離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

親神様は全知全能の神なのか?

皆さんこんにちは!!

 

今回は、親神天理王命はどんな神様なのかを考えていきたいと思います。

 

題して 親神様は全知全能の神なのか? です。

 

よろしくお願いします。

 

目次

 

 

親神天理王命

 

僕たち天理教の信仰者が崇拝する神様、親神天理王命 。この世と人間を御創造され、日々絶え間なく御守護下されている 元の神、実の神 であらせられます。僕たち信仰者は、人間を御創造された元の親なる神という親しみを込めて、親神様 とお呼びします。

 

普通に考えれば、この世と人間を御創造されている神様ですから、全知全能(全てを知り尽くし、行える)の神 と理解して間違いないと思います。ただ、天理教の三原典(みかぐらうた、おふでさき、おさしづ)には 親神様 が ジレンマ を感じているような表現が多くあります。全知全能の神であれば、ジレンマを感じる必要はない気がします。では何故三原典にはジレンマを感じているような表現があるのかを考えていきたいと思います。

 

キリスト教との比較

 

天理教一神教です。正確に言うと神様は二神おられます。くにとこたちのみこと と をもたりのみこと です。しかしながら、天理教には二つ一つという基本概念がありますので、くにとこたちのみこと と をもたりのみこと で一神と考えるのが、自然だと思います。

 

一神教と言えば キリスト教 ですよね。世界で最も有名な一神教の宗教です。キリスト教 の神様は ヤハウェ と言われる唯一神です。キリスト教 天地創造の話 創世記 では、唯一神 ヤハウェ  が天地を創造し、最初の人間、アダムとエバを創造するまでに要した時間は僅か6日です。その方法も正に全知全能の神と呼ぶに相応しい圧倒的な力によりなされています。

 

天理教の世界創造の話「泥海古記」では、くにとこたちのみこと と をもたりのみこと は人間創造に際して、かなり苦心をされた様子が描かれています。先ずうお み を説得し、男と女の雛形とし、しゃち、かめ、うなぎ、かれい、くろぐつな、ふぐを呼び寄せ承知をさせて貰い受け、食べてその心根を味わい、道具として うお と み に仕込み、泥海の中にいた どじょう を皆食べて人間の種とし、九億九万九千九百九十九人の子数を三度宿し、全て出直し、虫、鳥、畜類など八千八度の生まれ変わりを経て、女猿が一匹残り、だんだんと増えていく。どの段階から人間と呼べるのかは曖昧ですが、人間が陸上で生活するまでに九億九万年掛かっています。

 

教えも世界観も違うので、単純に比較する事はできないですが、キリスト教 の ヤハウェ が唯一無二の絶対的な力で世界を創ったのに対し、親神様 は絶対的な存在ではありますが、何か試しながらというか試行錯誤して世界を創造したような感じです。 「親神様 でもどうにもできない領域があるのではないか」と思えるような印象すら受けます。

 

神様の領域と人間の領域

 

天理教では、神様の領分と人間の領分を弁える事が大切だと言われます。つまり神様の働きと人間ができる事の境界線があるというイメージがあるという事だと思います。そこに 親神様 がジレンマを感じる部分が何なのかが分かる手掛かりがありそうです。

 

僕の仮説ですが、 僕たち人間は、親神様 の創られ守護される理の世界にいます。この理の世界には 親神様の領域  人間の領域 がありそれが交わる領域 絶対領域 が存在するのではないかと思います。絶対領域 とは、神様の働きが人間の働きに影響を与える。人間の働きが神様の働きに影響を与える領域であると考えます。

 

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陽気ぐらし は神様の領域だけで成就するものでも人間の領域だけで成就するものでもなく、神様の働きと人間の働きがお互いに影響し合って成就するものだと考えます。

つまり、絶対領域 こそ 陽気ぐらし の味わえる領域であると考えます。

 

この 絶対領域 に到達する理(法則)を解き明かされているのが教えであり、その実践が「おやさまのひながた」であると考えます。

 

絶対領域 は 親神様の働きが人間の働きに影響を与える領域  つまり、この領域にない人は 親神様の力 が及ばない領域にいるという事になります。親神様は全ての人間に「陽気ぐらしをさせてやりたい= たすけたい」と思われています。しかしながら力及ばない領域にいるものはたすける事ができないという事。これが 親神様 がジレンマを感じているものの正体だと僕は思います。

 

親が離れているところにいる子供を呼び寄せる為に「おいで」と言って手を広げる。その呼び主を親と認識し、信頼している子供は近寄っていきます。親は子供が近寄って来てはじまてその子供を抱きしめる事ができるわけです。

 

しかし、近寄っていくかどうかは子供の判断に委ねられます。親だと認識していない子供や認識していても信頼していない子供は近寄っていかないでしょう。

 

人間ならば親から近寄っていけば良い話ですが、神様と人間はそうはいかないのだと思います。その理由はやはり「理」の働きだと思います。親は子供の近寄ってくるのを待つしかない。それが 親神様 と 人間 の間にある「理」なのだと思います。

 

よふぼくの役割

 

よふぼくの役割は 絶対領域 にない者をそこに誘う事だと僕は思います。親神様 の存在と親心を教え、親神様 がたすける事ができる領域まで誘う事、親は近寄ってくるのを待つことしかできない、だからこそ親を認識し信頼している者が親の代わりに親をまだ知らない者のところへ行き、誘う必要があるのだと思います。

 

最後に

 

今回は 親神様は全知全能の神なのか? というテーマで思案を深めさせていただきましたが、全創全知の神 ではあるけど、全知全能の神 ではない。それが僕の見解です。親神様 は全てを創り、全てを知っているけれど、力の及ばない領域があると僕は考えます。

 

何故そのようにしたのか?

 

それは子供を信じる親心だと僕は思います。

 

「いつか必ず親の思いを理解し、陽気ぐらし世界を実現してくれると信じている。」

 

その親心に応えることができるよう、日々成人できる自分でありたいと思います。

 

ありがとうございました。