離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

ひながたの曖昧さ!!

 

ひながたという概念が凄く曖昧で分かりにくい。もちろんひながた=おやさまが通られた道というのは理解できるし、それが最も分かりやすいのは教祖伝でそこに書かれているおやさまの御足跡を辿る事が大切というのも理解できるし、そこに書かれているように日々生活する事が最もシンプルにひながたを辿る事になると思う。

 

ただ現状、教会生活において丸々教祖伝のような生活をするのは、組織形態的にまず不可能。寧ろ教会だからこそできない部分の方が多いと感じる。

 

そうなると精神的観点からのアプローチになると思うが、それはもう個人の悟りや解釈の世界になってイメージを一つに絞る事は困難。人それぞれにひながたのイメージは違うし、誰のひながたのイメージが正しくて誰のイメージが間違っていると断定する事も不可能。故に必然的にそれぞれがそれぞれのひながたを基準として信仰的歩みを進めざる得ない。

 

おやさま140年祭の3年千日がスタートしてこちら、諭達に使われた事も相まって、これまで以上にひながたという言葉を耳にする。そこにはやはり【現状、ひながたを辿れていると言い切れないイメージ】が強く反映されているような印象。

 

その要因は自分の思うひながたを辿るイメージとの剥離だと思う。しかしながら、信仰者ならひながたを辿る事の大切さは十分理解していると思うし、自分なりにひながたを辿る努力は日々していると思う。

 

それをしていない。できていない人はひながた以前の信仰的自覚の有無が問題なのであってその段階の人にひながたをどんなに連呼してもその意味を理解してはくれないし、必要以上に連呼する事によってひながたを辿る努力をしている人の信仰的意欲を低下させる可能性も無きにしも非ず。ただひたすらに悪戯にひながたという言葉を多用するのは違うと思う。

 

意識統率をはかりたいならやはりイメージの誤差の溝を埋めていくしかないと思う。その為にひながたという概念について話し合う必要があるだろう。しかしながら、こういう年祭についての話し合いは往々にしてひながたを辿りましょう という言葉だけで終わってしまう。結果、意識共有のできないまま曖昧な部分をひながたという言葉で埋めていく。

 

ひながたという概念を確定させる必要は無いと思うが、意識を統率するには曖昧過ぎる。

 

もっと統率しやすい明確にイメージしやすい言葉の選択が必要だと思う。