分かち合う人へ!!
皆さんこんにちは!!
もうすぐは〜るですねぇ
恋をしてみませんか〜
寒波の到来に僕の身にも心にもまだまだ春は来そうにないと感じる男!!
離島の働く教会長です!!
先日、ほこりまみれさんのラジオを聴きました。題して天理教で人生を攻略するラジオ!!
テーマは《人に物を盗られる喜び》
何とも斬新なテーマです。内容も凄く面白かったので興味のある方は是非聴いてみて下さい。
リンクを貼っておきます。
https://note.com/jinsei_kose/n/ne26cc6451453
このラジオを聴いていて、内容はとても面白かったのですが、考え方や解釈は《僕とは違うな〜!!》と思ったので、今回は僕の現時点での考え方や解釈を備忘録として綴る事にします。
※ この記事はほこりまみれさんのラジオを否定するものでも、僕の考え方や解釈が正しいと主張するものでもありません。考え方や解釈は逸脱しない限り、どんなものがあってもいいと思います。なので、一つの考え方としてご理解いただければ嬉しいです。それでも私は熱狂的ほこりまみれ信者だという方はここでこのブログをそっと閉じる事をお勧めします。
天理教教祖傳逸話篇
【39 もっと結構】
明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。
お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。
弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。
ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。
弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結構でございました。」と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、
「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」
と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。
では先ず解釈の違いから。
ほこりまみれさんはラジオの中で上記の逸話から喜んで人に物を盗られる事を神様は喜ばれるという解釈をしていたと思うんですけど、僕はこの逸話だけで、そう解釈するのはちょっと無理があるように思います。そう思える程おやさまが放った御言葉に含みや曖昧さを感じるからです。
「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」
この御言葉は余白が多いですよね。つまり、これは思案を促す意味で放たれた御言葉であって、この御言葉の表面的に意味する事がおやさまが本当に言いたかった事ではないと僕は推察します。
実はこれとほぼ同じシチュエーションでおやさまの対応が全く異なる逸話があります。
天理教教祖傳逸話篇
【114 よう苦労してきた】
泉田籐吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出遭うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、
「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」
と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。
シチュエーションはちょっと違うけど、自分の物を盗られそうになった、けど盗られなかったという内容は同じです。でもおやさまの対応は全然違いますよね。
西浦弥平さんと泉田籐吉さん。この二人の違いは何だったのか?それは心ですよね。盗られる事を阻止しようとして盗られなかった事を喜んだ弥平さん。盗られる事を受け入れて差し出した藤吉さん。この二人の心の動きの核となる要素はかしもの、かりものの教えが心に治っていたか、いなかったかであると思います。
おやさまが弥平さんに放たれた
「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」
という言葉。これは盗られなかった事が結構ではないという事ではないと思います。盗られなかった事はそれはそれで結構やった。でもほしい人に貰ってもらった方がもっと結構やないかという事だと思います。この場合、盗られた、盗られてないというところはそんな問題ではなくて、自分の物を盗られなかった弥平さんのその喜ぶ心を戒められた言葉なのだと思います。
「その心遣いは違うで、そうやないで」
という事だと僕は解釈します。
次に考え方ですが、ほこりまみれさんはラジオの中で、世の中には、
Taker(テイカー)
自分の利益を優先させる人。与えるより受け取る方が多くなるように行動する。
Giver (ギバー)
自己犠牲を払ってでも他人に対し惜しみなく与える人 ⇒見返りを求めない
Matcher (マッチャー)
損得のバランスを考える人。相手によって自身のスタンスを変える。
の三種類の人間がいると言っていました。このTaker,Giver,Matcher は心理学用語ですよね。
心理学では最も豊かな人生を送れるのは、Giver だとされています。しかし、自己犠牲を伴うgiveは他人(ひと)に侮られやすく逆に人生の質が落ちるとされていて、自己犠牲を伴わない程度に与えるのが最も人生を豊かにするとされています。
ほこりまみれさんはこの定説を覆して、自己犠牲を伴っても与える事が最も人生を豊かにするんだと主張されてました。
これは僕の考え方ですが、そもそも天理教の思想の中では、Taker,Giver,Matcher という概念は成立しないと思っています。それはその概念に自分のものという前提の思考があるからです。かしもの、かりものという思考が前提にある天理教を、Taker,Giver, Matcher という概念を当てはめて説明するのは無理があると思います。自分のものではないものを与える事も奪う事もできないからです。
もちろん分かりやすく説明する為に敢えてそういう表現を用いたという事は理解しています。
かしもの、かりものの世界で僕たち人間が出来る事はただ一つ、Share(シェア) 《共有》です。僕たち人間は借し与えられているものを共有する事しかできないと思います。
この共有において《如何に惜しみなく共有できるか》が、人生を豊かにするポイントであると思うし、お道の教えを知っている者たちが目指すべきところだと僕は思います。
僕たちはTaker でもGiver でもMatcher でもなく、どこまで惜しみなく共有できるSharer (シェアラー)を目指すべきなのではないかと思います。
ただこのかしもの、かりものの教理を心に治めるのは並大抵ではないと思います。藤吉さんは心に治っていたからこそ咄嗟の出来事においてもその実践ができたのでしょう。おやさまはそんな藤吉さんに
「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」
と労いの御言葉に加え、おさづけの理までお渡しになっています。如何に藤吉さんが日々おやさまの御言葉を実践し、心の成人に努力されていたかが推察できるエピソードであると思います。
僕もおやさまに《よう苦労してきた》と労ってもらえるような分かち合う人を目指して日々精進です。
終