離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

信仰的意義付け!!

新型コロナウイルスの蔓延により、人間が密集する行事を自粛する風潮が強まりをみせる時世により、その社会的責任をとる形で教内でも本部や各教会での行事は軒並み中止になっている。その中にあって僕の直属の大教会は青年会総会を挙行するようだ。

 

しかしながら正直この時世下にあって、この取組みに対する僕のモチベーションは皆無である。

 

大教会の月報におふでさきを引用して「この時世だからこそおつとめを務めなければならない。だから青年会総会をやるんだ!!」という言い回しの文章を見かけた。しかしながら、おふでさきにおいてのつとめがさすものはかぐらづとめであると僕は解釈している。

 

そもそも信仰的にかぐらづとめと各教会で務められるおつとめ別物と考えるべきであろう。ましてや青年会総会で務められるのはおつとめまなびである。これらを同一と認識する事は味噌と糞を同一に認識する事と同義である。

 

おつとめはたすけを求めてつとめられるものである。その点においてはかぐらづとめも各教会で務められるおつとめも個人で務めるおつとめもその理はなんら変わらないと思う。しかしながら、その根底にある位置付けは雲泥の如き差がある事を信仰者はまず心得なければならないだろう。そして全てのおつとめの根源はかぐらづとめだという事。この事実を心得ずして、どんなにおつとめを務めたとしてもその意味は皆無である。

 

つまり、かぐらづとめを各教会で務めるおつとめおつとめまなびと同一視するような解釈や認識はあってはならないし、またその逆も然りである。

 

そしてこの時世にはそういうところに対する戒めも込められているように僕は感じる。つまりは「物理的要素よりは精神的要素においての親の仕込みなのではないか!?」という見解である。

 

本部月次祭に参列できないからこそどれだけ本部月次祭で務められるかぐらづとめに思いを馳せる事ができるかが試されているのではないかと感じる。それはどれだけ世界のたすかりを本気で念じているか、陽気ぐらし世界を実現しようとしているかという事になると思う。

 

おつとめまなびはあくまで学びである。そして学びは個人の自主性があってはじめて成り立つものではないだろうか?つまり、どれだけ大々的にやったとしてもそこに自ら学ぼうという気概がなければ、その学びは学びにはならない。そして体感として僕の直属の大教会の青年会総会においてその気概は極めて低いと感じる。行事だからやるというニュアンスの方が強い印象である。

 

人を集めて何かをやる事が信仰ではない。確かにやっている感は感じられるのだろう。しかしそのやっている事に対してその参加者が信仰的に何かを掴もうという意欲がなければ、そのやっている事に信仰的意義は皆無であると思う。それに一つのやり方に固着する必要性もないだろう。その時世や状況に合ったやり方でやればいいと思うし、おつとめまなびに関してだけで言えば今の時世、その気になれば一人で学ぶ事もできるのだから、そんな大々的に学びをやるニーズは昔と比べれば低いと思う。そうであるならわざわざこの時世において青年会総会を挙行する意義は極めて低いと思うし、やるなら何故今やるのか、それなりの意義を提示しなければならないだろう。

 

信仰的活動が人を集めて何かをやる事という認識は改めなければならない時に来ているのは明らかだ。

 

求められているのは物理的活動ではなく精神的変化であると僕は思う。