離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

教会の存在意義!

 

天理教において教会の存在意義は何なのだろうか?

 

と考えた時それは人それぞれに色々な見解があると思う。それはおぢばの出張り場所であったり、おたすけ道場であったり。

 

それらには全てそういう側面があって、確かにそうなのだと思う。ただ、教会設置においての歴史的背景を考慮する時、最大の意義は信仰的活動の円滑性を高める為であると思う。

 

教会は必要なのか?と聞かれてどう答えるか。僕なら不必要ではない。と答える。この意味は、必要ではあるが、必要以上に要らない。という事。もっと言いえば、教会は必要と思われてこそその存在が成立するという事。

 

おやさまは教会設置に反対だったのだから教会は必要無い。

 

と主張する人たちがいる。確かに、そういう歴史的背景はあるけど、最終的には許可しているのだから、それだけの理由で必要無いとするのは暴論だし、

 

教会を設立する事で親神様、おやさまに喜んで貰える

 

とするのも、信仰的活動の円滑性を高める事を存在意義とするなら、悪戯にただ数を増やす事がそこに繋がるとは言えない。

 

もちろん教会設立は簡単では無いし、教会は必要だから設立されのであると思う。そこには先人、先輩方の意志や思いがある。ただそういうのは時代背景や時代的ニーズが大きく関与しているのだと思う。時代は変わるし、それに伴いニーズも変わる。それによりその役目を終えているにも関わらず、ただ維持する事に躍起になって本来の役割を果たせていなかったり、そこに繋がる人々の生活に何かしらの悪影響を与えているのなら、その教会の存在意義は皆無だと思う。

 

もちろん現代においても教会が全く必要ないという事は無い。ただ必要以上にある事によって起こる弊害はある。

 

例えば、最近はじまった諭達巡教と呼ばれる催しにしても、大教会に本部から講師が派遣されて、そこに繋がる直属、部内の教会の人たちも参加して、話を聞いて、そのあと大教会から直属に講師が派遣されて、話を聞いて、そのあと部内教会にも講師が派遣されて話を聞いて、組織の下位教会になればなるほど、同じような話を2回も3回も4回も5回も聞かされる。

 

同じような話しをしてくれるのならまだしも、人によっては全く違う話をする場合があって、誰に合わせるのか?となった時、やっぱり本部だよね。という事になる。

 

そうなると、いやそうならなくても、本部から派遣された講師の話1回で事足りる。時間は有限。その有限な時間を悪戯に奪うようなシステムの必要性は皆無。信仰は効率を追う事に終始するべきではないが、使わないで済む労力や時間を使う必要もない。

 

そもそもこの令和の時代、動画配信やSNSなどのテクノロジーは目覚ましい発展を遂げているのだからわざわざ出向く必要性は昔に比べればかなり低い。出向いても出向かなくても聞く人は聞くしやる人はやる。逆もまた然り。

 

一昔前と比べれば、コミュニケーションも意思疎通も簡単にできるツールがあって、それを上手く使う事によって、信仰的活動の円滑性を高める事が可能ならば、教会という場所の必要性は確実に低くなっていると思うし、そう考えるなら、教会整理、名称返納という流れは自然の理(ことわり)においても必然だと思える。

 

ただそれを判断する自由の所在が何処にあるのか。本部なのか、大教会なのか、上級教会なのか、自分たちなのか。

 

とかく、教会の存在の是非が必ずしもその意義に全て帰依するものでは無いという現実が、教会の必要性をより曖昧なものにしているのかもしれない。

 

ただその存在によって苦しむ人たちがいるのならその必要性は皆無だと思う。