離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

宗教的献金!!

 

昨今、某宗教団体と政治家の繋がりについての報道をよく見たり、聞いたりする。

 

この報道においては、宗教がどうこうというより、たぶん政治的思惑の部分が大きくて、宗教業界が流れ弾に当たっている感が否めないところはある。

 

ただ、こういう報道がされるきっかけになったのは、やはり宗教の暗黙の闇の部分だと思う。

 

宗教において献金は切っても切れない要素であると思う。どんな団体でもそうだが、組織を運営していくのには資金が必要で、宗教団体はその性質上、その資金の捻出方法が限定的になるから。

 

よって献金というものは恐らくどんな宗教団体であれ、多かれ少なかれ行われていると思う。

 

ただ、度を越した献金、自分たちの生活の維持に支障をきたすような献金はやはり問題で、そういう問題は、恐らくどの宗教団体でも起こり得る事であると思う。

 

もちろんそこには宗教的意味合いや、信仰的意図があって、それらの全てを否定する事はできないし、結局は、献金する人の意思が尊重されるべきで、その意思がある人に無下に制限をかける事はできない。

 

ただ、その本人の行動の意図がその周りの人たちに全て理解されるという事はない。故にトラブルは必ず起きるし、そういうトラブルに対してどう対処するかというのは重要な課題の一つだと思う。

 

僕は天理教を信仰していて、天理教はそういう献金に対しては比較的緩い感じだと思うけれど、それでも「それやり過ぎじゃない?」って思う事は間々ある。もちろんそれは僕が僕の感覚の中でそう思うのであって、本当にやり過ぎかどうかを正確に判断する事はできない。

 

ただ、僕がそう思うという事は、他の誰かもそう思っているケースがあるという事で、そういう現実があるという事を理解し受け止める事は必須であると思う。

 

そういう報道がされた時、ただ「カルト」という三文字で済ませるのではなくて、そういう現実があるという事を真摯に受け止め、向き合う姿勢が今問われていると僕は思う。

 

そもそも、カルトにしろ宗教にしろ、偏った人たちというのは必ずいて、一つの団体をカルトと一括りにする事はたぶんできない。カルトと呼ばれる団体の中にも誠実に信仰と向き合っている人たちはいるし、世間的に真っ当な宗教とされている団体の中にも、カルトチックな人はいる。

 

「自分の感覚がどちらなのか?」を俯瞰的に見る事ができるバランス感覚は必要だけれど、そういう能力がある人たちはたぶん思いのほか少ない。

 

確固たる信仰信念を持っている人は素晴らしいけれど、それが本当に信念なのか、それとも忖度なのか、自分の我が生んだ固定概念なのかを判断できるバランス感覚は大切にしていきたいと自分自身思う。

 

種蒔き!!

 

皆さんこんにちは!!

 

今回のテーマは「種蒔き」です。

 

種蒔きについての今現在の僕の見解を備忘録として綴ります。

 

よろしくお願いします。

 

やしきハかみのでんぢやで
まいたるたねハみなはへる

 

(七下り目 八ッ)

 

人は生きている限り、何かしらの種を蒔いていると思います。種蒔き。それは人生であり、生き方と言えるのではないでしょうか。

 

日々の言葉遣い、考え方、行い、姿勢や態度が、後々の実り(成果)の種となる。それを種蒔きという表現で比喩したのだと僕は推察します。

 

蒔いている種は4種類。善き種、悪き種、善き種に見える悪き種、悪き種に見える善き種。

 

このたびいちれつに ようこそたねをまきにきた たねをまいたるそのかたハ こえをおかずにつくりとり

 

(七下り目 十)

 

どんな種も蒔けば必ず生えて、花が咲き、実ります。

 

人は誰しも善き実りを得たいものです。よって善き種を蒔こうとします。しかし思いに反して悪き種を蒔いてしまう時もあります。また善き種だと思って蒔いた種が実は悪き種だったという事もあれば、悪き種を蒔いてしまったと思ってもそれは実は善き種だったという場合もあります。

 

善き種を蒔く努力や悪き種を蒔かない努力はできます。悪き種に見えて実は善き種には棚から牡丹餅的なお得感があります。

 

一番厄介なのは善き種に見える悪き種です。

 

本人は善き種を蒔いていると思っているから悪き実りを受け入れられない。思いと現実が剥離して迷子になります。

 

しかし蒔かない種は生えません。もし生えたのならそれは自分が確実に蒔いた種です。迷子にならない為にもそういう種もあるという事を理解しておく必要はあると思います。

 

種を蒔けば必ず収穫の時がやってきます。善き実も悪き実も実ったなら回収すべきです。それは自分で回収できるかもしれないし、自分ではない誰かが回収する事になるのかもしれない。そしてとかく人は善き実を優先的に回収したがるものです。

 

そして「ありがたい」「結構や」というて通ります。確かにありがたいし結構な事です。ただ、残った悪き実は誰かが回収しないといけない。それが自分で回収できなかった場合、後々の者がそれを回収しなければならない事態になります。

 

神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めんめん勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。

明治三十年十二月十一日のおさしづより抜粋

 

善き実も大いに回収すればいいと思います。ただ、もし悪き実りがあるなら、優先すべきはそちらの方です。悪き種を蒔かない努力をし、それでも実った悪き実を優先的に回収する。それがこの道を通る者の通り方だと思います。

 

今回は種蒔きについて今現在の僕の見解を綴りました。ありがたい、結構や と通らせていただける日々は尊く、素晴らしいと思います。ただそれが善き実りだけを食い荒らす事になっていないかを問う必要はあると思います。

 

後々の人たちに善き実りを残す通り方ができるお互いでありたいですね。

 

 

 

 

出直しとおさづけ!!

 

今年のはじめ母方の祖母が出直した。

その日は丁度、上級教会の月次祭で、おつとめが終わってすぐその報を受け取った。

 

すぐにおつとめ着を着替えて、病院に向かった。

 

教会を出発する時、上級の会長さんに亡骸におさづけを取り次ぐようにと言われた。

 

僕は「なんで?」と思った。

 

確かに出直しの際に亡骸におさづけを取り次ぐのはよく聞く話しではある。しかし僕の認識としておさづけはあくまで生きた人間に取り次ぐものという認識なので、何故上級教会長がそんな事を言ったのか理解できなかった。

 

無論、出直し直後、どうしても命を延ばしてほしいのなら理解できる。しかし祖母は高齢により身体機能が落ちた事による肺炎。天寿を全うしたと僕は認識している。その場合、おさづけを取り次ぐ必要はあるのだろうか?

 

おさづけは、病む人にその病いの平癒を願って取り次ぐ効能の理である。つまりおさづけは病む人間に取り次ぐ為に授けられるものであると言えるだろう。

 

大なり小なり人は必ず病むし、必ず出直す。全く病まない人間はいないし、出直さない人間もいない。これは厳然たる天然自然の理(ことわり)である。

 

病いは人間の心の成人を促す為に見せられる姿である。でありながら親神様はそれを打ち消す術も授けられている。ここに人間の成人を促される厳しさと子ども可愛い親心の葛藤とジレンマを感じずにはいられない。

 

出直しは病いではなく御守護だ。の成人に欠かせない御守護であると僕は思う。

 

その尊い姿に人間の情から何かを足そうとするのは野暮だと思う。

 

本来の性質を人間の情で朧にしてしまうのはやはり違うと思う。それがどんなに人間的に素晴らしい姿であっても、ズレているものはズレている。それは取るに足らない小さなズレなのかもしれないが、そういう小さなズレの積み重ねが後々の大きなズレに繋がるのではないだろうか。

 

今一度親の教えの本質を見つめ、人の情で濁らせるような事をしてないかを問いたい。

 

やるならせめて、自分の中で完結し、他に影響を及ぼさないように配慮すべきであると思う。

 

最後にこれはあくまで個人の見解と認識によるものである事を申し上げて締めとする。

 

 

伏せ込みに関する私的見解!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は、伏せ込みについての私的見解を備忘録として綴ります。これはあくまで私的見解であり、これが正しいと主張するものではないか事を御了承の上お読み下さい。

 

それではよろしくお願いします。

 

天理教の教語と呼ばれるものには、同じようなシチュエーションで使われる全く違う言葉というのが多くあります。その中で徳積み、理づくり、伏せ込みは比較的代表的なものでしょう。

 

何を基準にこれらの言葉を使い分けているのかは、非常に不明確で、強いて言うなら、個人の信仰的感覚に委ねられる場合が多い。故にこれらの言葉の違いを明確に説明できる人は恐らく少ないと思います。

 

徳積みおさしづや逸話、口伝でも主に徳を積むという表現でよく使われていて、社会的にも比較的よく使われる言葉であるから、比較的イメージしやすい言葉であると思います。

 

因みにという言葉は、ある国語辞典には

 

1 精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。「―が高い」「―を修める」→徳目
2 めぐみ。恩恵。神仏などの加護。「―をさずかる」「―を施す」
3 ⇒得 (とく) 1
4 富。財産。

「―いかめしうなどあれば、…家の内もきらきらしく」〈源・東屋〉
5 生まれつき備わった能力・性質。天性。

「鳥といっぱ、高く飛ぶをもってその―とす」〈仮・伊曽保・下〉

 

と説明されていました。

 

理づくりは出典が不明な言葉であり、おやさまがこの言葉を使われた形跡は僕が調べた限り今のところ無いです。少なくとも三原典には全く使われておらず、誰かが創った創作教語の可能性は高いと思います。よってこの言葉を使う意図やその言葉が持つ意味は、使う人の感覚によるところが全てだと思います。今のところはそう言わざる得ません。

 

伏せ込みは主におさしづで使われています。また天理教教祖傳逸話篇にもおやさま伏せ込みという言葉を使われている逸話があります。おさしづは断片的で完全にその意味を理解する事は難しいですが、使われている伏せ込みという言葉は、限定的に使われていて、主に、本席様を指していたり、その夫婦を指していたり、その家族を指していたり、又は宛てられている場合が多いようです。また明治三十一年五月九日の伺いのおさしづに出てくる伏せ込みは本席様は関係無さそうではありますが伏せ込みの前にしんばしらという言葉が使われていて、おそらく初代真柱様の事であると推察できます。この伏せ込みは、初代真柱様と関係がありそうです。

 

天理教教祖傳逸話篇 120「千に一つも」では、おやさま山澤為三氏に対して伏せ込みという言葉を使われています。

 

本席様、初代真柱様、山沢為三氏。

 

この三名の共通点はおやさまにオファーされて、お屋敷に住み込む事になっているという点です。ここに伏せ込みに込められた真意を紐解く鍵がありそうです。

 

天理教事典では、伏せ込みは次のように説明されています。

 

【伏せ込み】

 

種を蒔くときに、地面を掘って埋めるようにすること、 また、さつまいもやじゃがいもの種いもを埋めることを 「伏せ込む」と言う。鳥などが掘り起こして食べなければ、 旬が来て芽が出る。これと同じように人の善行も、すぐには現れないが、時が経てばその陰徳により幸いとして報いられる、と一般にも言われている。

「みかぐらうた」にやしきハかみのでんぢやでまいたるたねハみなはへる(み7:8)と教えられる。「おやしき」 には、信者が真実の種を蒔きに来るが、これを現在 「伏せ込み」 と呼んでいる。このお歌の 「やしき」 は、「おやしき」という意味のほかに、「親神·教祖 (おやさま)とともにある信仰の世界」 という意味ももっているので、広く信仰生活において、たとえ目に見える成果がなくても、真実を尽くしてたすけの御用をすることも「伏せ込み」と呼ばれている。人間は、花や実を求めるが、そのためには種をまき伏せ込むことが大切であるということを、 「伏せ込み」という言葉で教えられたのである。「おさしづ」においては、本席飯降伊蔵の場合にだけ「伏せ込み」 という言葉が使われている (さ30.8.14.31.5.9参照)。→お屋敷、 入り込み、屋敷

 

種を撒くという表現はみかぐらうたや逸話篇でも使われている表現ですが、この説明だと何故種を撒くという表現と伏せ込みという表現を使い分けられたのか?という疑問は残ってしまいます。

 

そこで伏せ込みの一般的な用法について調べてみると次のような事柄がヒットしました。

 

ふせ‐こみ 【 伏せ込み 】

 

グリーン‐アスパラガスやウド・ワラビなど、多年生の野菜や山菜などの根株を秋に掘り出し、温床(ハウス内)などに植え込んで萌芽を早める栽培方法。 また、それに用いる床。

 

僕はこちらの方がおやさまの使われた伏せ込みのイメージに近いのではないかと思います。

 

神様の用向きに使う為、より良い環境(お屋敷)に囲い(入り込ませ)、更なる成人を促す事が、伏せ込みなのではないかと思います。

 

ハウスでの栽培は歴史が古く、日本ではおよそ400年前、紙を利用して促成栽培を行ったところからはじまったといわれていて、明治時代になると海外からガラスの温室による栽培技術が入り、それまでの紙を用いた栽培方法と融合し、ペーパーハウスが生まれたそうです。

 

よって立教当時、この栽培方法は既に行われていたと思われ、おやさまがそれを比喩表現として使った可能性は十分に考えられると思います。

 

もしそうならこの場合の伏せ込みは行動ではなく状態で、現在使われている伏せ込みとは全く言葉の性質が異なる事になります。伏せ込み伏せ込む側伏せ込まれる側があって成り立つ状態であって、信仰においての伏せ込む側は神様(おやさまという事になると思います。故に限定的な使われ方をしているのだと推察します。

 

今回は伏せ込みについて思案を深めましたが、こういう言葉一つ一つに込められた真意や神意を理解しようとする事によって新たな視点から教えを眺める事ができて、信仰の世界観が広がるのではないかと思います。何が正しいとか間違っているとかではなくて、いろいろな解釈を受容して、教えの研鑽に励みたいと思います。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

出直しの世界観!!

皆さんこんにちは!!

 

久しぶりに備忘録を更新します。

 

今回のテーマは「出直しの世界観」です。

 

*注)あくまで個人的解釈による見解です。

 

よろしくお願いします。

 

天理教では人生の終焉をではなく出直しと説きます。これは終わりはではなく新たなはじまりという事だと思います。

 

天理教では身体かりものと説きます。神様からお借りしているもの。それが身体。ではその身体をお借りしているものは何なのか?これについては幾らかの解釈があると思いますが、僕はと解釈します。

 

は滅っしない存在。そしてその身体をお借りして、僕たちは人生を営んでいる。借りているものはいつかは返す日がくる。しかしはこの世に留まり、いつかまた身体をお借りする日がくる。これが出直しの世界観であると思います。

 

ある魂が身体をお借りして、この今という時代をとして生きています。なのではありません。ある魂と今世でお借りした身体僕(心)です。僕はそう解釈しています。

 

天理教はこの世界観をベースとして物事を見たり判断します。

 

この世界は理不尽に満ちています。環境、境遇、容姿。理不尽な事を挙げればキリが無いでしょう。しかし、今世だけを見て理不尽と感じる事でも、出直しの世界観で考えれば、それは理不尽な事では無いのかもしれません。

 

例えば今世、容姿端麗なAさんという人生を生きる魂は、容姿がイマイチだったBさんという人生を生きていた可能性がありますし、今世、お金持ちな家庭で生まれ育ったC氏の魂は、貧乏な家庭で生まれ育ったD氏という人生を生きていた可能性があるからです。

 

おさしづに

 

理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。

 

明治二十五年一月十三日 午後五時半

 

という一節があります。

 

環境も境遇も容姿もそれぞれの魂に丁度良いものを神様は与えられています。それは今世の中だけの事ではなく、出直しの世界観の中に於いても言える事だと思います。

 

僕たちの人生は今世で終わります。しかし、僕たちとして生きた魂は違う誰かとして再びその人の人生を生きる事になります。僕たちのこの今世での生き方が、に刻まれ、その魂が来世に生きる誰かの人生に影響を与える事になります。それは、僕たちの孫なのかもしれないし、ひ孫なのかもしれないし、全く違う誰かかもしれません。

 

ただ一つ確かな事は、今世の僕たちの生き方がその誰かの人生に与えるものは大きいという事です。

 

将来、子々孫々の世界を良きものにしたいなら、今、自分として生きている今世を未来の世界が良きものになるような生き方をしなければいけないと思います。

 

神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めんめん勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。

 

おさしづ 明治三十年十二月十一日より抜粋

 

後々の者が陽気に暮らせる通り方をお互いにしたいものですね。

 

 

 

 

戦争について思う事!!

皆さんこんにちは!!

 

チョー、スーパー久しぶりに更新します。

 

今回は、僕が思う平和と戦争観について綴ります。

 

これはあくまで、個人の価値観や考え方の話しである事を御理解頂き、また御理解頂ける方のみお読みください。

 

それではまいりましょう。

 

最近戦争のニュースが連日取り上げられています。

 

SNSでも平和を願う声や戦争反対の声を見かけたりします。

 

平和を願い、戦争反対の声をあげる事自体はとても素晴らしい事なのでしょう。僕も平和が一番だと思います。しかし、残念な事に戦争は起こります。

 

そもそも戦争は何処で常に起こっています。しかしそういう所に目を向ける人たちはごく僅かです。それはニュースにならないから。自分の周りが平和だから。

 

今回ニュースになったのは、それが世界情勢に大きな影響を与える事象だったから。だから多くの人たちが平和を祈り出した。でもそれはニュースになったから祈り出しただけ、ニュースになったから戦争反対の声を上げただけです。

 

僕たち信仰者は常に世界の平和を願い、祈っています。それでも戦争は起こります。それが戦争です。

 

戦争反対。戦争がニュースになると、よく見たり、聞いたりする言葉です。僕も戦争は反対です。しかし戦争をしないということは暴力(武力)を行使しないという事です。

 

例えばA国がB国を侵略する為に武力を行使したとします。この場合、B国が侵略を阻止する為に武力を行使すると戦争になります。つまり、戦争をしないという事は相手が武力を行使してきても、こちらは武力を行使しないという事です。守るべきものが暴力の危機に晒され時、それでも暴力を行使しないでいられる人がどれくらいいるでしょうか?僕はほぼ皆無だと思います。だから戦争をしない国日本にも自衛隊があります。そして、侵略する為の暴力もそれを阻止する為の暴力も暴力は暴力であり、その暴力のぶつかり合いは戦争です。

 

どの国も政治的采配の切り札として戦争というカードを持っています。高度に発展したこの令和の時代であっても、政治的采配において暴力という幼稚な手段を捨てられないところが人間の愚かさなのかもしれません。

 

ここからは更に偏見強めです。御了承下さい。

 

日本は平和な国です。世界でも類を見ないくらい平和な国かもしれません。こんな小さな島国が何処の国からも侵略される事なく、平和が保たれているのは、本当に凄い事だと思います。

 

では何故日本は平和なのか?

 

それはアメリカとズブズブだからです。アメリカがバックにいるからです。

 

日本は世界で唯一核兵器の犠牲になった国です。そしてアメリカは世界で唯一核兵器を実戦で使用した国です。世界に核兵器保有国は何ヵ国かあるけれど、実戦で使用した国はアメリカだけです。保有している事と実際に使用できるかはまた別の話しです。それくらい核兵器は非人道的兵器だからです。使われたらやり返すかもしれないですが、自ら使う事はまずしないと思います。でもアメリカは使います。過去に使っています。だから何処の国もアメリカを本気で怒らせたくはありません。核戦争になるからです。それがどういう結末になるか分かるからです。だからそのアメリカとズブズブの日本ともあまり関わりたくありません。だからアメリカとズブズブである間は日本は平和であると思います。

 

最後に戦争は愚かな行為です。それは誰もが分かっている事だと思います。それでも戦争は無くなりません。そこに正義という大義があるからです。しかし人命より重い正義などありません。正義は人に豊かさを与える為の概念だからです。

 

正義が正しく行われ、世界の戦争や紛争が治まる事を切に願います。

 

 

 

 

 

おつとめの太鼓は本当にうるさいのか?

皆さんこんにちは!!

 

めっきり秋らしくなってきた今日この頃。いかがお過ごしですか?

 

離島の働く教会長!!です。

 

今回のテーマは《おつとめの太鼓は本当にうるさいのか?》です。

 

ネットで天理教を検索するとおつとめの太鼓がうるさくて寝れないという意見を見かける事があります。確かに「うるさいだろうな〜」と思います。しかし寝れない程うるさいのか?と言われると「そんにうるさいか?」と思うのです。それは参拝場で居眠りをしている人を(たまに?)見かけるし、僕自身も(たまに?)居眠り(というかガチに寝てしまう)事があるからです。という事で本当におつとめの太鼓はうるさいのかを考察したいと思います。

 

日本の騒音に関する基準は環境省によって定められいます。その規定によると、

 

住宅地の騒音基準は昼間で55デシベル以下、夜間で45デシベル以下となっています。

 

これ以上は騒音ということです。

 

因みに全くの音が知覚できない無音状態を0デシベルとして、日常生活の普通の会話レベルの音量が60デシベルほど。 100デシベルを越えるとかなりうるさい音量となり、130デシベルを超える音量になると耳に損傷を与える危険性があるほどの大音量となるそうです。

 

ついでに騒音に関するわかりやすい表があったので貼っておきます。

 

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環境省の基準によると昼間は55デシベル以上、夜間は45デシベル以上で騒音になるわけですが、表を見ると日常で普通に会話する声量が60デシベルなわけですから、人間はそんなに大きな音でなくても騒音と感じるようですね。

 

さて、それではここから、おつとめの太鼓は騒音になるのか?を考察します。とは言っても、おつとめの太鼓の音が何デシベルくらいなのかが分からないので、今回は和太鼓の音を基準に考察します。

 

和太鼓をバチで思いっきり叩くと約130デシベルの音が出るそうです。はっきり言ってめちゃくちゃうるさいです。前述しましたが、130デシベルを超えると耳に損傷を与えるレベルらしいのでかなりの大音量ですよね。太鼓の大きさや太鼓までの距離で音圧は変わるから実際には多少レベルは低くなるとは思いますが、それでも、騒音と言っていいレベルだと思います。

 

結果、《おつとめの太鼓は本当にうるさい》という結論に至りました。

 

しかし、おつとめを止める事はできないですよね。それくらい天理教の信仰者にとっておつとめは大切であるし、大切にすべきものです。という事でここからは対策を考えていきたいと思います。

 

前述した通り太鼓を目一杯の力で叩くと約130デシベルの音がでます。しかしながら、これは目一杯叩いたらです。手加減して叩けばこれより低く抑えられるはずです。じゃあどれくらいの音量で叩けばうるさくないのか、基準としては、日常会話の音量が基準になってくると思います。

 

音は音源までの距離が遠くなればなるほど小さくなりますよね。音と距離の関係の表を貼っておきます。

 

f:id:Captainace:20210926074350j:image

 

上記の表を参考にすればどれくらいの音量で叩けばいいか感じが掴みやすいと思います。

 

例えば日常会話の声量レベルの音、60デシベルくらいで叩けば2m離れれば54デシベル、4m離れれば48デシベル、になるわけですから、そこまでうるさいと感じる音にはならないはずです。

 

太鼓のサイズを小さくするという方法もありだと思います。特に大きい教会は太鼓のサイズもめちゃくちゃ大きいです。だから音も必然的に大きくなるし、手加減して叩いてもそれなりの大きな音は出るわけですから、騒音になる可能性は高いですよね。

 

おつとめをするのに、大きい、小さいはあまり関係ないと思いますし、太鼓のサイズを小さくするのはありだと思います。

 

住宅が密集している地域にある教会や都会に在る教会は既におつとめ時間を朝は遅く設定したり、夕は早く設定したり、太鼓は小さく叩くなどの対策を既にされていると思います。それでもやはり「うるさい」と苦情がくるのは、本当にうるさいわけではなくて、不気味だからだと思います。宗教の理解不足や偏見から些細な音などが不気味に感じるのだろうと思います。しかし、この不気味さは宗教である限り払拭できないと思います。というか宗教でなくても人間は知らない事やよく分からない事を不気味に感じるものです。だから本当にうるさいのではなくて、不気味だから止めてほしいが本音だと思います。もちろん、本当にうるさいと思われているケースもありますので、近隣住民への配慮は怠る事なく、不快感を与えない努力はするべきだと思います。

 

最後に、教会近隣に住む方々へ。

 

天理教のおつとめは自分ではない誰かの幸せやたすかりを願ってつとめられています。それは世界平和であったり、病気の平癒であったり。

 

おつとめは天理教信仰者の生活の芯です。不気味であるとは思いますが、ご理解の程を心よりお願いして終わりとします。