離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

おつとめの太鼓は本当にうるさいのか?

皆さんこんにちは!!

 

めっきり秋らしくなってきた今日この頃。いかがお過ごしですか?

 

離島の働く教会長!!です。

 

今回のテーマは《おつとめの太鼓は本当にうるさいのか?》です。

 

ネットで天理教を検索するとおつとめの太鼓がうるさくて寝れないという意見を見かける事があります。確かに「うるさいだろうな〜」と思います。しかし寝れない程うるさいのか?と言われると「そんにうるさいか?」と思うのです。それは参拝場で居眠りをしている人を(たまに?)見かけるし、僕自身も(たまに?)居眠り(というかガチに寝てしまう)事があるからです。という事で本当におつとめの太鼓はうるさいのかを考察したいと思います。

 

日本の騒音に関する基準は環境省によって定められいます。その規定によると、

 

住宅地の騒音基準は昼間で55デシベル以下、夜間で45デシベル以下となっています。

 

これ以上は騒音ということです。

 

因みに全くの音が知覚できない無音状態を0デシベルとして、日常生活の普通の会話レベルの音量が60デシベルほど。 100デシベルを越えるとかなりうるさい音量となり、130デシベルを超える音量になると耳に損傷を与える危険性があるほどの大音量となるそうです。

 

ついでに騒音に関するわかりやすい表があったので貼っておきます。

 

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環境省の基準によると昼間は55デシベル以上、夜間は45デシベル以上で騒音になるわけですが、表を見ると日常で普通に会話する声量が60デシベルなわけですから、人間はそんなに大きな音でなくても騒音と感じるようですね。

 

さて、それではここから、おつとめの太鼓は騒音になるのか?を考察します。とは言っても、おつとめの太鼓の音が何デシベルくらいなのかが分からないので、今回は和太鼓の音を基準に考察します。

 

和太鼓をバチで思いっきり叩くと約130デシベルの音が出るそうです。はっきり言ってめちゃくちゃうるさいです。前述しましたが、130デシベルを超えると耳に損傷を与えるレベルらしいのでかなりの大音量ですよね。太鼓の大きさや太鼓までの距離で音圧は変わるから実際には多少レベルは低くなるとは思いますが、それでも、騒音と言っていいレベルだと思います。

 

結果、《おつとめの太鼓は本当にうるさい》という結論に至りました。

 

しかし、おつとめを止める事はできないですよね。それくらい天理教の信仰者にとっておつとめは大切であるし、大切にすべきものです。という事でここからは対策を考えていきたいと思います。

 

前述した通り太鼓を目一杯の力で叩くと約130デシベルの音がでます。しかしながら、これは目一杯叩いたらです。手加減して叩けばこれより低く抑えられるはずです。じゃあどれくらいの音量で叩けばうるさくないのか、基準としては、日常会話の音量が基準になってくると思います。

 

音は音源までの距離が遠くなればなるほど小さくなりますよね。音と距離の関係の表を貼っておきます。

 

f:id:Captainace:20210926074350j:image

 

上記の表を参考にすればどれくらいの音量で叩けばいいか感じが掴みやすいと思います。

 

例えば日常会話の声量レベルの音、60デシベルくらいで叩けば2m離れれば54デシベル、4m離れれば48デシベル、になるわけですから、そこまでうるさいと感じる音にはならないはずです。

 

太鼓のサイズを小さくするという方法もありだと思います。特に大きい教会は太鼓のサイズもめちゃくちゃ大きいです。だから音も必然的に大きくなるし、手加減して叩いてもそれなりの大きな音は出るわけですから、騒音になる可能性は高いですよね。

 

おつとめをするのに、大きい、小さいはあまり関係ないと思いますし、太鼓のサイズを小さくするのはありだと思います。

 

住宅が密集している地域にある教会や都会に在る教会は既におつとめ時間を朝は遅く設定したり、夕は早く設定したり、太鼓は小さく叩くなどの対策を既にされていると思います。それでもやはり「うるさい」と苦情がくるのは、本当にうるさいわけではなくて、不気味だからだと思います。宗教の理解不足や偏見から些細な音などが不気味に感じるのだろうと思います。しかし、この不気味さは宗教である限り払拭できないと思います。というか宗教でなくても人間は知らない事やよく分からない事を不気味に感じるものです。だから本当にうるさいのではなくて、不気味だから止めてほしいが本音だと思います。もちろん、本当にうるさいと思われているケースもありますので、近隣住民への配慮は怠る事なく、不快感を与えない努力はするべきだと思います。

 

最後に、教会近隣に住む方々へ。

 

天理教のおつとめは自分ではない誰かの幸せやたすかりを願ってつとめられています。それは世界平和であったり、病気の平癒であったり。

 

おつとめは天理教信仰者の生活の芯です。不気味であるとは思いますが、ご理解の程を心よりお願いして終わりとします。

 

離婚について思う事!!

 

今回は離婚について思う事を備忘録として綴ります。

 

多様性が認められ、個人の自由な生き方が容認される現代社会。それは同時に、協調性を低下させ、周りの人達との関係性を気薄にしているように感じる。それは家族、夫婦にも言える事で、核家族化が進み、離婚に対する抵抗感が減少しているのもそういう要因が少なからず反映されているのではないかと思う。

 

確かに、多様性が認められる社会は素晴らしいと思う。ただ、それと個人を尊重する事はまた別の話しで、自由に生きれる社会は逆に言うと周りを無視している社会と言えると思う。

 

他人の都合など考えず、自分の都合だけで生きていく社会。確かに、見た目は生きやすいように見えるけれど、この世は自分一人で生きていける程甘くはないし、そもそも自分一人が生きているわけでもないから、他人と関わらずに生きていく事などできない。だから人間はコミュニケーション能力を高度に発達させて、複雑な意思疎通ができるようになったのだと思う。

 

人間はみんなそれを知っている。理解しているというより本能として染み付いているんだと思う。だからこそ、結婚しなくても幸せになれる現代であっても結婚したい若者が多いのだと思う。

 

人間において結婚とは単に種を保存するだけがその目的ではないと思う。特に高度に発達、発展した現代社会では、生きていく上での問題も複雑化しているし、そういう中で精神的支えになってくれる存在の有無が人生に及ぼす影響は大きいと思う。

 

この世界には約77億の人間がいて、その中からたった一人のパートナーと呼べる人と巡り合うのだからそれだけでかなり凄い事だと思う。更に高度な知能を持っている人間はその他の動物のように見た目だけで判断するわけではない。人間性や収入額、またそれだけでは計れない様々な要素を考慮し、更にその自分の条件に合った人、また比較的近い人の合意を得るわけで、お互いに合意が成立する相手と巡り会う確率を考えると本当に奇跡的な事だと僕は思う。

 

にも関わらず、少しのすれ違いやちょっとした価値観の違いで簡単に離婚してしまうのは、とても勿体ない事だと僕は思う。

 

(全ての離婚を否定しているわけではありません。)

 

特に昨今、熟年夫婦が離婚するケースが多い印象であるけど、何十年も一つ屋根の下で同じ時代を生きて、辛い事や嬉しい事を共に分かち合ってきたはずなのに、その時間を上回る離婚を決断させるものとはいったい何なのか僕には見当もつかない。

 

確かに人生いろいろで人間もいろいろあるから、その夫婦の事情もいろいろあるのだろうけど、人間みな完璧ではないのだから過ちだって犯すし、思っていたのと違う事もあるだろうし、それを何十年も許容してきて、今更離婚もクソもないだろうと思ったりする。

 

するんならもっと早い段階で離婚するべきであるし、それより一緒に共有してきた時間の方がどんなものより尊いはずであるし、一生のうちでそういう存在に出逢えた事が何より尊いと思う。

 

子どもが居るから離婚を躊躇うなら、たとえ子どもがいくつになろうと離婚するべきではない。その子どもが自分が親の人生を縛っていると思った時点で罪悪感を感じるし、それは成人していようといまいと感じるもので、何より何の罪もない子どもをその原因の所在とする事が大人としてやってはいけない事だと思う。

 

結局のところ何を理由にしても、自分の都合なわけで、本当に子どもの事を考えるなら離婚しない一択しかないし、離婚する人は子どもの事より自分の人生を優先している。もちろん人間なのだから自分の人生を優先する事は当たり前であるし、悪い事ではないけれど、そうであるなら子どもの存在が足枷になっていると感じさせるような発言はするべきではない。

 

もちろん離婚して幸せになれる人もいるし、実際幸せな人も知っているけれど、もう少し結婚するという事、結婚したという事熟考してもいいのではないかと思う。

 

それくらい結婚が尊い事であってもいいと僕は思う。

 

 

 

よふぼくであるという事!!

 

 

天理教御守護と言われる姿はいろいろにある。

 

今、続いているはもちろん御守護なのだけれども、その中で起こってくる病気やトラブル、一般的にと認識されている出直しも全て御守護の姿であると思う。何故ならそれら全てが親神様御守護の中で起こってくるからだ。

 

しかしながら、僕たち人間は自分たちの都合の良いものだけを御守護と認識する。

 

晴れて欲しい日に晴れたら御守護。

 

雨が降って欲しい日に雨が降ったら御守護。

 

トラブルが解決したら御守護。

 

治癒してほしい病気が治癒したら御守護。

 

そして、治癒しなくてもそれもまた御守護。

 

おさしづ

 

明治二十三年七月七日 午前十時半

家庭ー医療
前おさしづに基き願

 

さあ/\難しい事は一つも無い、難しい事を言うやない。よう聞き分けにゃならん。どういう事もこういう事も、人間心を以て難しいように仕掛けて来る。何処そこでそら今やならん。元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教には無いで。元々医者にも掛かり、薬も呑み、医者の手余り救けようというは、誰にも医者に掛かる事要らん、薬呑む事要らんというは、どっから出たのや。手余りを救けるのは誰も何とも言うまい。

 

本来、よふぼく親の名代たる役割を担う者であると思う。そしてその定めた心さづけの理が許されている。

 

この理は病だすけ(病気の平癒)の為の効能の理であるから、病気のに取り次ぐ事が本来の目的であるのだけれど、病気の平癒だけを目的として下附されているわけではないから、乱用し過ぎるのも僕は違うと思う。

 

もちろんどんな病気であれ、まずおさづけを取り次ぐという精神は素晴らしい事であるけれど、この令和の時代、医学や薬学も不可能な事は無いと思わせる程、進歩しているのだから、それらで十中八九平癒するのであれば、大いに活用すれば良いと思うし、重要な事は心の成人であるのだから、医者や薬がその為の一助となるなら、寧ろ活用すべきだと思う。

 

どんな病気にもおさづけは有用だと思うけれど、真骨頂はやはり医学で平癒が見込めない病気の平癒であると僕は思う。その事により神の存在を知らしめ、神意に気づかせ、心の成人を促す事が本来の目的であると思うからだ。

 

しかしながら、これは一種のギャンブル的要素も秘めている。何故ならそれは神の領域で人間にはどうする事もできないからだ。

 

神に自分自身(取次ぎ人)の全てを捧げる事ができるかどうかが現れる結果(御守護)を左右するという事になるのだけれど、それができているかどうかをジャッジするのはで人間では無い。故にここまでやればいいという事は無いし、これをやれば大丈夫なんてものも無い。

 

このギャンブルには必ず勝たねばならない。負けは神の存在を否定する事になるからだ。取次ぎ人は、発言した事は必ず実現させなければならない。たすかる(平癒する)と言ったなら、必ずたすからないといけないのだ。

 

たすかる(平癒する)と言ったのに、たすからなかった(出直した)のは、完全に取次ぎ人の力不足で、それを出直しも御守護なんて言葉で片付けるのは、ただの甘えである。

 

そんな甘えた奴は、布教師(おたすけ人)ではなく、ただのペテン師であると言っても過言ではないと思う。

 

この世界で見えてくる事象は全て御守護であるけれど、よふぼくであるなら、神の存在を知らしめる御守護を引き寄せられなければならないし、自分自身そうで在れるよう日々精進したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結果こそ全て!!

 

人間世界は結果が全てだ。

 

どんな業界であれ、結果が出ない人はクソなのである。それは天理教においても当てはまる。

 

持て囃されのは結果が出ている人間だ。それは目に見える何か、例えば数字であったり、状況であったり、そういう要素が分かりやすく現れている人たち。それ以外の人間は見向きもされない。喩えどんなに誠実に頑張っていても。

 

メディアで取り上げられるのは往々にして、結果が出ている人たちだ。

 

それはこの世界で生きる人間の大多数が結果を欲していて、どうすれば結果が出るのかを知りたいから。極端に言えば、最短で楽に結果を出したいからだろう。

 

だからこそ、結果が出ている人たちのノウハウを知りたがる。そのノウハウを実践すれば結果が出ると思っているから。

 

しかしながら、そう上手くいかないのもまた世の中である。

 

何をすれば結果が出るとかそういうものはたぶん無い。もちろんA地点に行きたいのにB地点に向かって走る、みたいな突拍子もない努力で結果が出ないのは当たり前の事であるが、A地点に向かって走っているのであれば、必ずA地点に到着すようにこの世界はなっている。

 

ただ、状況や環境は人によって違う。比較的平坦な道の人もあれば、かなり急な登坂の人もいるし、ジャングルのような険しい道を行かなといけない人もいる。追い風の人もいれば、前に進めない程の向かい風の人もいるし、横風に煽られて上手く歩けないなんて人もいるだろう。

 

よって必然的にそこに辿り着くまでの労力も変わってくる。

 

はっきり言って理不尽である。しかしながら、その理不尽を嘆いたところで状況は変わらない。僕たちにできるのは、行くか行かないかの選択実行だけだ。

 

結果がなかなか出ない人が比較的容易に結果が出た人にアドバイスを求める。はっきり言ってあまり意味は無いと思う。何故なら道のり自体が違う可能性があるからだ。野球選手がサッカー選手に技術的アドバイスを求めるようなものだろう。

 

あと《何をやっているか、何をやったのか》という質問も無意味だろう。そのやった事自体はあまり重要ではないのだから。

 

そもそも論として結果は必ず出るようになっている。結果が出ない人の最大の原因は結果が出るところに到達していないから。ただそれだけなのだ。進むべき方向が間違っていないなら結果は必ず出ると僕は思う。

 

ただ、結果が出るまでやり続けられるかは分からない。様々な事情で続けられない、断念しなければならない事も往々にして起こってくるからだ。

 

最も大切な事はやり続ける事だ。その為に必要な事はモチベーションの維持である。なので、なかなか結果の出ない人はなかなか結果は出ないけどやり続けている人にアドバイスを求めるべきであると思う。何をやったか、やっているかはそこまで重要ではない。どうモチベーションを維持しているかが最も大切な事で、その方法を彼らは知っているから。正解に言うと、凹んだ時の上げ方、リカバリーの仕方を知っている。

 

神様の世界はおもしろいもので、神様は結果を求めてはいない。求めているものはプロセスでその為に目指すべきものを与えている。

 

神様の世界において、人間が求める結果は人間の努力だけでどうこうできるものではない。だからこそ結果が求められる。そこがある意味プロセスのバロメータになるからだ。だからといって結果を求め過ぎると結果は出ない。何故なら神様の求めるものはそこではないから。結果を求めずして結果を出す。結果を求めないからこそ結果が出る。何とも凄い世界だとしみじみ思う。

 

最後に重要なのは結果よりプロセスなんて人がいるが、そんなものはただの甘えである。何故なら結果が出るからこそ、その道のりはプロセスになり得るのだから。結果の無いプロセスはもはやプロセスでは無いし、プロセスとは言えない。

 

結果が出るからこそプロセスはプロセスとなり得るのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

婚活について思う事!!

皆さんこんにちは!!

 

離島の働く教会長!!です。

 

チョ〜久しぶりにブログを更新する事にします。テーマは《婚活について思う事!!》です。これから綴る事はあくまで個人の見解であるという事をまずご了承ください。

 

それでは Let's get started!!!

 

皆さん、結婚していますか?

もし結婚しているのであれば、それは本当に素晴らしい事だと思います。

 

2021年現在、世界人口は約78億7,500万人、日本の人口は約1億2,713万人とされています。

 

ある統計では、人一人が一生のうちに出会う人の数は、何らかの接点を持つ人が3万人。 そのうち近い関係(同じ学校、職場、近所など)が3000人。さらにそのうち親しく会話を持つのが300人。友人と呼べるのが30人。親友と呼べるのが3人。だそうです。

 

単純に男女を半分に分けて、世界には39億3750万人の異性がいて、日本には6356万5千人の異性がいる事になりますよね。更にそこから何らか接点を持つ、つまり出逢う可能性のある異性を1万5千人とすると一生のうちに出逢う女性との出逢う確率は、約0.0004%

更にその中から結婚する確率は、約0.007%になるわけですからもうこれは所謂《奇跡》と言っても過言ではない確率だと思います。

 

因みに、日本人口のみでも、女性と出逢う確率は約0.02%となります。

 

実際、《性の多様性》や諸々の複雑な要素があるので、こんな単純には計算できませんが、それらの要素を加味しても、十分奇跡と言える程の確率になるとおもわれます。

 

因みに、東大に合格する確率は約0.12%だそうです。結婚は東大に入るより狭き門なのですね。

 

もし、あなたが既婚者であるなら、出逢えた《奇跡》に感謝して、パートナーを大切にしてあげてください。

 

さて、ここから本題に入ります。

 

僕は独身で絶賛婚活真っ最中です。婚活をしていて思う事があります。それは女性が圧倒的に有利だということです。特に教内の婚活イベントにその傾向は顕著です。

 

婚活イベントに参加する一番の理由は出逢いが無いからです。しかし、この出逢いが無いという感覚が男性と女性で大きく違います。

 

男性においての出逢いが無いは、キャンプで喉が渇いてクーラーボックスを開けたけど、飲み物が全くないという状況と同義です。つまり、女性と出逢う機会が全くないのです。

 

女性においての出逢いが無いは、キャンプで喉が渇いてクーラーボックスを開けたけど、飲みたい物が無いという状況と同義です。つまり、男性と出逢う機会はあるけど、好みの男性が居ないのです。

 

婚活イベントに参加している男性の心情は、《クーラーボックスが空っぽだったから他のクーラーボックスを探して開けた》時と同じで、女性の心情は《クーラーボックスに飲みたい物が無かったから、隣のクーラーボックスを開けた》時と同じです。

 

女性の方が圧倒的に選択肢が多いのです。この精神的余裕は大きなイニシアチブになります。

 

婚活イベントでは、男性にアプローチするよう促す場合が多いですが、結局のところ女性が受け入れるか受け入れないかで全てが決まるので、女性にアプローチを受け入れるよう説得する方が、カップルになる確率は上がると思います。

 

そもそも婚活イベントに参加してアプローチしないような男はオワコンです。もし結婚したいけどアプローチできないのなら、結婚は諦めてください。掴みにいかない奴が掴める程、世の中甘くはありません。ごく稀に《結婚する気はないけど、周りに勧められてしょうがなく参加した》みたいな人もいますが、そんな奴は来ないでください。あなたが参加した事により結婚したい人の参加枠が一つ減っています。婚活イベントは《結婚したい人の為》に開催されています。結婚に興味が無い人が来る所ではないし、そういう人を参加させる周りの人達も本人達は善意のつもりなのでしょうが、その善意でチャンスを摘み取られている人も必ずいるし、そもそも自分の意思で選択、決断できない男性はもう本当にオワコンです。

 

あと彼氏や気になる男性がいるにも関わらず、参加している女性。これは本当に意味がわかりません。一体何しに来たのでしょうか?冷やかしですか?どんな感情で参加しているのでしょうか?サイコパス感強いし、意欲が削ぎ落とされるので、本当にやめてほしいと思います。

 

最近は、ZOOM開催の婚活イベントが主流になっていますが、あれは難しいです。そもそも初対面の人と画面越しに5〜10分そこそこ話ししただけで、何が分かるというのでしょうか?

 

最後に、婚活イベントに参加する人、特に男性は《結婚したいけど、出逢いが無い》人達、つまり結婚において追い込まれている人達なのに、イベントの雰囲気はどれも和やかになりがちです。もっとこう激った感じになってもいいと思うし、そういう演出をしてもいいと思います。東大に入学するより狭き門なわけですから、奪い合う戦さ場のような熱い婚活イベントがあれば面白いのになぁと思う今日この頃です。

 

 

 

分かち合う人へ!!

皆さんこんにちは!!

 

もうすぐは〜るですねぇ

恋をしてみませんか〜

 

寒波の到来に僕の身にも心にもまだまだ春は来そうにないと感じる男!!

 

離島の働く教会長です!!

 

先日、ほこりまみれさんのラジオを聴きました。題して天理教で人生を攻略するラジオ!!

 

テーマは《人に物を盗られる喜び》

 

何とも斬新なテーマです。内容も凄く面白かったので興味のある方は是非聴いてみて下さい。

 

リンクを貼っておきます。

 

https://note.com/jinsei_kose/n/ne26cc6451453

 

このラジオを聴いていて、内容はとても面白かったのですが、考え方や解釈は《僕とは違うな〜!!》と思ったので、今回は僕の現時点での考え方や解釈を備忘録として綴る事にします。

 

※ この記事はほこりまみれさんのラジオを否定するものでも、僕の考え方や解釈が正しいと主張するものでもありません。考え方や解釈は逸脱しない限り、どんなものがあってもいいと思います。なので、一つの考え方としてご理解いただければ嬉しいです。それでも私は熱狂的ほこりまみれ信者だという方はここでこのブログをそっと閉じる事をお勧めします。

 

天理教教祖傳逸話篇

 

【39 もっと結構】

 

 明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。

 お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。

 弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。

 ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。

 弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結構でございました。」と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、

「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」

と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。

 

では先ず解釈の違いから。

ほこりまみれさんはラジオの中で上記の逸話から喜んで人に物を盗られる事を神様は喜ばれるという解釈をしていたと思うんですけど、僕はこの逸話だけで、そう解釈するのはちょっと無理があるように思います。そう思える程おやさまが放った御言葉に含み曖昧さを感じるからです。

 

「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」

 

この御言葉は余白が多いですよね。つまり、これは思案を促す意味で放たれた御言葉であって、この御言葉の表面的に意味する事がおやさまが本当に言いたかった事ではないと僕は推察します。

 

実はこれとほぼ同じシチュエーションでおやさまの対応が全く異なる逸話があります。

 

天理教教祖傳逸話篇

【114 よう苦労してきた】


 泉田籐吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出遭うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。

 余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、

「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」

と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。

 

シチュエーションはちょっと違うけど、自分の物を盗られそうになった、けど盗られなかったという内容は同じです。でもおやさまの対応は全然違いますよね。

 

 

西浦弥平さんと泉田籐吉さん。この二人の違いは何だったのか?それはですよね。盗られる事を阻止しようとして盗られなかった事を喜んだ弥平さん。盗られる事を受け入れて差し出した藤吉さん。この二人の心の動きの核となる要素はかしもの、かりものの教えが心に治っていたか、いなかったかであると思います。

 

おやさま弥平さんに放たれた

 

「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」
 

という言葉。これは盗られなかった事が結構ではないという事ではないと思います。盗られなかった事はそれはそれで結構やった。でもほしい人に貰ってもらった方がもっと結構やないかという事だと思います。この場合、盗られた、盗られてないというところはそんな問題ではなくて、自分の物を盗られなかった弥平さんのその喜ぶ心を戒められた言葉なのだと思います。

 

「その心遣いは違うで、そうやないで」

 

という事だと僕は解釈します。

 

次に考え方ですが、ほこりまみれさんはラジオの中で、世の中には、

 

 

Taker(テイカー)

自分の利益を優先させる人。与えるより受け取る方が多くなるように行動する。

 

Giver (ギバー)

自己犠牲を払ってでも他人に対し惜しみなく与える人 ⇒見返りを求めない

 

Matcher (マッチャー)

損得のバランスを考える人。相手によって自身のスタンスを変える。

 

の三種類の人間がいると言っていました。このTaker,Giver,Matcher は心理学用語ですよね。

 

心理学では最も豊かな人生を送れるのは、Giver だとされています。しかし、自己犠牲を伴うgiveは他人(ひと)に侮られやすく逆に人生の質が落ちるとされていて、自己犠牲を伴わない程度に与えるのが最も人生を豊かにするとされています。

 

ほこりまみれさんはこの定説を覆して、自己犠牲を伴っても与える事が最も人生を豊かにするんだと主張されてました。

 

これは僕の考え方ですが、そもそも天理教の思想の中では、Taker,Giver,Matcher という概念は成立しないと思っています。それはその概念に自分のものという前提の思考があるからです。かしもの、かりものという思考が前提にある天理教を、Taker,Giver, Matcher という概念を当てはめて説明するのは無理があると思います。自分のものではないものを与える事も奪う事もできないからです。

 

もちろん分かりやすく説明する為に敢えてそういう表現を用いたという事は理解しています。

 

かしもの、かりものの世界で僕たち人間が出来る事はただ一つ、Share(シェア) 《共有》です。僕たち人間は借し与えられているものを共有する事しかできないと思います。

 

この共有において《如何に惜しみなく共有できるか》が、人生を豊かにするポイントであると思うし、お道の教えを知っている者たちが目指すべきところだと僕は思います。

 

僕たちはTaker でもGiver でもMatcher でもなく、どこまで惜しみなく共有できるSharer (シェアラー)を目指すべきなのではないかと思います。

 

ただこのかしもの、かりものの教理を心に治めるのは並大抵ではないと思います。藤吉さんは心に治っていたからこそ咄嗟の出来事においてもその実践ができたのでしょう。おやさまはそんな藤吉さんに

 

「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」

 

 

と労いの御言葉に加え、おさづけの理までお渡しになっています。如何に藤吉さんが日々おやさまの御言葉を実践し、心の成人に努力されていたかが推察できるエピソードであると思います。

 

僕もおやさまに《よう苦労してきた》と労ってもらえるような分かち合う人を目指して日々精進です。

 

御守護!!

 

「御守護をいただく」

 

教内で良く耳にする言い回しだ。この場合の御守護とは望み通りに成ったという意味で十中八九間違いないだろう。

 

身上の障りを御守護いただくの意味は病気の平癒を意味するし、事情を御守護いただくは問題が思い通りに解決した時に使われる。

 

人間は誰しも自分の思い通り事が運ぶことを望む。誰だって自分の思い通りに事が運べば嬉しい。だからどうすれば自分の思い通り事が運ぶのかを考える。だからを積もうとするし、に沿う努力をする。全ては人生を自分の思い通りにしたいから。

 

もちろん、そうじゃない人も一定数はいる。それでも圧倒的に自分の思い通りの人生を送りたい人が多い。

 

自分の望み通りに成ってきた姿は御守護でそれ以外は御守護ではない。この認識は正解なのだろうか。

 

答えはである。これは断言してもいい。

 

何故ならば、御守護なくして、この世界は存在し得ないからである。この世界で起こる全ての事象は御守護の中で起きているという事が大前提にあるのだ。

 

昨年から猛威を振るう新型コロナウイルスこのウイルスの蔓延により、人間の生活は一変した。しかしながら、この事象も御守護の中で起こっている。これは紛れもない事実で、決して揺るがない。

 

この新型コロナウイルスの蔓延は、人間には非常に都合の悪い事象である。しかしながら、世界(天然、自然)の生態系を揺るがすものかと言われれば、答えは否である。

 

自然界にしてみれば、この新型コロナウイルスの蔓延は長い歴史の中で起こった一つの出来事に過ぎない。そこにはもない。それを悪い出来事にしているのは、人間の認識である。何故ならそれは、人間にとって都合の悪い事だからである。

 

人間が今、気づくべき事は、大前提であると思う。人間が存在しているという事においての大前提。人間はこの世界(地球)がなければ生きていけない。それが大前提である。人間がこの世界を創ったのではない。この世界の長い歴史の中で人間という生物が誕生した。これが大前提なのである。

 

人間は、知的で高度な技術を有し、素晴らしい文明を築いた。故に、存在している事においての大前提を忘れている人達は多い。

 

しかしながら、人間は御守護無くして生きていけない。この世界で起こる全ての事象が御守護の中で起こっている。であるなら、その御守護の中で、自分たちの領分を弁え、ベストを尽くしていくしかないと思う。

 

ただ収束や終息を望むばかりではなくて、この事象が起こっている世界の中で自分たちが何を考え、どうすべきなのかに重きを置いて考え、行動すべきではないかと思う。

 

この事象も人間の成長には欠かせない御守護なのだろう。