんという処の理もある。世界は鏡と言うてある。どんな者でも一つ/\心ある。心通り身に現われてある。身を人に見せられんというもある。身に現われるは世上のいんねんと言うてある。そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。

明治二十年峰畑為吉二十七才願)

(宇陀郡見田村講元)

 

いんねん前生、これ世界不自由の不自由難儀の難儀の者もある。よく世上見て一つのさんげ。いんねん一つのさんげはたんのう一つの理を治め。これ程尽して居る、澄まして居ると思う心は、これ思わずに、未だ/\道はこれからや、尽す処もこれからやと、いかなる理も聞き分けて、実一つの心で定めて、理を聞き分け。よく聞き分けんや分からんで。

(明治二十年 村田新七二十七才三十日前より胸悩み、未だ速やかならんに付願)

(大和式上郡川合村講元)

 

みたいな説かれ方をしています。

 

この説き方だと、いんねん を切る為に、たんのう するというよりも、たんのう の心を治めさせる為に いんねん を説いていると捉える方が自然なんじゃないかな?と僕は思います。

 

八つの埃

 

僕たち 天理教 の信仰者の心の置き所は、日々の 八つの埃 のさんげだと思います。基本的には現世で起こってくることは日々の心遣いによる行いの結果と考えて間違いないと思います。

 

ただ、身に覚えのない不意な出来事というのはやっぱり起こってくるもので、そんな時の心の拠り所が たんのう なのだと理解します。

 

そして、この たんのう の心を治めさせたい為に いんねん を説かれているのだと思います。

 

陽気ぐらし

 

親神様は、人間の 陽気ぐらし する状を見て神も共に楽しみたい。との思いから人間を御創造されました。つまり人間は神様に 陽気ぐらし する状を見せる為に存在していると言えると思います。

 

陽気ぐらし を語る時、忘れてはならないのはやはり、おやさまのひながた だと思います。

一般的に、おやさまのひながた は月日のやしろにお定まりなされてからの50年を指しますが、おやさま が いざなみのみことの魂 のお方、つまり人間創造において母親の魂のお方と考える時、おやさま90年の御生涯全てが ひながた と言ってもいいのではないか!?と僕は思います。

 

その ひながた こそまさに、たんのう であったのではないかと感じます。そして、その姿こそ、陽気ぐらし なのではないかと僕は思います。

 

最後に

 

たんのう の心を治める事は、なかなか簡単な事ではないと思います。正直、僕自身もまだまだ心に治っていないと言うのが現実です。

 

しかし、たんのうの実践 無くして 陽気ぐらし を味わう事はできないと僕は思います。

 

その為にはやっぱり、いんねんの自覚 が必要なのだと思います。

 

ただ、いんねんを切る というマインドではなく、たんのうの心を治めるというマインドをベースに置いた方がなんだかしっくりくる気が僕はします。

 

真に たんのう の心が治りそれが実践できた時、本当に素晴らしい世界が体感できるんじゃないかなと僕は思います。

 

その時まで日々精進です。

 

これは、あくまで個人の意見ですのでそこはご理解いただきたいです。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

情報化社会!!

皆さんこんにちは!!

 

西日本も梅雨入りしましたが、僕の住んでいる地域はその割に雨が降らない今日この頃です。

 

皆さんの地域はどうですか?

 

さて今回は 情報化社会 をテーマに僕が感じることを書きたいと思います。

 

昨今、本当に多種多様な情報が簡単に手に入ると言うよりも勝手に流れ込んでくる時代になりましたよね。

 

特にSNS(Social Networking Service)の普及による情報拡散のスピードたるや

 

マジぱねぇ〜!!

 

って感じです。

 

いろんな情報を容易に共有でき、また自分の意見や感情を手軽に簡単に発信できるSNSは本当に便利なツールだと思います。

 

しかしその反面、使い方によっては世界の流れを歪ませたり、人の心を弄び、深く傷つけてしまう可能性があるツールでもあると僕は認識しています。

 

喧嘩ファイト的議論

 

例えば、ある情報に対しての自分の意見や感情を簡単に公共のネットワークで発信できる。今まで専門家や評論家の専売特許だった行為が簡単にできてしまう。

 

それは、ある意味世の中を混乱させることになるのではないか?と思ったりします。

 

今までは、専門家や評論家と言われる専門知識や経験が一定以上あると認識されている、所謂プロフェッショナルな人たちで無ければ、公共的な場で発言する機会がなかった。

 

なのでそれぞれの専門家や評論家の意見が割れたとしても、知識や経験が一定以上ある中での議論となる為、ある程度のまとまりのある議論になっていました。

 

しかし、今はそんな専門知識や経験が無くても、容易に公共の場で自分の意見や感情を発言できます。

 

例えば同じ情報であっても、受け取り方は千差万別です。そんな意見や感情が大量に流れでて、入り乱れてしまったら、いったい何が本当でどれを信じればいいのか?が分からなくなる可能性があります。

 

僕のイメージでは、リングに上がる為にいろんな過程を踏んで試合に挑む、プロボクサー的議論から、ルールも秩序もない喧嘩ファイト的議論の時代にシフトしつつあるように感じます。

 

価値観の違い

 

また、SNS は多くの人たちと繋がれるツールでもあります。実際に会わなくても意見交換ができる。面識がない人同士であっても、同じ志や考え方を持つ人たちと繋がれる、思いや感性を共有できることは生きていく上で、学びになるし、励みにもなります。

 

しかし、その反面、自分と違う思想の持ち主とも繋がれるということでもあります。それもある意味良き学びになることもありますが、多くの場合はどちらが正しいのか?という議論に発展し、結果最終的にお互いがお互いを罵り合うだけになっているケースもよく見かけます。

 

個人の思想や考え方に関しては、どれが正しいとか間違えているという事は無いと僕は思います。人それぞれ育った環境も受ける教育も体験する事がらも得る経験も違います。なのでどちらが正しいという議論自体が言葉は悪いですが 愚行 だと僕は思います。

 

善悪という概念

 

最近は、本当に多種多様な価値観がそれぞれに認められる時代になりつつありますし、それはとてもいい事だと思います。

 

しかし、価値観の多様化は善悪という概念を曖昧にしつつあると感じます。確かに、見る側面によって善が悪になり、悪が善になるというケースは往々にしてあります。だから、価値観の多様化が善悪という概念を曖昧にすることは致し方ないのかもしれません。

 

しかしながら、ある程度の善悪を判断する共通のルールとか認識という枠組みをつくっておかないと世界の調和は保てないと思います。これは、道徳的な価値観においての話です。

 

結局、一人でこの世界で生きていくことは不可能だと僕は思います。直接的であれ、間接的であれ、人は自分以外の人と関わり合いを持つことになるし、その中で生きているという事実は本人が認めようと認めまいと紛れも無い現実です。

 

だからこそ、人と人との関わりを円滑にする為にも共通の道徳的な価値観は必要だと思いますし、特に不特定多数と簡単に繋がれる現代社会では、大いに重要視されるべきだと思います。

 

最後に

 

現代の日本は本当に豊かで平和な国になりました。それは、先人、先輩方の尽力と過去の反省を教訓により良い世界にしようと尽力し続けている方々の努力の賜物であると思います。

 

しかしながら、豊かで平和だからこそ起こってくる問題も多くあります。

 

昨今、色々なツールが普及し、世の中はとても便利になりつつあります。しかしながら、便利な世の中になるからこそ、その便利さが逆にあだとなるケースも往々にしてあると思います。

 

いくら便利なツールが開発され実用化され普及したとしても、それを有意義に使えるかどうかは使う人間に委ねられています。

 

今という便利な世の中だからこそ、僕たちは今一度人間の心の存在に向き合うべきなのではないかと思います。

 

人間の 心は自由 です。どんなに表現方法が発達しても結局 もと を辿れば 心 です。人間の行動は全て 心がもと です。だからこそ、その もと と向き合うことが大切だと僕は思います。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の独り言②

皆さんこんにちは!!

 

お元気ですか?

僕は元気です!

 

今回は 不足 について考えを深めていきたいと思います。

 

不足

 

そもそも 不足 って何なんですかね?

 

言葉の意味は

 

不十分。不満足。不平。

 

だそうですが...

 

要は満足できてないんですよね。

 

 

誰が??

自分自身がです。

 

何で満足できてないか?

 

自分の思い通りにいかないから!!

 

これが 不足 といわれる 感情 の原因だと思います。

 

僕は、自分の思い通りに事を運びたいと思ってます。

 

でも運べない。何故か?

 

世界は自分一人の思想で成り立ってるものではなく、数多の人間の思想が複雑に絡み合って形成されているから!!

 

つまり、世界は自分一人で成り立ってないんだよ〜って事です。

 

こんな事、言われなくてもみんなわかってる事ですよね!!

 

でも心に治ってない!!

 

だから 不足 って感情が湧き上がってくる。

 

人はみんな自分の思い通りに物事や周りの人たちをコントロールしたいって思ってる。これは間違いないと思います。

 

ただそうならない現実も理解してる。

 

この相反する二つの感情が 不足 の原因だと僕は思います。

 

じゃあどうすれば 不足 しなくなるのか??

 

まず、自分の無力さを受け入れるって事だと思います。謙虚になるって事です。

 

自分が世の中の中心にいるのではなく、世の中の一部として自分が存在しているということを自覚する。

 

そして、自分の今置かれている環境を自覚し、何故この環境に居るのか?を考える。

 

周りに居る人たちにもそれぞれの人生があり、その中に自分という人間がいると言うことを理解する。

 

これを 天理教 的に言えば、いんねん  の自覚 なんだと思います。 

 

いんねんの自覚

 

そもそも いんねん  の自覚をするには、周りの人たちの姿を素直に受け入れる事が大切です。

 

おさしづには

 

話内々の処理もある、かしもの八つの道理、又前生のいんねんという処の理もある。世界は鏡と言うてある。どんな者でも一つ/\心ある。心通り身に現われてある。身を人に見せられんというもある。身に現われるは世上のいんねんと言うてある。そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。

(明治二十年 峰畑為吉二十七才願(宇陀郡見田村講元))

 

 

と言われています。

 

世界は鏡です。自分の姿を映し出しています。

まずそれを 素直 に受け入れられないと何も変わらない。

 

周りの人や環境はそう簡単には変わりません。ならば、変えていくべきは 自分自身 です。

 

身の回りの人間関係や環境は自分の心を映し出した姿なのですから、その事をしっかり自覚し、自分自身の心の在り方を変える。それが 心の成人 なのだと思います。

 

つまり、身の回りの人間関係や環境は全て、心の成人 を促されている姿!!

 

そう心に治まれば、不足 と言う感情は無くなるのだと思います。

 

しかし、この考え方がなかなか心に治らない!

だから 不足 する。だから 心が成人 できない。

人間の 性 なのかもしれないですね!!

 

最近、気になる娘がいるんです。僕は何とかその娘に振り向いて欲しい。

 

でも現実は、LINEを送っても既読スルーです。

 

気になる娘のことをもっと知りたい!

 

いろんな話をして仲良くなりたい!

 

でも返信してくれない!

 

何で返信してくれないの?

 

って思いますよね!?

 

でも違うんです。

 

その娘にはその娘の人生がある。返信しようとしまいとその娘の自由なんです。LINEを送ることはできても、返信を強要はできない。何故なら、心は自由で誰も他者の心をコントロールできないから。

 

最後に

 

自分という人間は自分が思っている以上に身勝手な生き物なのかもしれません。

 

しかし、人間は一人では生きていけない。

 

ならば、周りの人たちとうまく折り合いをつけて生きていくしかない。

 

だからこそ、自分を律する規範が必要だと僕は思います。

 

易きに流れる事は簡単です。それでも生きてはいけるのでしょう。

 

ただ僕は、人間が存在する意味や目的を追い求めたい。その為には、自分を律することが必要だと思うし、その中で、見えてくるものがあるんじゃないかと思っています。

 

かなりの酔っ払い状態で支離滅裂な内容になりましたが、とにかく何かを語りたかったのでとりあえず思い付くままに書きました。

 

まぁ、たまにはこういうのもいいでしょう(笑)

 

ご拝読ありがとうございました。