離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

宗教的献金!!

 

昨今、某宗教団体と政治家の繋がりについての報道をよく見たり、聞いたりする。

 

この報道においては、宗教がどうこうというより、たぶん政治的思惑の部分が大きくて、宗教業界が流れ弾に当たっている感が否めないところはある。

 

ただ、こういう報道がされるきっかけになったのは、やはり宗教の暗黙の闇の部分だと思う。

 

宗教において献金は切っても切れない要素であると思う。どんな団体でもそうだが、組織を運営していくのには資金が必要で、宗教団体はその性質上、その資金の捻出方法が限定的になるから。

 

よって献金というものは恐らくどんな宗教団体であれ、多かれ少なかれ行われていると思う。

 

ただ、度を越した献金、自分たちの生活の維持に支障をきたすような献金はやはり問題で、そういう問題は、恐らくどの宗教団体でも起こり得る事であると思う。

 

もちろんそこには宗教的意味合いや、信仰的意図があって、それらの全てを否定する事はできないし、結局は、献金する人の意思が尊重されるべきで、その意思がある人に無下に制限をかける事はできない。

 

ただ、その本人の行動の意図がその周りの人たちに全て理解されるという事はない。故にトラブルは必ず起きるし、そういうトラブルに対してどう対処するかというのは重要な課題の一つだと思う。

 

僕は天理教を信仰していて、天理教はそういう献金に対しては比較的緩い感じだと思うけれど、それでも「それやり過ぎじゃない?」って思う事は間々ある。もちろんそれは僕が僕の感覚の中でそう思うのであって、本当にやり過ぎかどうかを正確に判断する事はできない。

 

ただ、僕がそう思うという事は、他の誰かもそう思っているケースがあるという事で、そういう現実があるという事を理解し受け止める事は必須であると思う。

 

そういう報道がされた時、ただ「カルト」という三文字で済ませるのではなくて、そういう現実があるという事を真摯に受け止め、向き合う姿勢が今問われていると僕は思う。

 

そもそも、カルトにしろ宗教にしろ、偏った人たちというのは必ずいて、一つの団体をカルトと一括りにする事はたぶんできない。カルトと呼ばれる団体の中にも誠実に信仰と向き合っている人たちはいるし、世間的に真っ当な宗教とされている団体の中にも、カルトチックな人はいる。

 

「自分の感覚がどちらなのか?」を俯瞰的に見る事ができるバランス感覚は必要だけれど、そういう能力がある人たちはたぶん思いのほか少ない。

 

確固たる信仰信念を持っている人は素晴らしいけれど、それが本当に信念なのか、それとも忖度なのか、自分の我が生んだ固定概念なのかを判断できるバランス感覚は大切にしていきたいと自分自身思う。