よふぼくであるという事!!
天理教で御守護と言われる姿はいろいろにある。
今、続いている生はもちろん御守護なのだけれども、その中で起こってくる病気やトラブル、一般的に死と認識されている出直しも全て御守護の姿であると思う。何故ならそれら全てが親神様の御守護の中で起こってくるからだ。
しかしながら、僕たち人間は自分たちの都合の良いものだけを御守護と認識する。
晴れて欲しい日に晴れたら御守護。
雨が降って欲しい日に雨が降ったら御守護。
トラブルが解決したら御守護。
治癒してほしい病気が治癒したら御守護。
そして、治癒しなくてもそれもまた御守護。
おさしづ
明治二十三年七月七日 午前十時半
家庭ー医療
前おさしづに基き願
さあ/\難しい事は一つも無い、難しい事を言うやない。よう聞き分けにゃならん。どういう事もこういう事も、人間心を以て難しいように仕掛けて来る。何処そこでそら今やならん。元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教には無いで。元々医者にも掛かり、薬も呑み、医者の手余り救けようというは、誰にも医者に掛かる事要らん、薬呑む事要らんというは、どっから出たのや。手余りを救けるのは誰も何とも言うまい。
本来、よふぼくは親の名代たる役割を担う者であると思う。そしてその定めた心にさづけの理が許されている。
この理は病だすけ(病気の平癒)の為の効能の理であるから、病気の人に取り次ぐ事が本来の目的であるのだけれど、病気の平癒だけを目的として下附されているわけではないから、乱用し過ぎるのも僕は違うと思う。
もちろんどんな病気であれ、まずおさづけを取り次ぐという精神は素晴らしい事であるけれど、この令和の時代、医学や薬学も不可能な事は無いと思わせる程、進歩しているのだから、それらで十中八九平癒するのであれば、大いに活用すれば良いと思うし、重要な事は心の成人であるのだから、医者や薬がその為の一助となるなら、寧ろ活用すべきだと思う。
どんな病気にもおさづけは有用だと思うけれど、真骨頂はやはり医学で平癒が見込めない病気の平癒であると僕は思う。その事により神の存在を知らしめ、神意に気づかせ、心の成人を促す事が本来の目的であると思うからだ。
しかしながら、これは一種のギャンブル的要素も秘めている。何故ならそれは神の領域で人間にはどうする事もできないからだ。
神に自分自身(取次ぎ人)の全てを捧げる事ができるかどうかが現れる結果(御守護)を左右するという事になるのだけれど、それができているかどうかをジャッジするのは神で人間では無い。故にここまでやればいいという事は無いし、これをやれば大丈夫なんてものも無い。
このギャンブルには必ず勝たねばならない。負けは神の存在を否定する事になるからだ。取次ぎ人は、発言した事は必ず実現させなければならない。たすかる(平癒する)と言ったなら、必ずたすからないといけないのだ。
たすかる(平癒する)と言ったのに、たすからなかった(出直した)のは、完全に取次ぎ人の力不足で、それを出直しも御守護なんて言葉で片付けるのは、ただの甘えである。
そんな甘えた奴は、布教師(おたすけ人)ではなく、ただのペテン師であると言っても過言ではないと思う。
この世界で見えてくる事象は全て御守護であるけれど、よふぼくであるなら、神の存在を知らしめる御守護を引き寄せられなければならないし、自分自身そうで在れるよう日々精進したい。
終