離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

現代のお道に足りない感覚!!

 

皆さんこんにちは!!

 

今回は、「現代のお道に足りない感覚!!」と題して、最近、僕が これだ!!と思った感覚を備忘録として綴ります。

 

突然ですが皆さん、鴨頭嘉人 さんを知っていますか?僕も詳しくは知らないんですけど、Twitter で僕のタイムラインによく現れるスキンヘッドの人です。Twitter での肩書きは YouTube講演家 てなってます。フォロワー数は10万人以上です。認知度はかなり高い方なんだと思います。

 

最近、その方の YouTube を何となく暇だったので拝見させていただきました。まぁ凄いです。圧が。。。

勢いが半端ないです。マジぱねぇ〜です。僕は別にファンでも何でもないんですけど、それでも この人凄え人だ!! と思わしめる程の輝きを放っていて、あまりの眩しさに(たぶんスキンヘッドの効果もかなりあると思う。。。)直視できない程のオーラを、金色のオーラを感じました。

 

そして何より、一番凄いと思ったのは、「自分の感性を何の惜しげも無く提供している事」でした。確かに、それを生業としている人なのでしょうからそれは 当たり前 の事なのでしょうけど、それでも そんな事まで教えてくれるの? くらいの話しをされていて、僕はそこにその方の素直さと志を感じました。

 

人間は、大人になると殆どの人が自分の感性を語らなくなります。それは、語る状況がないとか、恥ずかしいとか、うまく言語化できない、とかいろんな要因があると思いますが、一番の要素は 教えたくない からだと思います。感性 は自分の人生の中で培ってきた 運命 を切り拓く メソッド です。それを他者に安易に提供したりはしません。他者に成功して欲しくないからです。確かに、社会で 成功者 と認識されている人の中には、鴨頭 さんのように 自分の感性 を提供する事を生業としている人も一定数は存在しますが、それでも、提供するのはほんの氷山の一角であって、全てではないと思います。もちろん他者の 感性 が自分にとって必ずしも 運命を切り拓くもの であるとは限らないです。しかし、他者の感性は自分の感性に少なくからず 影響 を及ぼします。それにより自分の中だけでは生まれ得なかった 感性 が生まれる可能性は十分にあり得ます。そしてそれを求めている人が一定数いるのも事実であり、だからこそ需要があり、生業として成立しているのだと思います。

 

因みにこの 感性を提供する という事を専門の生業とする人達がいます。それが 宗教家 です。宗教家 と 信仰者 を混同している方々もいると思いますが、厳密に言うと違います。宗教家 は 信仰 により得た 感性 を提供する人であり、信仰者 はその教えを 信仰 している人です。インプット で終わるのか、アウトプット までやるのかの違いです。宗教家 に大切な要素は 自分の核となる信仰 がある事と その信仰により得た感性を自信を持って他者に提供できる という事なのではないかと思います。天理教 の にをいがけ と言われる行為には 宗教家 である事が必要な要素ではないかと感じます。しかしながら、現代の 信仰者 は 信仰者 であるけれど 宗教家 でない人たちの方が圧倒的に多いという印象を受けます。その要因は 自分の核となる信仰の欠如 自分の感性を自信を持って語れない風潮 ではないかと感じます。(あくまで個人の感想です。)

 

現代社会は多種多様な情報が簡単に入手できます。それは教内とて例外ではありません。多くの先人、先輩方の信仰体験や悟りは書籍やネット上に出回っていますし、それらに触れる事により、擬似的に体験や悟りを得る事ができます。結果、自分で自ら体験するという事をしない人たちを生みます。情報を得る事で体験した気になってしまうからです。しかし、そこには 信仰 に対する 確証 がありません。故に 核のない信仰 になってしまいます。こういう信仰は脆いです。自分の体感として得たものと擬似的な体験として得たものには 雲泥の差 があると思います。故に後述により得た 感性 には人を惹きつける魅力が全くないとはいかないまでもかなり薄くなるのではないかと思います。

 

教内でねりあいをする時に、自分ではない他者の体験を語る人がいますが、こういう人は 自分で苦悩し、模索しながら得た感性 がない人なのではないかと思います。故に自分の 信仰 を語る事ができず、他者の体験を語らざる得ない状況になるのではないかと思います。

 

例え、同じような 感性 を得る事になったとしてもそれを得るまでに辿った道筋によって、その質は大きく異なります。そして、最も 感性 を磨く事に特化した方法は 現場経験 です。特に現代は、SNSの普及によって リアルな現場 に出なくても 布教 ができる時代ですが、現場経験のない言葉はやはり重みに欠けると感じます。自分で苦悩し辿り着いた感性 だからこそ人の心を揺さぶります。近年は 布教の家 への入寮者も 激減 しているみたいです。SNS内でも 神名流しや戸別訪問は時代に合ってない みたいな意見を目にしますが、寧ろこういう時代だからこそ 核ある信仰 が必要であると思うし、それを培える オールドスタイルの有用性はかなり高い と考えます。

 

 

自分の感性を自信を持って語れない風潮  においても 先人、先輩方の感性に容易に触れる事ができる という事が要因としては大きいと思います。それにより先人、先輩方の感性が正解と認識してしまっていて、それ以外の感性を外れたものとして認識するからだと思います。もちろん最低限の原理、原則の中での感性である事が大前提であり、その範囲外のものが教内において否定される事は致し方ない事だと思います。しかし範囲内であれば、承認しても何ら問題はないと感じます。感性 は人それぞれ違う事が自然であるし、一つの感性に固着する方が寧ろ危ないと感じます。

 

年配の先生には 私の言う通りにしておけばいいんだ という考え方の先生が一定数いる印象ですが、僕に言わせればそれは 天理教 ではなく、その先生教 です。この場合は、その先生の感性 =天理教の感性 と認識されます。確かに近いとは思いますが、そのもの ではないです。確かに 信仰 の導入は 与えられる形 から入るわけですが、ある程度の年限が経てば自ら求めようとする 求道心 が芽生えるのが自然であると思うし、それが 成人する ということだと思います。しかし、与えられるという 信仰スタイル から脱却できない人たちがかなり多いのではないかという印象です。今は自ら求める信仰 が容易にできる時代です。固定概念に囚われる事なくもっと自由に 信仰的感性 を育んでいけるのではないかと思います。

 

YouTube動画の中で 鴨頭  さんは、自分の感性を自由に表現し提供されていました。その姿こそ 現代のお道に足りない感覚 ではないかと感じました。大半の大人は本音を語りません。先日、大教会行事で部内教会長さんや奥さんたちとねりあう機会がありましたが、当たり障りのない話しや他者の体験の話しをされる方が大半で正直つまらないと感じてしまいました。まるで台本があって、その通りに話しが進んでいくような ねりあい のいったいどこがおもしろいのでしょうか?そんなのはただの 茶番劇 です。自分の感性を自信を持って語れない、また語らないリーダーについて行こうと思う人がいるでしょうか?自分の精神に核がない人間が、精神を伝えていく事ができるでしょうか?僕たちはもっと自由に、自信を持ってそれぞれの 感性 を語り合い、提供するべきなのではないかと感じます。

 

宗教 の話は 一貫性 がなければならない。そういう認識を持っている人が多いと思うし、実際そうなのかもしれないです。しかし僕たち 信仰者 は誰しも道半ばであり、故に 未熟 です。したがって成人するに従って教えに対する 感性 は変わっていく事が自然であると思うし、寧ろ変化がない方がおかしいと思います。その 変化する感性 を受容して、教内はもとより教外でも自信を持って表現し、提供できる自分でありたいと思います。

 

ご拝読ありがとうございました。