離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

日々の生活と年祭活動と!!

 

僕が教会長の任命を受けてから7年目に突入した。

 

最初の3年か5年かはとにかく、一生懸命だった。自分の理想に向かって、ただ突き進んでいたように思う。

 

しかし、最近は、少し余裕が出てきたのか、あれこれと考える時間が前より増えたように思う。それを巷ではまぁ「慣れ」というのだろう。

 

結局のところ日々は同じ事の繰り返しで、その中で自分が求める理想と現実の剥離の大きさと中々縮まらない距離感に少し疲れ始めたのかもしれない。

 

とかく今、もっぱら感じる感情は疎外感や背徳感、罪悪感である。

 

たぶん人は、生きていく中で、「何か」が求める自分を演じている。その「何か」は例えば、社会だったり、会社であったり、家族であったり、友人であったり。

 

僕は教会長という立場で、その立場にいるからこそ求められる姿というのも必ずある。それは、教会本部であったり、大教会長であったり、信者であったり、自分であったり。

 

そして、そういう求められる姿と現状には必ず剥離が生じる。その剥離の中で生きているとやはり疲れる。そしてその疲れの原因は理想像による束縛なのだと気づく。そしてその束縛感が疎外感や背徳感、罪悪感をつれてくる。

 

【自分らしく生きる】というけれど、そもそも「らしさ」とは何なのか?誰が決めるのか?自分なのか?他人なのか?社会なのか?それとも僕たちの知らない何かなのか?その自分らしさはいつから「そう」なのか?「それ」は変わらないのか?そもそもそれは本当に自分らしさなのか?そんな答えの無いラビリンス的思考を巡らせている僕は恐らくかなり疲れている。

 

天理教の誰かが言っていた。「どんな事も喜びましょう」という言葉。この言葉を聞くたびに「そんな事は不可能だ。」と思うし、こういう安っぽく喜びを語る人を僕は信用しない。

 

人間には、悲しみや苦しみを感じる能力が備わっていて、それは創造主が「そう」している。それを感じる自由も与えられている。生きていれば苦しい事や悲しい事は起こる。それを受け止めて咀嚼し、乗り越えた時に人は生きている感動を感じる事ができるのだと思うし、それが喜びの本質であると思う。故に喜びを感じるまでのプロセスでは、悲しみや苦しみを感じるし、であるなら、どんな事も喜ぶというのは現実的に不可能だと思う。そういう不可能な事を強要するような事を言うのは一種のハラスメントだと思うし、僕はこれを喜びハラスメントと呼んでいる。

 

天理教内、おやさま140年祭に向かう3年千日がスタートした。こういう年祭が始まる度に、たすかる旬だとか成人の旬だとかこういう言葉が頻りに言われる。

 

じゃあ年祭以外はたすからないのか、と言われるとそうではないし、年祭以外は成人の努力をしなくていいのか、と言うとそうでもない。結局年祭で掲げられるスローガンやテーマはお道を通る者であれば、日々努力すべき事であるし、努力している事なのだ。ただ年祭を特別視するあまり、日々が疎かになる可能性は大なり小なりたぶんある。

 

そもそも神様にとって特別な年や日なんてものはたぶん無い。どんな日もどんな年も同じ心で見守り、導いてくれていると思う。その思いに応えるべく日々努力するのがこの道を通る者であると思うし、であるなら、どんな年もたすかる旬になるし、成人の旬になると思う。

 

特別な年だからたすかるのではなくて、親の思いに沿うからこそたすかる。この基本的原理原則からズレている感じが年祭活動に感じる違和感の正体だと僕は思う。

 

何はともあれ人間社会では、下々の者は上々の者に従うのは通例であるし、それは教内も然り。どんな違和感を感じようと、上が白と言えば白、黒と言えば黒なのであって、そこに贖う術はない。

 

ただ、もう少しだけ心穏やかに日々を送りたい。そんな事を思う今日この頃だ。