離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

時間の価値!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は時間の価値観について考えます。

 

今日一日という時間の価値は人それぞれ同じなのか違うのか?

 

何の変化もない日々を只々繰り返す健康な高校生A君と病気で余命三カ月と宣告され今日で三カ月になる高校生のB君の今日一日の価値は違うのでしょうか?

 

現実的に考えれば違うと考えるのが標準的な考え方だと思います。しかしその考え方には大前提が一つあります。それは明日が来ると保証されている事です。

 

それでは明日が来ると保証されている人間がこの世界に存在しているでしょうか?
そんな人間は存在しません。

前例で述べたA君が交通事故で命をおとし、B君が明日以降も生き続ける事も十分考えられるからです。

 

それでは何故人間は明日が来るという前提の考え方をするのでしょうか?

 

それは昨日があって今という時間に存在している現実から恐らく明日も来ると予想し、その結果そう思った昨日があり、今という時間に存在している。それが繰り返される中で何の根拠も無い自信を持っているに過ぎないのだと思います。

 

しかし人生で保証されているのは過去と現在だけです。未来は無い。刻々と移りゆく現在という時間とその結果として残る過去だけなのです。

 

人間は、その概念に対する根拠を求めます。特に現代人はその性質が顕著です。そして、根拠が乏しいものを信じません。そんな人間が唯一何の根拠もなく信じているもの。それが「明日」や「未来」といった概念です。絶対に明日はきますか? という質問に 絶対きます。 と言い切れる人間などいないと思います。それは 分からない からです。つまり僕達な明日がくるか分からないのです。そう考えると人生の致死率は常に50%なのではないでしょうか?明日がくる確率は常に50/50。だからこそ今、この瞬間を丁寧に大切に全力で生きていくべきだと僕は思います。

 

時間はどんな人にも平等であり、残酷です。

 

それは その概念が必ず継続するかどうか分からないという性質を持っているから です。阪神淡路大震災東日本大震災で人間はそういう世界に生きているという現実を嫌という程思い知らされているはずなのに、人間はそれを認めようとはせず、「明日」という時間を誰かに保証して貰おうとします。そういう思考は今回の新型コロナウイルス騒動でも顕著に現れています。

 

それは政府であったり、公共施設や団体であったり。。。

 

その事象において人間がその発生に関与していないにも関わらず、それにより不意に奪われた時間の保証を誰かに求めようとするのは愚かな事であると思うし、そういう思考に陥るのは間違いなく、人間の エゴ だと僕は思います。そして何より、どんな保証をされたとしても失ったものは返ってはきません。今生きている僕たちがやるべき事は、失ったものに執着する事ではなく、今という時間を精一杯生きていく事ではないでしょうか?大震災で僕たちは 時間の尊さ を学んでいます。だからこそ以前より時間の有難さやそれがある喜びを感じる事ができるはずです。

 

僕たちは 時間の価値 をもっと謙虚に受け止めなければならないのではないでしょうか?認めたくない現実はあります。しかし認めなくてもその現実はそんな事関係なしに自分の人生に関与してきます。この世界で人間が無から生み出せる物などありません。故に僕たちは、人間の力の関与していない物を用いなければ生きていけないのです。そう考えるならば、先ず僕たちが持つべき価値観はそれらの物に対する 謙虚さ とそれらの恩恵を受けている事への 感謝 ではないでしょうか?

 

これまで数多の自然災害を乗り越えてきた僕たち人間は、その事に気づけるお互いであるはずです。

 

最後にこれまでの歴史で発生した自然災害によって命を落とされた全ての方々に哀悼の意を表し、終わりとします。

 

ご拝読ありがとうございました。