離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

出直しの世界観!!

皆さんこんにちは!!

 

久しぶりに備忘録を更新します。

 

今回のテーマは「出直しの世界観」です。

 

*注)あくまで個人的解釈による見解です。

 

よろしくお願いします。

 

天理教では人生の終焉をではなく出直しと説きます。これは終わりはではなく新たなはじまりという事だと思います。

 

天理教では身体かりものと説きます。神様からお借りしているもの。それが身体。ではその身体をお借りしているものは何なのか?これについては幾らかの解釈があると思いますが、僕はと解釈します。

 

は滅っしない存在。そしてその身体をお借りして、僕たちは人生を営んでいる。借りているものはいつかは返す日がくる。しかしはこの世に留まり、いつかまた身体をお借りする日がくる。これが出直しの世界観であると思います。

 

ある魂が身体をお借りして、この今という時代をとして生きています。なのではありません。ある魂と今世でお借りした身体僕(心)です。僕はそう解釈しています。

 

天理教はこの世界観をベースとして物事を見たり判断します。

 

この世界は理不尽に満ちています。環境、境遇、容姿。理不尽な事を挙げればキリが無いでしょう。しかし、今世だけを見て理不尽と感じる事でも、出直しの世界観で考えれば、それは理不尽な事では無いのかもしれません。

 

例えば今世、容姿端麗なAさんという人生を生きる魂は、容姿がイマイチだったBさんという人生を生きていた可能性がありますし、今世、お金持ちな家庭で生まれ育ったC氏の魂は、貧乏な家庭で生まれ育ったD氏という人生を生きていた可能性があるからです。

 

おさしづに

 

理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。

 

明治二十五年一月十三日 午後五時半

 

という一節があります。

 

環境も境遇も容姿もそれぞれの魂に丁度良いものを神様は与えられています。それは今世の中だけの事ではなく、出直しの世界観の中に於いても言える事だと思います。

 

僕たちの人生は今世で終わります。しかし、僕たちとして生きた魂は違う誰かとして再びその人の人生を生きる事になります。僕たちのこの今世での生き方が、に刻まれ、その魂が来世に生きる誰かの人生に影響を与える事になります。それは、僕たちの孫なのかもしれないし、ひ孫なのかもしれないし、全く違う誰かかもしれません。

 

ただ一つ確かな事は、今世の僕たちの生き方がその誰かの人生に与えるものは大きいという事です。

 

将来、子々孫々の世界を良きものにしたいなら、今、自分として生きている今世を未来の世界が良きものになるような生き方をしなければいけないと思います。

 

神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めんめん勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。

 

おさしづ 明治三十年十二月十一日より抜粋

 

後々の者が陽気に暮らせる通り方をお互いにしたいものですね。

 

 

 

 

戦争について思う事!!

皆さんこんにちは!!

 

チョー、スーパー久しぶりに更新します。

 

今回は、僕が思う平和と戦争観について綴ります。

 

これはあくまで、個人の価値観や考え方の話しである事を御理解頂き、また御理解頂ける方のみお読みください。

 

それではまいりましょう。

 

最近戦争のニュースが連日取り上げられています。

 

SNSでも平和を願う声や戦争反対の声を見かけたりします。

 

平和を願い、戦争反対の声をあげる事自体はとても素晴らしい事なのでしょう。僕も平和が一番だと思います。しかし、残念な事に戦争は起こります。

 

そもそも戦争は何処で常に起こっています。しかしそういう所に目を向ける人たちはごく僅かです。それはニュースにならないから。自分の周りが平和だから。

 

今回ニュースになったのは、それが世界情勢に大きな影響を与える事象だったから。だから多くの人たちが平和を祈り出した。でもそれはニュースになったから祈り出しただけ、ニュースになったから戦争反対の声を上げただけです。

 

僕たち信仰者は常に世界の平和を願い、祈っています。それでも戦争は起こります。それが戦争です。

 

戦争反対。戦争がニュースになると、よく見たり、聞いたりする言葉です。僕も戦争は反対です。しかし戦争をしないということは暴力(武力)を行使しないという事です。

 

例えばA国がB国を侵略する為に武力を行使したとします。この場合、B国が侵略を阻止する為に武力を行使すると戦争になります。つまり、戦争をしないという事は相手が武力を行使してきても、こちらは武力を行使しないという事です。守るべきものが暴力の危機に晒され時、それでも暴力を行使しないでいられる人がどれくらいいるでしょうか?僕はほぼ皆無だと思います。だから戦争をしない国日本にも自衛隊があります。そして、侵略する為の暴力もそれを阻止する為の暴力も暴力は暴力であり、その暴力のぶつかり合いは戦争です。

 

どの国も政治的采配の切り札として戦争というカードを持っています。高度に発展したこの令和の時代であっても、政治的采配において暴力という幼稚な手段を捨てられないところが人間の愚かさなのかもしれません。

 

ここからは更に偏見強めです。御了承下さい。

 

日本は平和な国です。世界でも類を見ないくらい平和な国かもしれません。こんな小さな島国が何処の国からも侵略される事なく、平和が保たれているのは、本当に凄い事だと思います。

 

では何故日本は平和なのか?

 

それはアメリカとズブズブだからです。アメリカがバックにいるからです。

 

日本は世界で唯一核兵器の犠牲になった国です。そしてアメリカは世界で唯一核兵器を実戦で使用した国です。世界に核兵器保有国は何ヵ国かあるけれど、実戦で使用した国はアメリカだけです。保有している事と実際に使用できるかはまた別の話しです。それくらい核兵器は非人道的兵器だからです。使われたらやり返すかもしれないですが、自ら使う事はまずしないと思います。でもアメリカは使います。過去に使っています。だから何処の国もアメリカを本気で怒らせたくはありません。核戦争になるからです。それがどういう結末になるか分かるからです。だからそのアメリカとズブズブの日本ともあまり関わりたくありません。だからアメリカとズブズブである間は日本は平和であると思います。

 

最後に戦争は愚かな行為です。それは誰もが分かっている事だと思います。それでも戦争は無くなりません。そこに正義という大義があるからです。しかし人命より重い正義などありません。正義は人に豊かさを与える為の概念だからです。

 

正義が正しく行われ、世界の戦争や紛争が治まる事を切に願います。

 

 

 

 

 

おつとめの太鼓は本当にうるさいのか?

皆さんこんにちは!!

 

めっきり秋らしくなってきた今日この頃。いかがお過ごしですか?

 

離島の働く教会長!!です。

 

今回のテーマは《おつとめの太鼓は本当にうるさいのか?》です。

 

ネットで天理教を検索するとおつとめの太鼓がうるさくて寝れないという意見を見かける事があります。確かに「うるさいだろうな〜」と思います。しかし寝れない程うるさいのか?と言われると「そんにうるさいか?」と思うのです。それは参拝場で居眠りをしている人を(たまに?)見かけるし、僕自身も(たまに?)居眠り(というかガチに寝てしまう)事があるからです。という事で本当におつとめの太鼓はうるさいのかを考察したいと思います。

 

日本の騒音に関する基準は環境省によって定められいます。その規定によると、

 

住宅地の騒音基準は昼間で55デシベル以下、夜間で45デシベル以下となっています。

 

これ以上は騒音ということです。

 

因みに全くの音が知覚できない無音状態を0デシベルとして、日常生活の普通の会話レベルの音量が60デシベルほど。 100デシベルを越えるとかなりうるさい音量となり、130デシベルを超える音量になると耳に損傷を与える危険性があるほどの大音量となるそうです。

 

ついでに騒音に関するわかりやすい表があったので貼っておきます。

 

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環境省の基準によると昼間は55デシベル以上、夜間は45デシベル以上で騒音になるわけですが、表を見ると日常で普通に会話する声量が60デシベルなわけですから、人間はそんなに大きな音でなくても騒音と感じるようですね。

 

さて、それではここから、おつとめの太鼓は騒音になるのか?を考察します。とは言っても、おつとめの太鼓の音が何デシベルくらいなのかが分からないので、今回は和太鼓の音を基準に考察します。

 

和太鼓をバチで思いっきり叩くと約130デシベルの音が出るそうです。はっきり言ってめちゃくちゃうるさいです。前述しましたが、130デシベルを超えると耳に損傷を与えるレベルらしいのでかなりの大音量ですよね。太鼓の大きさや太鼓までの距離で音圧は変わるから実際には多少レベルは低くなるとは思いますが、それでも、騒音と言っていいレベルだと思います。

 

結果、《おつとめの太鼓は本当にうるさい》という結論に至りました。

 

しかし、おつとめを止める事はできないですよね。それくらい天理教の信仰者にとっておつとめは大切であるし、大切にすべきものです。という事でここからは対策を考えていきたいと思います。

 

前述した通り太鼓を目一杯の力で叩くと約130デシベルの音がでます。しかしながら、これは目一杯叩いたらです。手加減して叩けばこれより低く抑えられるはずです。じゃあどれくらいの音量で叩けばうるさくないのか、基準としては、日常会話の音量が基準になってくると思います。

 

音は音源までの距離が遠くなればなるほど小さくなりますよね。音と距離の関係の表を貼っておきます。

 

f:id:Captainace:20210926074350j:image

 

上記の表を参考にすればどれくらいの音量で叩けばいいか感じが掴みやすいと思います。

 

例えば日常会話の声量レベルの音、60デシベルくらいで叩けば2m離れれば54デシベル、4m離れれば48デシベル、になるわけですから、そこまでうるさいと感じる音にはならないはずです。

 

太鼓のサイズを小さくするという方法もありだと思います。特に大きい教会は太鼓のサイズもめちゃくちゃ大きいです。だから音も必然的に大きくなるし、手加減して叩いてもそれなりの大きな音は出るわけですから、騒音になる可能性は高いですよね。

 

おつとめをするのに、大きい、小さいはあまり関係ないと思いますし、太鼓のサイズを小さくするのはありだと思います。

 

住宅が密集している地域にある教会や都会に在る教会は既におつとめ時間を朝は遅く設定したり、夕は早く設定したり、太鼓は小さく叩くなどの対策を既にされていると思います。それでもやはり「うるさい」と苦情がくるのは、本当にうるさいわけではなくて、不気味だからだと思います。宗教の理解不足や偏見から些細な音などが不気味に感じるのだろうと思います。しかし、この不気味さは宗教である限り払拭できないと思います。というか宗教でなくても人間は知らない事やよく分からない事を不気味に感じるものです。だから本当にうるさいのではなくて、不気味だから止めてほしいが本音だと思います。もちろん、本当にうるさいと思われているケースもありますので、近隣住民への配慮は怠る事なく、不快感を与えない努力はするべきだと思います。

 

最後に、教会近隣に住む方々へ。

 

天理教のおつとめは自分ではない誰かの幸せやたすかりを願ってつとめられています。それは世界平和であったり、病気の平癒であったり。

 

おつとめは天理教信仰者の生活の芯です。不気味であるとは思いますが、ご理解の程を心よりお願いして終わりとします。

 

離婚について思う事!!

 

今回は離婚について思う事を備忘録として綴ります。

 

多様性が認められ、個人の自由な生き方が容認される現代社会。それは同時に、協調性を低下させ、周りの人達との関係性を気薄にしているように感じる。それは家族、夫婦にも言える事で、核家族化が進み、離婚に対する抵抗感が減少しているのもそういう要因が少なからず反映されているのではないかと思う。

 

確かに、多様性が認められる社会は素晴らしいと思う。ただ、それと個人を尊重する事はまた別の話しで、自由に生きれる社会は逆に言うと周りを無視している社会と言えると思う。

 

他人の都合など考えず、自分の都合だけで生きていく社会。確かに、見た目は生きやすいように見えるけれど、この世は自分一人で生きていける程甘くはないし、そもそも自分一人が生きているわけでもないから、他人と関わらずに生きていく事などできない。だから人間はコミュニケーション能力を高度に発達させて、複雑な意思疎通ができるようになったのだと思う。

 

人間はみんなそれを知っている。理解しているというより本能として染み付いているんだと思う。だからこそ、結婚しなくても幸せになれる現代であっても結婚したい若者が多いのだと思う。

 

人間において結婚とは単に種を保存するだけがその目的ではないと思う。特に高度に発達、発展した現代社会では、生きていく上での問題も複雑化しているし、そういう中で精神的支えになってくれる存在の有無が人生に及ぼす影響は大きいと思う。

 

この世界には約77億の人間がいて、その中からたった一人のパートナーと呼べる人と巡り合うのだからそれだけでかなり凄い事だと思う。更に高度な知能を持っている人間はその他の動物のように見た目だけで判断するわけではない。人間性や収入額、またそれだけでは計れない様々な要素を考慮し、更にその自分の条件に合った人、また比較的近い人の合意を得るわけで、お互いに合意が成立する相手と巡り会う確率を考えると本当に奇跡的な事だと僕は思う。

 

にも関わらず、少しのすれ違いやちょっとした価値観の違いで簡単に離婚してしまうのは、とても勿体ない事だと僕は思う。

 

(全ての離婚を否定しているわけではありません。)

 

特に昨今、熟年夫婦が離婚するケースが多い印象であるけど、何十年も一つ屋根の下で同じ時代を生きて、辛い事や嬉しい事を共に分かち合ってきたはずなのに、その時間を上回る離婚を決断させるものとはいったい何なのか僕には見当もつかない。

 

確かに人生いろいろで人間もいろいろあるから、その夫婦の事情もいろいろあるのだろうけど、人間みな完璧ではないのだから過ちだって犯すし、思っていたのと違う事もあるだろうし、それを何十年も許容してきて、今更離婚もクソもないだろうと思ったりする。

 

するんならもっと早い段階で離婚するべきであるし、それより一緒に共有してきた時間の方がどんなものより尊いはずであるし、一生のうちでそういう存在に出逢えた事が何より尊いと思う。

 

子どもが居るから離婚を躊躇うなら、たとえ子どもがいくつになろうと離婚するべきではない。その子どもが自分が親の人生を縛っていると思った時点で罪悪感を感じるし、それは成人していようといまいと感じるもので、何より何の罪もない子どもをその原因の所在とする事が大人としてやってはいけない事だと思う。

 

結局のところ何を理由にしても、自分の都合なわけで、本当に子どもの事を考えるなら離婚しない一択しかないし、離婚する人は子どもの事より自分の人生を優先している。もちろん人間なのだから自分の人生を優先する事は当たり前であるし、悪い事ではないけれど、そうであるなら子どもの存在が足枷になっていると感じさせるような発言はするべきではない。

 

もちろん離婚して幸せになれる人もいるし、実際幸せな人も知っているけれど、もう少し結婚するという事、結婚したという事熟考してもいいのではないかと思う。

 

それくらい結婚が尊い事であってもいいと僕は思う。

 

 

 

よふぼくであるという事!!

 

 

天理教御守護と言われる姿はいろいろにある。

 

今、続いているはもちろん御守護なのだけれども、その中で起こってくる病気やトラブル、一般的にと認識されている出直しも全て御守護の姿であると思う。何故ならそれら全てが親神様御守護の中で起こってくるからだ。

 

しかしながら、僕たち人間は自分たちの都合の良いものだけを御守護と認識する。

 

晴れて欲しい日に晴れたら御守護。

 

雨が降って欲しい日に雨が降ったら御守護。

 

トラブルが解決したら御守護。

 

治癒してほしい病気が治癒したら御守護。

 

そして、治癒しなくてもそれもまた御守護。

 

おさしづ

 

明治二十三年七月七日 午前十時半

家庭ー医療
前おさしづに基き願

 

さあ/\難しい事は一つも無い、難しい事を言うやない。よう聞き分けにゃならん。どういう事もこういう事も、人間心を以て難しいように仕掛けて来る。何処そこでそら今やならん。元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教には無いで。元々医者にも掛かり、薬も呑み、医者の手余り救けようというは、誰にも医者に掛かる事要らん、薬呑む事要らんというは、どっから出たのや。手余りを救けるのは誰も何とも言うまい。

 

本来、よふぼく親の名代たる役割を担う者であると思う。そしてその定めた心さづけの理が許されている。

 

この理は病だすけ(病気の平癒)の為の効能の理であるから、病気のに取り次ぐ事が本来の目的であるのだけれど、病気の平癒だけを目的として下附されているわけではないから、乱用し過ぎるのも僕は違うと思う。

 

もちろんどんな病気であれ、まずおさづけを取り次ぐという精神は素晴らしい事であるけれど、この令和の時代、医学や薬学も不可能な事は無いと思わせる程、進歩しているのだから、それらで十中八九平癒するのであれば、大いに活用すれば良いと思うし、重要な事は心の成人であるのだから、医者や薬がその為の一助となるなら、寧ろ活用すべきだと思う。

 

どんな病気にもおさづけは有用だと思うけれど、真骨頂はやはり医学で平癒が見込めない病気の平癒であると僕は思う。その事により神の存在を知らしめ、神意に気づかせ、心の成人を促す事が本来の目的であると思うからだ。

 

しかしながら、これは一種のギャンブル的要素も秘めている。何故ならそれは神の領域で人間にはどうする事もできないからだ。

 

神に自分自身(取次ぎ人)の全てを捧げる事ができるかどうかが現れる結果(御守護)を左右するという事になるのだけれど、それができているかどうかをジャッジするのはで人間では無い。故にここまでやればいいという事は無いし、これをやれば大丈夫なんてものも無い。

 

このギャンブルには必ず勝たねばならない。負けは神の存在を否定する事になるからだ。取次ぎ人は、発言した事は必ず実現させなければならない。たすかる(平癒する)と言ったなら、必ずたすからないといけないのだ。

 

たすかる(平癒する)と言ったのに、たすからなかった(出直した)のは、完全に取次ぎ人の力不足で、それを出直しも御守護なんて言葉で片付けるのは、ただの甘えである。

 

そんな甘えた奴は、布教師(おたすけ人)ではなく、ただのペテン師であると言っても過言ではないと思う。

 

この世界で見えてくる事象は全て御守護であるけれど、よふぼくであるなら、神の存在を知らしめる御守護を引き寄せられなければならないし、自分自身そうで在れるよう日々精進したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結果こそ全て!!

 

人間世界は結果が全てだ。

 

どんな業界であれ、結果が出ない人はクソなのである。それは天理教においても当てはまる。

 

持て囃されのは結果が出ている人間だ。それは目に見える何か、例えば数字であったり、状況であったり、そういう要素が分かりやすく現れている人たち。それ以外の人間は見向きもされない。喩えどんなに誠実に頑張っていても。

 

メディアで取り上げられるのは往々にして、結果が出ている人たちだ。

 

それはこの世界で生きる人間の大多数が結果を欲していて、どうすれば結果が出るのかを知りたいから。極端に言えば、最短で楽に結果を出したいからだろう。

 

だからこそ、結果が出ている人たちのノウハウを知りたがる。そのノウハウを実践すれば結果が出ると思っているから。

 

しかしながら、そう上手くいかないのもまた世の中である。

 

何をすれば結果が出るとかそういうものはたぶん無い。もちろんA地点に行きたいのにB地点に向かって走る、みたいな突拍子もない努力で結果が出ないのは当たり前の事であるが、A地点に向かって走っているのであれば、必ずA地点に到着すようにこの世界はなっている。

 

ただ、状況や環境は人によって違う。比較的平坦な道の人もあれば、かなり急な登坂の人もいるし、ジャングルのような険しい道を行かなといけない人もいる。追い風の人もいれば、前に進めない程の向かい風の人もいるし、横風に煽られて上手く歩けないなんて人もいるだろう。

 

よって必然的にそこに辿り着くまでの労力も変わってくる。

 

はっきり言って理不尽である。しかしながら、その理不尽を嘆いたところで状況は変わらない。僕たちにできるのは、行くか行かないかの選択実行だけだ。

 

結果がなかなか出ない人が比較的容易に結果が出た人にアドバイスを求める。はっきり言ってあまり意味は無いと思う。何故なら道のり自体が違う可能性があるからだ。野球選手がサッカー選手に技術的アドバイスを求めるようなものだろう。

 

あと《何をやっているか、何をやったのか》という質問も無意味だろう。そのやった事自体はあまり重要ではないのだから。

 

そもそも論として結果は必ず出るようになっている。結果が出ない人の最大の原因は結果が出るところに到達していないから。ただそれだけなのだ。進むべき方向が間違っていないなら結果は必ず出ると僕は思う。

 

ただ、結果が出るまでやり続けられるかは分からない。様々な事情で続けられない、断念しなければならない事も往々にして起こってくるからだ。

 

最も大切な事はやり続ける事だ。その為に必要な事はモチベーションの維持である。なので、なかなか結果の出ない人はなかなか結果は出ないけどやり続けている人にアドバイスを求めるべきであると思う。何をやったか、やっているかはそこまで重要ではない。どうモチベーションを維持しているかが最も大切な事で、その方法を彼らは知っているから。正解に言うと、凹んだ時の上げ方、リカバリーの仕方を知っている。

 

神様の世界はおもしろいもので、神様は結果を求めてはいない。求めているものはプロセスでその為に目指すべきものを与えている。

 

神様の世界において、人間が求める結果は人間の努力だけでどうこうできるものではない。だからこそ結果が求められる。そこがある意味プロセスのバロメータになるからだ。だからといって結果を求め過ぎると結果は出ない。何故なら神様の求めるものはそこではないから。結果を求めずして結果を出す。結果を求めないからこそ結果が出る。何とも凄い世界だとしみじみ思う。

 

最後に重要なのは結果よりプロセスなんて人がいるが、そんなものはただの甘えである。何故なら結果が出るからこそ、その道のりはプロセスになり得るのだから。結果の無いプロセスはもはやプロセスでは無いし、プロセスとは言えない。

 

結果が出るからこそプロセスはプロセスとなり得るのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

婚活について思う事!!

皆さんこんにちは!!

 

離島の働く教会長!!です。

 

チョ〜久しぶりにブログを更新する事にします。テーマは《婚活について思う事!!》です。これから綴る事はあくまで個人の見解であるという事をまずご了承ください。

 

それでは Let's get started!!!

 

皆さん、結婚していますか?

もし結婚しているのであれば、それは本当に素晴らしい事だと思います。

 

2021年現在、世界人口は約78億7,500万人、日本の人口は約1億2,713万人とされています。

 

ある統計では、人一人が一生のうちに出会う人の数は、何らかの接点を持つ人が3万人。 そのうち近い関係(同じ学校、職場、近所など)が3000人。さらにそのうち親しく会話を持つのが300人。友人と呼べるのが30人。親友と呼べるのが3人。だそうです。

 

単純に男女を半分に分けて、世界には39億3750万人の異性がいて、日本には6356万5千人の異性がいる事になりますよね。更にそこから何らか接点を持つ、つまり出逢う可能性のある異性を1万5千人とすると一生のうちに出逢う女性との出逢う確率は、約0.0004%

更にその中から結婚する確率は、約0.007%になるわけですからもうこれは所謂《奇跡》と言っても過言ではない確率だと思います。

 

因みに、日本人口のみでも、女性と出逢う確率は約0.02%となります。

 

実際、《性の多様性》や諸々の複雑な要素があるので、こんな単純には計算できませんが、それらの要素を加味しても、十分奇跡と言える程の確率になるとおもわれます。

 

因みに、東大に合格する確率は約0.12%だそうです。結婚は東大に入るより狭き門なのですね。

 

もし、あなたが既婚者であるなら、出逢えた《奇跡》に感謝して、パートナーを大切にしてあげてください。

 

さて、ここから本題に入ります。

 

僕は独身で絶賛婚活真っ最中です。婚活をしていて思う事があります。それは女性が圧倒的に有利だということです。特に教内の婚活イベントにその傾向は顕著です。

 

婚活イベントに参加する一番の理由は出逢いが無いからです。しかし、この出逢いが無いという感覚が男性と女性で大きく違います。

 

男性においての出逢いが無いは、キャンプで喉が渇いてクーラーボックスを開けたけど、飲み物が全くないという状況と同義です。つまり、女性と出逢う機会が全くないのです。

 

女性においての出逢いが無いは、キャンプで喉が渇いてクーラーボックスを開けたけど、飲みたい物が無いという状況と同義です。つまり、男性と出逢う機会はあるけど、好みの男性が居ないのです。

 

婚活イベントに参加している男性の心情は、《クーラーボックスが空っぽだったから他のクーラーボックスを探して開けた》時と同じで、女性の心情は《クーラーボックスに飲みたい物が無かったから、隣のクーラーボックスを開けた》時と同じです。

 

女性の方が圧倒的に選択肢が多いのです。この精神的余裕は大きなイニシアチブになります。

 

婚活イベントでは、男性にアプローチするよう促す場合が多いですが、結局のところ女性が受け入れるか受け入れないかで全てが決まるので、女性にアプローチを受け入れるよう説得する方が、カップルになる確率は上がると思います。

 

そもそも婚活イベントに参加してアプローチしないような男はオワコンです。もし結婚したいけどアプローチできないのなら、結婚は諦めてください。掴みにいかない奴が掴める程、世の中甘くはありません。ごく稀に《結婚する気はないけど、周りに勧められてしょうがなく参加した》みたいな人もいますが、そんな奴は来ないでください。あなたが参加した事により結婚したい人の参加枠が一つ減っています。婚活イベントは《結婚したい人の為》に開催されています。結婚に興味が無い人が来る所ではないし、そういう人を参加させる周りの人達も本人達は善意のつもりなのでしょうが、その善意でチャンスを摘み取られている人も必ずいるし、そもそも自分の意思で選択、決断できない男性はもう本当にオワコンです。

 

あと彼氏や気になる男性がいるにも関わらず、参加している女性。これは本当に意味がわかりません。一体何しに来たのでしょうか?冷やかしですか?どんな感情で参加しているのでしょうか?サイコパス感強いし、意欲が削ぎ落とされるので、本当にやめてほしいと思います。

 

最近は、ZOOM開催の婚活イベントが主流になっていますが、あれは難しいです。そもそも初対面の人と画面越しに5〜10分そこそこ話ししただけで、何が分かるというのでしょうか?

 

最後に、婚活イベントに参加する人、特に男性は《結婚したいけど、出逢いが無い》人達、つまり結婚において追い込まれている人達なのに、イベントの雰囲気はどれも和やかになりがちです。もっとこう激った感じになってもいいと思うし、そういう演出をしてもいいと思います。東大に入学するより狭き門なわけですから、奪い合う戦さ場のような熱い婚活イベントがあれば面白いのになぁと思う今日この頃です。