離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

後継者の育成

皆さんこんにちは!!

 

今日は雨模様です。

 

皆さんは雨の日、どんな事を思いますか?

僕は、空から水が降ってくるって凄くない!?って思います。

 

自然の力は偉大です!!

 

さて今回は、後継者の育成 をテーマに 育成って何? ってところを掘り下げていきたいと思います。よろしくお願いします。

 

目次

 

 

【宗教離れ】

 

現代の日本における宗教の地位は低下しつつあると感じます。どの宗教も厳しい状況に晒されているようです。特に新興宗教と位置付けられている宗教のイメージはかなり悪いと思います。その大きな原因はやはり1995年に某新興宗教が起こした同時多発テロ事件でしょう。

あの事件からこちら、新興宗教への風当たりはかなり厳しいものとなったと思います。

 

あの事件にしても、悪いのは 教祖と数人の幹部 です。その他の信仰者の方々は恐らく何も知らなかったであろうし、事件が発覚した時、誰よりも驚愕し落胆したのではないかと推察します。また、事件を未然に防ごうと尽力された幹部の方々もおられたでしょう。

 

しかし、マスメディア はその事件を教団ぐるみの犯行として報じました。洗脳、マインドコントロール などの言葉を巧みに使い、新興宗教は危ない集団なのだと言うイメージを植え付けるような報じ方をしました。

 

日本の マスメディア はオーディエンスにウケそうな内容や場面を切り取って報じる傾向があります。もちろんそれは 真実 であるし、報道という仕事が真実を伝えるという観点からすれば何も間違ってはいません。

 

ただ、一つの事件や出来事には多くの 真実 が複雑に絡み合っています。それは、多くの人々の関係性による様々な視点があるからです。なのでただ一つの真実をフィーチャーするとその事件や出来事が歪になり、間違いではないにしろ、偏った捉え方をされる可能性があります。ウケそうな内容を断片的に伝えるのではなく、もっと全体的な背景を捉えられるような報道を僕は望みます。

 

【育成】

 

ここからが本題です。僕は 育成 には2種あると理解しています。

 

1つ目は、育成する側のイメージする形に近づけるように育成していく方法です。教内で言われている育成とは恐らくこちらに近いニュアンスだと思います。ひと昔前の日本でもごく一般的に用いられていた方法です。

 

この方法では、育成する側こそ 正義 です。育成する側のイメージに反する思想や行いは 悪 です。だから育成する側はかなりやり易いとも言えます。

 

ただ、育成される側はかなり窮屈です。育成される側が育成する側のイメージに共感できればそうでもないのでしょうが、共感できなければ辛いと思います。特に個人の才能や能力などは度外視に考えられる傾向もあります。ただその分、精神力はかなり鍛えられるし、協調性も育まれます。

 

実際、教内ではこういう育成が行われているケースが多いようです。しかし、このやり方は、育成する側のイメージに必要以上に厳しく縛ってしまうと、育成される側が自立した時、反発から遠ざかっていくケースが少なくないようです。

 

2つ目は、育成される側のイメージに合わせて育成する方法です。今の日本の教育はこちらにシフトチェンジしつつあると感じます。現代社会の個人の自由な発想や価値観を重んじる風潮からすれば自然な流れなのかもしれません。

 

この方法では育成される側が主導となります。なので育成される側はかなりやり易いと思います。ただ、この方法は能力を伸ばしたり開花させる面においては良い方法ですが、精神面を育てるという面においてはあまり期待できません。なので育成する側はかなり気をつけて接していかないとある種のモンスター的な人間になってしまう恐れがあります。

 

【徳分を活かして】

 

最近教内で 徳分を活かして という声をよく耳にします。これがどういうことなのか僕にはイマイチ理解できません。よくよく聴いているとどうやら 能力を活かして に近いニュアンスで使われているようです。

 

確かに 能力を活かす ことはいい事だと思います。しかしそれは 能力がある場合 です。能力がない人が無理に 能力をつけなければならない と思ったり、能力を見つけなければならない と思う必要もないと思います。能力がないからといって徳分がないとも言い切れませんし、逆もまた然りです。僕は 徳分 とは 心の力 だと理解します。心に力があれば、才能や能力が無くてもおやさまは働いてくださいます。徳分を活かす ことを否定はしないですが、それに捉われ過ぎるのも問題だと感じます。

 

【共に育つ時代へ】

 

真柱様が 育てる側が育つ努力をすることが大切である。 とある講話で話されていて衝撃を受けました。おやさま がまだ現し身を隠される前、お道には直接教え導いてくれる絶対的な 親 がありました。そして、先人、先輩達はその絶対的な親に直接教え導かれて成人していかれました。

 

現在はどうでしょうか。確かに おやさま は御存命であり、今なお僕たちを導いてくれていますが、直接教え導いてはくれません。僕たち現代の信仰者は教えを もと に起こってくることを思案し、親の思いを悟っていくしかないのです。そしてその 芯 となるのが教団においては 真柱様 であり、各教会においては 教会長 になるのだと思います。しかし、それぞれは人間であり、それ故に未熟です。だからこそ 育成する側、育成される側 という意識ではなく、共に育つ という意識が大切なのではないかと思います。

 

人間は 一れつきょうだい です。親 が直接導くことができない今、兄や姉が 親 の代わりとして、弟や妹を導いていくのは自然な流れだと思います。ただ 親 であるという 勘違い はしないよう、自分の未熟さを律し、弟や妹の意見にも耳を傾ける。そして互いに立て合い成人していく姿を 親 は望まれているのではないかと強く感じます。

 

【最後に】

 

今回は、後継者の育成  をテーマに僕が思うことを紹介させていただきました。教育評論家とかでもないですし、完全に素人の見解ですけど、一番言いたかったのは 共に育つ って事です。

 

未熟なお互いだからこそ、たすけあって、勇ませあって、親神様、おやさま にお喜びいただける世界へ一歩でも近づけるように歩みを進めていきましょう。

 

ご拝読ありがとうございました。

 

アナログの必要性とデジタル化!

皆さんこんにちは!!

 

昨日 TSUTAYA に行って BG〜身辺警護人〜 のDVDを借りてきて観てるんですが、木村拓哉 さんかっこいいですよね〜

 

長い間、芸能界のトップを走り続け、数多の作品に携わってこられ、その中で多くのヒット作を生み出してきたヒットメーカー、木村拓哉が演じれば時代が動く。と言っても過言ではないくらい多くの 社会現象 も巻き起こしてこられました。

 

年を増すごとにその魅力に磨きがかかっていく 木村拓哉 さん。外見もさることながら内面もしっかり磨いてこられたのだと思います。

 

これからも 木村拓哉 ブランドを日本にいや、世界に轟かせていかれるのだと確信しています。陰ながら応援しています。

 

さて今回は、昨日 支部例会 での話しの中で僕が感じたことを書いていきたいと思います。

 

よろしくお願いします。

 

目次

 

 

 

支部例会】

 

皆さん 支部例会 って知ってますか?天理教には所属の教会が主導する活動と各都道府県を 教区 として区分けして、その教区内にある教会が協力して推し進める活動とがあります、そしてその教区内をさらに区分けしたものが 支部 です。

 

支部例会 は毎月1回行われ、主に教区の活動方針や行事、支部の行事や企画について報告や連絡をされます。参加される方は主に教会長さんや布教所長さんです。

 

各所属教会の活動が系統的な縦の活動だとすると教区活動は系統を越えた横の活動ですね。

天理教では、系統を重んじる思想が強く所属教会主導の活動が重要視されがちですが、教理的には 一れつきょうだい の教えなので、横の活動である教区活動も大事だと僕は思います。

 

特に今の時代、どこの教会も後継者問題やら信者さんの高齢化などで教会の体力低下が深刻な問題となっています。少年会活動などの教会活動をやりたくても体力的に無理な教会は少なくないと思います。正直大教会や上級教会の活動を末端がサポートすることはあってもその逆は皆無です。だからこそ、横の活動である教区活動の活発化がその問題を解決していく糸口になるのかな?と思ったりします。

 

この考え方は先日、芦津大教会の130周年記念祭に参加させていただいて、感じさせていただいたことです。

 

芦津大教会の記念祭では芦津に繋る方々はもちろんのこと、芦津の系列から大教会になった教会にも応援を要請して、模擬店などのスタッフとしてサポートしてもらっていました。

 

もちろんサポートスタッフの数も半端ないので、芦津大教会だからできたと言われればそれまでですが、そんな大規模じゃなくても、近くの教会2〜3ヶ所くらいで協力して、少年会活動やこども食堂なんかを共同運営できれば、各教会の負担も少なくなるし、末端教会も活性化するんじゃないかな?と思ったりします。

 

しかし、そのモデルケースとして実際にやってしまう芦津大教会と大教会長様のスケールはやっぱりでかいなぁ〜と思いました。

 

 

天理時報

 

かなり前置きが長くなってしまいました...(笑)

 

ここから本題なんですけど、今月も 支部例会 に参加させてもらったんです。その中で 全教一斉ひのきしんデー の話題になったんですが、今年から天理時報に開催地が掲載されなくなったんですが、それが年配の方々に不評だったらしく、教区の先生方が道友社に掲載してもらえるように交渉に行ったらしいのですが、経費の事情で難しいという回答だったとのことでした。

 

僕、思うんです。何故天理時報のデジタル版を創らないのかな??って。天理時報のデジタル化はだいぶ前から教内でも話題に上がっていると思います。確かに天理時報を購読されている方々は年配の方が多いと思います。そういう認識からアナログ版の方がいいという考え方も理解できます。でもそれなら 全教一斉ひのきしんデー の開催地を掲載しない理由が経費の問題っていうのは納得できないですよ。年配の方などのアナログ世代に配慮するマインドでアナログ版を推すのであれば、開催地も掲載してあげるべきだと僕は思います。

 

 

【Happist】

 

 

今年4月、Happist が完全デジタル化されました。正直少し寂しいです。毎月、表紙の女の子を見るのが楽しみだったんです。アナログHappist ロスです。

(ただの変態だと思いますか。安心してください。僕は健全な変態です。危害はくわえません。)

 

Happist は確かに学生さん向けに発行されている月刊誌です。現代の学生さんは デジタル時代の申し子 と言っても過言ではないくらい生まれた時からデジタルに慣れ親しんで育ってきた方たちなのでHappist のデジタル化は自然な流れなのかもしれません。

 

ただ僕は思うんです。完全デジタル化 はやり過ぎなんじゃないかなって...

 

Happist は学生さん向けの月刊誌ではありますが、学生さんだけ が読んでいるわけではありません。僕も時間がある時は読ませていただいておりますが、大人でも充分楽しめる内容でありますし、若者の文化にふれられるいい教材であるという一面もあります。僕はアナログ世代の方々の中にも愛読されておられた方はいると思うです。完全デジタル化 はそんな方々の楽しみを奪ってしまうことになってしまったのかもしれないと感じずにはいられません。

 

世代が違えば文化も異文化と言っても過言ではないくらい雲泥の如く違います。だからこその隔たりも生じます。その隔たりを取り払う為には、お互いの文化の違いを理解しなければならない。そういう観点からHappist は大人にとっても意義ある教材であると思います。

 

 

【最後に】

 

 

皆さん天理時報、読み終わった後どうしてますか?僕はほんとに困ってます。天理時報のキャッチフレーズが おやさまからの手紙 じゃないですか〜。いくら読み終わったからって おやさまからの手紙 を廃棄するのはかなり気が引けます。まあでも溜まってくるので廃棄するんですけど...

 

現代の流れがデジタル化ですし、僕もデジタル化に賛成です。ただ、アナログもまだまだ必要だとも感じます。

 

アナログ版とデジタル版、両方にメリット、デメリットがあります。両方の特性をうまく活かして、アナログ世代にもデジタル世代にも優しいお道になるといいなぁ〜と思います

 

ご拝読ありがとうございました。

僕の独り言!!

皆さんこんにちは!!

 

日曜日の夜、いかがお過ごしですか?

だんだんと日差しも強くなってきて、夏の匂いを微かに感じます。

 

今回も独り言を自由に綴っていきたいと思います。どこに着地するか分からないですが、とりあえず飛び立ちます。たまにはこういうのもいいでしょう!(笑)

 

昨日、芦津大教会 の130周年記念祭にスタッフとして参加させていただきました。

 

その帰りの車内である教会の会長さんと話しをさせていただく機会がありました。

 

その中で、少年会活動 についての話題になったんですけど、僕が担任させていただいてる教会は、少年会活動 って活動はしてなくて、相手の会長さんも同じ感じだって話してて、そこはまあこれからできるようになっていきたいね! って話しになったんです。

 

そんな話しをする中で、今までの 少年会活動 って確かに、子どもたちを集めて、教理の話もして、それなりにワイワイなって 大人たち も満足して、少年会活動 やってますって 大教会 や 本部 に報告して、なんかやった感を感じてそれでいいんだみたいな雰囲気を僕は感じてたんです。

 

それはそれで、素晴らしい活動だと思うんですけど、なんか違うよねって話しになったんですよね。

 

僕は小学生の時 大教会 の鼓笛とか 上級教会 雅楽とかやらされてて、確かに 大人たち からしたら、少年会活動、うちはこんなんやってます!! て感じでそれなりに充実感もあって良かったと思うんです。

 

でもやらされている 子どもたち ははっきり言って何の充実感もない、ただやらされてるだけの活動だったんじゃないかな?って思うんです。

 

自分たちの意思とか関係なく、大人たち の言われるままにやってた。少なくとも僕はそうでした。そんな 少年会活動 で信仰の喜びとか素晴らしさとか 子どもたち が感じれるのか?ってなったらそれは 無理 だと思うんです。

 

少年会活動 って 子どもたち に教えにふれてもらって喜びとか素晴らしさとかを感じてもらう為にする活動だと思うんです。しかし、大人たち の事情で 子どもたち を振り回しているケース、そしてそれで 大人たち が満足しているケースが往々にしてあると僕は感じます。

 

その結果、子どもたち に喜びとか素晴らしさとかを感じてもらえない、寧ろ苦しみとか、辛さを与えてしまって信仰から距離を置く人たちも少なくはないと僕は感じます。

 

大切なことって 伝えようとする事 じゃなくて、感じてもらう事 なのかなと思ったりします。感じてもらえるようにどうすればいいかを考えながら 子どもたち と接していれば、特に行事としての 少年会活動 を無理にやる必要はないのかな?と思ったりします。

 

もちろん行事としての 少年会活動 は大切だと思う気持ちはあります。ただ気をつけないといけないのは 大人よがり な活動をしないということだと思います。

 

そして僕が一番思う事は 育てる という意識よりも 共に育つ という意識が大切なんじゃないかな?と思います。僕たちはまだまだ未熟です。だからこそ 共に育つ そういう意識、その意識の中でお互いが成長できる環境ができていくのかも?と思ったりします。

 

最近は 縦の伝道、後継者の育成 の声が上がり、そういう流れになってきていますが、ただ 活動する という目先の形にとらわれることなく、しっかり 子どもたちに寄り添って、感じてもらう為の動き をしていきたい。

 

そう思います。

 

今回はテキトーに思っていることをダラダラと綴らせていただきました。

 

とりあえず無事着地できたと思ってます。(笑)

 

ご拝読ありがとうございました。

 

 

 

 

他宗教を学ぶ③

皆さんこんにちは!!

 

僕です!!

 

今回も他宗教を学ばせていただきたいと思います。前回は世界三大宗教の1つ キリスト教 を学ばせていただきました。今回は、仏教 について学ばせていただきたいと思います。仏教 世界三大宗教の1つですね。

 

それでは、よろしくお願いします!!

 

 

目次

 

 

【仏教】

 

 

まぁ一口に 仏教 と言ってもその宗派は数多くあります。日本には18の宗派があるそうです。多いですね〜!!

 

しかし、仏教 を語る上で忘れてはならないお方、それはなんと言っても仏教の開祖 お釈迦様 です。

 

というわけで、お釈迦様について学ばせていただきたいと思います。

 

 

【釈迦】

 

 

お釈迦様 の姓名はガウタマ・シッダールタゴータマ・シッダッタと表記されることもある。)です。

 


釈迦 という言葉の由来は釈迦の出身部族であるシャーキヤ族またはその領国であるシャーキヤ国を指す名称である シャーキヤ を音写したものだそうで、釈迦と呼ばれるようになった由来は シャーキヤ族の聖者 の尊称である シャーキヤムニ を音写した 釈迦牟尼 という言葉を省略して 釈迦 とよばれるようになったそうです。

 


また、ブッダとも呼ばれますがこれは目覚めるという意味の ブドゥ に由来していて 目覚めた者 という意味だそうです。

 


もともとはインドの宗教において、すぐれた修行者や聖者に対する呼称だったようですが、仏教で用いられ 釈迦 さんの尊称となったみたいです。このため ゴータマ・ブッダ とも言われます。漢字の音写は仏陀旧字体では佛陀で覚者の意味だそうです。仏教や仏像の用語はこの尊称に由来するそうです。

 


仏教では、釈迦牟尼仏釈迦牟尼如来釈迦牟尼世尊としたり、またそれらを省略して、釈尊釈迦尊、仏様、お釈迦様 と呼ばれています。

 


因みに念の為に言っておきますが仏教は インド が、発祥の宗教です。

 

 

【出生】

 

 

釈迦 さんはコーサラ国の属国のシャーキヤの王族の家に生まれました。父はシュッドーダナさん、母はマーヤーさんです。

 

母のマーヤーさんが出産のための里帰りの旅行中に、カピラヴァストゥ郊外のルンビ二の園中で産気づき、釈迦 さんを産みます。この誕生に関して、釈迦 さんはマーヤーさんの右脇から生まれ出て7歩歩いて、右手で天を、左手で地を指し、天上天下唯我独尊 と言ったと語られています。

 

マーヤーさんは 釈迦 さんを出産した7日後に死去されます。そして釈迦 さんは、シャーキヤの都カピラヴァストゥでマーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられる事になります。

 

 

【出家】

 

 

釈迦 さんはお父さんたちの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられます。そして、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年に成長します。16歳または19歳で母方の従妹の ヤショーダラー と結婚し、一子 ラーフラ をもうけます。

 

ある日、釈迦 さんがカピラヴァストゥの東門から出る時に老人に会い、その老いた姿になんとも言えない憤りを覚えます。またある日は南門より出る時に病人に会い、またある日は西門を出る時に死者を運ぶ行列に出会します。

 

釈迦 さんはその姿を見て、この身には老いも病も死もある。と の苦しみを感じます。

(生、老、病、死 の 四苦)

 

そして、北門から出た時に一人の沙門(出家して修行する人)に出会います。世俗の苦 や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、釈迦 さんは出家の意志を持つようになります。

 

釈迦 さんは王族としての安逸な生活に飽き足らず、また 人生の無常や苦 を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家します。

 

ラーフラが産まれて間もない頃、深夜釈迦 さんはこっそり王城を抜け出します。

 

そして、当時の大国であったマガダ国のラージャグリハを訪れます。その時、ビンビサーラ王に出家を思いとどまるよう勧められますがこれを断ります。その後 解脱 (世の苦や煩悩から抜け出し悟りを開いて六道輪廻から脱却すること。)に至ろうとバッカバ仙人を訪れて、その苦行を観察しますが、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としており、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟ります。

 

釈迦 さんは、その後2人の師匠に師事し、同じ境地に達しますが、これらを究極の境地として満足することはできず、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと悟ります。

 

この三人の師は 釈迦 さんの優れた資質を知って後継者としたいと願い出ますが 釈迦 さんはこれらのすべては悟りを得る道ではないとして断り、彼らのもとを去ります。

 

そしてウルヴェーラーの林へ入いり、6年の間に様々な苦行を行います。釈迦 さんはこの苦行時代に5人の沙門と出逢い、交流を深めます。

 

釈迦 さんが生きた時代にインドにあった バラモン教 の苦行信仰の影響から、呼吸をしばらく止める修行、太陽の直射日光を浴びる修行、座ろうとすれば後ろへ倒れ立とうとすれば前に倒れたり片足立ちをするなどの激しい肉体運動などの厳しい修行や瞑想行為をします。

 

また、食事をわずかにして食欲を抑制する断食修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごし、心身は極度に消耗し、釈迦 さんの身体は骨と皮のみとなり、やせ細った肉体となっていきました。

 

しかし村娘スジャータから乳粥の施しを得たことで、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟って 釈迦 さんは苦行をやめます。

 

その時、五人の沙門は 釈迦 さんを堕落者と誹り彼を見限って ワーラーナシーのサールナートへ去っていきました。

 

 

【悟り】

 

 

 

そして、釈迦 さん35歳の時、ガヤー地区のほとりを流れるナイランジャナー川で沐浴(身体を水で洗い潔めること。)したあと、村娘のスジャータから乳粥の布施を受けて体力を回復し、ピッパラ樹(菩提樹)の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となります。

 

この後、7日目まで釈迦はそこに坐したまま動かず、悟りの楽しみを味わい、さらに 縁起十二因縁 を悟り、8日目にニグローダ樹の下に行き7日間、さらにラージャヤタナ樹の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わったとされています。

 

そして、22日目になり再びニグローダ樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって悩みます。

 

その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう。との結論に至ります。 

 

ところが 梵天 が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く 釈迦 さんを説得しました。そして3度の勧請の末、釈迦はまず、修行時代のかつての2人の師匠に教えを説こうとします。

 

ところが二人はすでに死去していたことを知ると、ともに苦行をしていた五人の沙門に説くことにしました。釈迦 さんは彼らの住むワーラーナシーまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩みを進めました。

 

ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦 さんは五人の沙門に対して中道、四諦 八正道 を説きます。五人は、当初は 釈迦 さんは苦行を止めたとして蔑んでいましたが、説法を聞くうちに悟りを得て 比丘 びく)(所定の戒を受けて仏門に入った男子修行者。)となります。

 

最初の阿羅漢はコーンダンニャだったそうです。法を説き終えて、釈迦  さんは 世に6人の阿羅漢あり。その1人は自分である。と言い、ともに同じ悟りを得た者と言ったそうです。

 

その後、釈迦 さんは ガンジス川 中流地域を中心に教化、伝道を行い、釈迦 さんの見せた神通力も相まって、だんだんと信者が増えていきます。

 

そして、釈迦 さん80歳の時、カクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国のクシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこで死去されます。仏教ではこの死を 入滅、釈迦 さんの入滅を 仏滅 と言います。

 

 

【仏教の世界観】

 

 

仏教の世界観は発祥の地である インド の世界観である 輪廻 解脱 に基づいているそうです。

 

人の一生は 苦 であり永遠に続く 輪廻 の中で終わりなく苦しむことになり、その 苦しみから抜け出すことが 解脱 であり、修行により解脱 を目指すことが 釈迦 さんが説いた 仏教 の目的だそうです。

 

 

【六道輪廻】

 

 

仏教においては、解脱 しない限り、無限に存在する前世 と、生前の、および 臨終の心 の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされているそうです。天道・人道・餓鬼道・畜生道地獄道修羅道 の六道の転生先に生まれ変わるとされ、生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇に生まれ変わるそうです。

 

 

【神様】

 

 

仏教において神とは、天道の生物であり、生命の一種と位置づけられているそうです。そのため神々は人間からの信仰の対象ではあっても厳密には仏では無く 仏陀 には及ばない存在であるとされています。

 

仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教でだったそうですが、時代が下るにつれて開祖である仏陀、また経典に登場する諸仏や菩薩に対する信仰を帯びるようになります。しかし、根本的には信仰対象に対する絶対服従を求める態度は持たないそうです。

 

 

【因果論と解脱】

 

仏教は、物事の成立には原因と結果があるという因果論が基本的な考え方になります。

 

人の世は苦しみに満ち溢れていて、あらゆる物事は原因と結果から基づいている。人々の苦しみにも原因が存在し、その苦しみの原因を取り除けば人は苦しみから抜け出すことが出来る。これが仏教における 解脱論 です。 

 

 

【まとめ】

 

 

仏教は基本的に生きていること自体が 苦 であるという考え方のようです。そしてその 苦 から脱却する為に煩悩をなくし、悟りを開く 解脱  することが信仰の目的のようです。

 

そして 解脱 をした者は、六道輪廻 のループから解放され 浄土 に生まれるそうです。

 

 

【最後に】

 

今回は 仏教 について学ばせていただきましたが、感想は 難しい です。学べば学ぶ程にその深さを感じます。

 

仏教 は何か対象を崇拝するというより、釈迦 さんが得た 悟り を拠り所としているので、信仰形態が分かりづらいというのが感想です。宗教というよりは哲学に近いのかなと感じます。だから宗派もどんどん分かれていったのかもと思ったりします。

 

今回わかったのは、仏教の奥深さ です。これからも、ちょっとずつ学ばせていただきたいと思います。

 

ご拝読ありがとございました。

他宗教を学ぶ②

皆さんこんにちは!!

 

僕です!!

 

今回は、キリスト教 について、もう少し深く学んでいきたいと思います。

 

それでは参りましょう!!

 

目次

 

 

唯一神

 

 

キリスト教 の神様は ヤハウェ という唯一神です。なので キリスト教 一神教です。

ただ、ユダヤ教イスラム教も ヤハウェ を崇拝する宗教です。えっ!?同じ神様なの!?何が違うの? ってなりますよね...

 

キリスト教 イスラム教もユダヤ教から分かれた宗教なので、神様が一緒っていうのは理解できます。じゃあいったい何が違うんだい?ってことです。

 

ポイントは 唯一神、救世主(メシア)、預言者の捉え方です。

 

ユダヤ教唯一神 ヤハウェ を崇拝し、いつの日か神がメシアを遣わし、救ってくれる。まだメシアは現れていないと考えています。

 

キリスト教 唯一神 ヤハウェ を崇拝し、エス さんをメシアだと信じています。

 

イスラム教は唯一神 ヤハウェ を崇拝し、エス さんを預言者の1人として捉えているが、メシアとは捉えていません。

 

これがこの3つの宗教の違いです。

 

 

【三位一体】

 

 

キリスト教 では、エス さんは 神の子 であり、唯一神、神の子、聖霊を同一と捉えているようです。神の子と聖霊は人間に神の預言を与える為の姿であり、その実は唯一神であるという考え方です。

 

エス さんは 天理教 でいうところの おやさま に近い存在なのかな?と思ったりします。

 

 

【聖書】

 

キリスト教 には2種の聖書があります。旧約聖書新約聖書 です。キリスト教 では 旧約聖書 は エス さんが神様と契約する以前に交わされ契約書、新約聖書 は エス さんにより新たに交わされ契約書となるみたいです。

 

旧約聖書 ユダヤ教では唯一の聖書である為、呼び方も単に 聖書  と呼ばれているようです。

 

もう 新約聖書 あるんだから 旧約聖書 いらなくない?って素人の僕は思ってしまうんですけど、キリスト教 の信仰者たちは 旧約聖書 を基本的に、新約聖書に書かれている出来事は、すべて旧約聖書の預言に基づくものである つまり、エス さんの誕生から復活までのすべてを、旧約聖書における預言が成就された と考えているようです。なのでやっぱり 旧約聖書 も大切なんですね。

 

 

キリスト教の世界観】

 

 

キリスト教 の世界観は、エス さんの生涯と エス さんの弟子達が遺した書物、新約聖書 により構築された思想だと思います。しかし、キリスト教 の信仰者達が、神をどう捉えているのかという部分においては 旧約聖書 により構築されている思想なのではないかと感じます。なのでこの部分においてはユダヤ教キリスト教イスラム教ともに一致しているのではないかと考えます。

 

キリスト教  の世界観を完璧に理解しようとするなら、キリスト教 を信仰するしかないと思います。それくらい奥が深いと感じます。これは全ての宗教において言えることだと思います。しかしそれくらいの価値は充分あると僕は思っています。

 

でも、ちょっとでもキリスト教の世界観に触れたい。

 

 

そして僕は思いました。何事も もと を知ることが大切なんのではないかと.....

 

もと と言いえば、元初まりの話 つまり創世記 です。なので 創世記 から 世界観にちょっとだけ触れたいと思います。

 

 

【創世記を学んで】

 

 

創世記 については別のブログで紹介することにします。興味がある方は、読んでみてください。

 

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2019/05/27/075106

 

今回は、僕が 創世記 を読んで、感じたことを紹介したいと言います。

 

唯一神 ヤハウェ 全知全能の神 とされていて、不可能な事はないと考えられているようです。宇宙と地球を創造してから人間を創造するまでにかかった時間は実質6日間です。天理教 の 元初まりの話 と比べても雲泥の如く違います。めちゃくちゃ早いです。またその方法も魔法のように奇跡的な力を持って創造されています。

 

なので キリスト教 の信仰者は 神 は人間とは全く違う 唯一の絶対的存在 と考えているのではないかと感じます。

 

天理教 でも神様は 絶対的な存在 ではありますが、キリスト教 と比べるともっと人間に近い存在ではないかと思います。

 

また、神 は 神を信仰しない悪なる人間 に対してはかなり厳しく、何の躊躇もなく抹殺しようとしますが、神を信仰する人間、に対しては祝福を与えたり、たとえ 罪 を犯しても、抹殺はせず追放などの温情措置をとられています。

 

なので キリスト教 の信仰者たちは 信仰する事で救われる という思想を強く持っているのではないかと感じます。

 

キリスト教 では、人間は生まれながらに 罪(善悪の知識の実を食べてしまいエゴを持ってしまったこと)を犯していて、人生で起こってくる 苦 はその罪の償いであり、イエス・キリスト の教えを信じることによってその罪が赦され天国へ行けるという考え方のようです。

 

 

最後の審判

 

 

ユダヤ教キリスト教イスラム教などの宗教が共有する終末論的世界観です。世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを決められるという信仰です。

 

キリスト教 では、世界の終焉後、エス さんが復活します。そして、死者も蘇り、全ての人間はエス さんにより裁かれ、善を行った者は永遠の命が与えられます。悪を行なった者は地獄に墜とされ、悪魔と共に生活しなければなりません。

 

裁きが終わった後、神とイエス さんにより統治される新たな天地が創造され、永遠の命を与えられた者はそこで生活をします。

 

エス さんの教えを信じる全ての人間は罪が赦され、皆に永遠の命が与えられます。

 

キリスト教 の信仰はこの時を目指して行われます。この 最後の審判 で永遠の命を与えられることが キリスト教 においての救いなのだと考えます。

 

 

【最後に】

 

 

今回、キリスト教 を学ばせていただいて思ったことは、やっぱり、テーマは 全人類を救うこと なんだなぁ〜という事です。

 

救い に対する考え方や形は違うけど、やっぱり僕たち信仰者は、全人類が救われるように日々活動していかなければならないと改めて強く感じさせていただきました。

 

これからも 世界だすけ の上に邁進させていただきたい、またそうである自分でいたいと思います。

 

キリスト教 の信仰者の方々から見たら、不十分な内容かもしれませが、僕自身、少しでも学ばせていただきたいという思いでトライしました。なので広い心で受け止めてくれると嬉しいです。

 

ご拝読ありがとうございました。

創世記

皆さんこんにちは!!

 

今回は 旧約聖書 の中の 創世記 の部分を僕なりにまとめたものを紹介します。

 

目次

 

 

天地創造

1日目、はじめに神は天と地を創造しました。地は何もない真っ暗な世界でした。神が 光あれ というと光ができました。神は光と暗黒とを分けました。そして、光を昼、暗黒を夜と呼びました。

 

2日目、神は大空を創りました。水の間に大空を創り、上の水(雨)と下の水(海)に分けました。大空を天と呼びました。

 

3日目、神は海と大地を創りました。そして、大地に草と樹を芽生えさせました。地の水は1つに集まり、乾いたところが現れよ と言いました。乾いたところを地、水のところを海と呼びました。地は草と樹を芽生えさせよ と言いました。すると草と樹が芽生えました。

 

4日目、神は太陽と月と星を創りました。そして、太陽に昼を月に夜を司らせました。それらを天に配置し、地上に光が届くようにしました。

 

5日目、神は動物と鳥を創りました。神はそれらを祝福して言いました。産めよ、増えよ、水や地に満ちよ。

 

6日目、神は地の獣、家畜、土に這う全てのものを創りました。神は自分を象って男と女を創造しました。神は人を祝福して言いました。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせ、全ての生き物を支配せよ。

 

7日目、こうして天地万物は完成しました。神は仕事を離れて安息しました。神は第7の日を祝福しこれを聖別しました。

 

 

【人間創造】
 

 

神は天と地を創ってから6日目に自分に模して土で男の人形を創りました。そして、鼻から息を吹き込んで命を与え、アダム と名付けました。

 

次に、アダム の肋骨から女を創りました。そして エバ と名付けました。

(何かものすごく痛そう...)

 

この アダムと エバ が最初の人間です。そして神はこの2人を何の苦しみもない楽園 エデンの園 に連れていきます。そこに美しくおいしいあらゆる植物を生やしました。そして園の中央に 命の木 と 善悪の知識の木 を生やしました。

 

神は2人に言いました。

 

人間にこの園をあたえよう。自分たちで耕し、守り、全ての木から実をとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木の実は決して食べないように。食べると必ず死んでしまうよ...
 

 

 

神の創った アダムエバ は純粋無垢で羞恥心も猜疑心も持ち合わせていませんでした。なので生まれたままの姿で神の言いつけを守り、幸せに暮らしていました。

 

そんなある日、1匹の蛇(悪魔の化身)が エバ に近づき、耳元でこう囁きました。

 

善悪の知識の実を食べてみ!めっちゃうまいんで〜!神様は死ぬ言うてたか知らんけど、そんなことないで!絶対死なんから!逆に目が冴えて頭スッキリ、神様みたいに善悪を知る者になるんよ〜

 

 

エバ はその誘惑に耐えきれず、とうとうその禁断の果実を手にとり、食べてしまったのです。その実は蛇の言った通り、何とも言えないおいしさで、エバ は アダムにも食べるよう勧めました。そしてとうとう アダムも食べてしまったのです。

 

その瞬間、2人に羞恥心や猜疑心、怒りや憎しみ、嫉妬や悲しみなどの純粋とは真逆の感情が芽生えました。2人は自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしくなってイチジクの葉で身体を隠しました。

 

この事を知った神は激怒しました。そして約束を破った罪として、女には 産みの苦しみ を 男には 命を終えて土に返るまで、土を耕して食物を得る苦しみ(労働の苦しみ)を与えました。

 

そして二人をそそのかした蛇には 一生腹で這い回り、あらゆる家畜や獣の中で呪われる存在となるのだ と言いました。

 

神は アダム と エバ に 命の実 を食べて不死になる権利を与えないとして、2人を エデンの園 から追放します。

 

善悪の知識の木の実 を食べると死んでしまうという神の言葉通りになったのです。

 

神との約束を破り、永遠の命と引き換えに エゴ を手にしてしまった人間の罪。これを キリスト教 では 原罪 (1番最初の罪)として、人間は生まれながらにして、罪(エゴを手にしてしまった事)を背負っているとされています。

 

 
カインとアベル
 

 

エデンの園 を追放された後、アダムと エバ は子供たちを授かります。その子供たちが カイン と アベル です。またこの2人には弟 セト がいます。

 

カイン は農耕を行い、アベル は羊を放牧するようになります。

 

ある日2人は収穫物を ヤハウェ に捧げます。カイン は畑で収穫した物を、アベル は肥えた羊の初子を捧げました。ヤハウェ はアベル の供物には目を留めましたが カインの供物は無視しました。

 

これを恨んだ カイン はその後、野原に アベル を誘い殺害します。これが人間が犯した最初の殺人とされています。その後、ヤハウェ に アベル の行方を問われた カイン は 知りません。私は弟の監視者なのですか? と答えました。これが人間のついた最初の嘘とされているようです。

 

しかし、大地に流された アベル の血は ヤハウェ に向かって彼の死を訴えました。カイン はこの罪により、エデンの東にある ノド の地に追放されたそうです。この時 ヤハウェ は、もはや カイン が耕作を行っても作物は収穫出来なくなる事を伝えました。

 

また、追放された土地の者たちに殺されることを恐れた カイン に対し、ヤハウェ は彼を殺す者には七倍の復讐があることを伝え、カイン には誰にも殺されないための カインの刻印 をしたそうです。やがて カイン は、妻を娶り、エノク という子供をもうけました。

 

 

ノアの方舟
 

 

ノア は アダム と エバ の息子 セト の子孫で アダムから数えると10代目になるそうです。セム、ハム、ヤペテという子供たちがいます。

 

ノア のいた時代、地上には悪が満ち、神は人を創ったことを後悔していました。そして、地上の全てのものを洪水で滅ぼすことを決意します。神はただ一人神に従順な ノア に 、

 

巨大な方舟を造りなさい。そして、あなたの家族とあらゆる動物を2頭(オスとメス)連れて方舟に避難しなさい。

 

と言いました。

 

ノア が方舟に移ってから7日後に洪水が始まりました。水は40日間地上を覆いました。方舟に避難した ノア一族 と動物以外は全て滅びました。150日後には水が減り始め、方舟はトルコ東部にあるアララト山に漂着しました。

 

ノア は舟の窓からカラスを放しました。カラスは地上の水が乾くのを待って出たり入ったりしました。しばらくして今度は鳩を放しました。鳩はオリーブの葉をくわえて戻り、地上から水がひいたことを知らせました。

 

ノア たちは方舟から出て、祭壇を作り神に生贄を捧げました。神はそれを認め、2度と生き物を滅ぼさないと約束しました。そして、その契約のしるしとして大きな虹をかけました。

 

洪水は神が人間を裁く象徴であり、ノアの洪水の物語が洗礼の儀式へと発展したそうです。

 

このお話から考えると今いる人間は ノア一族 から派生したことになります。

 

 
バベルの塔
 

 

大洪水の後、時が過ぎ、ノア の子孫はどんどん増えていきました。彼らは一つの言葉を話し、シナルの平原に住んでいました。

 

ノア の子孫は石の代わりにレンガをつくり、漆喰の代わりにアスファルトを手に入れました。こうした技術の進歩は彼らを傲慢にしていきます。天まで届く塔のある町を建てて、自分たちの力を誇示しようとしたのです。

 

神はその驕(おご)りを怒り、彼らは一つの民で、皆が同じ言葉を話しているからこのようなことを始めたのだ と考えました。

 

神は人々がそれぞれ違う言葉を話すようにしました。塔の建設現場では、いくら話しても言葉が通じなくなり建設は中断せざるを得なくなりました。人々は塔を破壊し世界中に散らばっていきました。こうして、世界各地にいろんな言葉を話す人々が住むようになります。この塔のあった町の名が バベル

 

バベル とはバビロンのことで、混乱(バラル)が語源だそうです。

 

同じ人間なのに言語が違うのはこういう理由なんですね。

 

 

アブラハム

 

 

アブラハム は ノア の息子 セム から数えて10代目らしいです。信仰の父 と言われているそうです。

 

アブラハム メソポタミアウル(ユーフラテス川の河口近く)で生まれ、ハラン(トルコ)に移住したそうです。

 

ある日、神が 私が示す地に行きない。 アブラハム に言いました。アブラハム は妻のサラや甥のロトと共に旅立ちました。

 

一行が カナン に入ると神が現れて あなたの子孫にこの地を与える。と言います。その後、 カナン は飢饉に襲われ、一行はエジプトに避難します。

 

アブラハム の妻のサラは絶世の美人だったらしく、アブラハム は彼女をめぐってもめごとが起こることを恐れ、サラに自分の妹であると偽らせました。

 

そんなある日、ファラオ(エジプトの君主の称号)がサラを見初め、宮廷に招き入れました。それを知った神は怒ってファラオに災難を下します。ファラオはサラが アブラハム の妻であることを知り、サラを アブラハム に返して カナン に送り出しました。

 

 

アブラハム 達はしばらく カナン に住んでいたのですが、アブラハム の牧夫とロトの牧夫が争いを起こします。それにより2人は別れて暮らすことにしました。

 

アブラハム 家族は カナン に、ロト家族はヨルダン川流域の ソドム に移り住みます。

 

 

【ソドムとゴモラ

 

 

ある日神は、悪にまみれ腐敗した町、ソドムゴモラ を滅ぼそうと決心しました。そしてその事をロトに伝える為に、天使をロトのところに向わせます。

 

 天使はロトに神様が町を滅ぼす事を決心したことを告げ、 妻と2人の娘を連れて町から逃げなさい。またどんなことがあっても決してうしろを振り向いてはならない。と言いました。

 

ロト家族が町を脱出すると、神は、天から硫黄の火を降らせて、ソドム と ゴモラ を滅ぼしました。ロトの奥さんは逃げる途中でうしろを振り向いてしまい、塩の柱になってしまいます。

 

その後、ロトと2人の娘は、山中の洞窟に移住しました。そこで2人の娘はロトの子を身ごもり モアブ(モアブ人の先祖)と ベン・アミ(アンモン人の先祖)を産んだそうです。 

 

【イサク】

 

 

アブラハム が故郷を旅立って後、神は アブラハム の子孫が空の星のように増え広がるということを約束し、彼と契約を結んでいました。しかし、アブラハム が故郷を出てから10年たっても、サラが身ごもることはありませんでした。

 

そこでサラは自分の女奴隷ハガルを差し出し、彼女によって子をもうけるように アブラハム に勧めます。

 

アブラハム はその提案を受け入れます。そして ハガル イシュマエル という男の子を産みます。

 

しかし神は、自らが アブラハム に与えた約束と、サラが考え出した妥協案はまったく別物であることを明らかにしました。

 

その後、再度 アブラハム の前に現れ、アブラハム とサラの間に生まれる子どもから子孫が増え広がり、アブラハム 国民の父 となると告げます。そして、その後しばらくしてサラはついに男の子を産みます。

 

当時、サラはすでに月経もなくなっており、この妊娠と出産は奇跡的なものでした。

 

しかし イサク が生まれたことにより、ハガルとサラの戦いが始まり、アブラハム はハガルとイシュマエルを追い出します。

 

その イシュマエル の子孫たちがアラブ人であるといわれています。


ところが、やっと授かった息子 イサク が少年になったとき、神は アブラハム に、モリヤ山で イサク を全焼のいけにえ(罪の赦しのためのいけにえ)としてささげるようにと命じました。アブラハム は苦悩しますが、神に命じられたとおり、イサク を捧げるためにモリヤ山に向かいます。そして、祭壇を作って イサク を屠(ほふ)ろうとします。その瞬間、

 

待て、待て、待てぇ〜い! 

その子に手を下すでない。お前が神を畏れる者であることはよくわかった。お前の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。

 

と神の声が響きました。

 

神は、イサク を捧げようとした アブラハム の信仰を認め、アブラハム の子孫繁栄と、その子孫によって全世界が祝福されることを改めて宣言しました。

 

アブラハム イサク は祭壇に薪をくべ、牡羊を捧げました。

 

アブラハム は下僕エリエゼルに イサク の妻を探すように命じます。エリエゼルは イサク の妻を探す旅に出ます。その途中の井戸端でエリエゼルは、

 

私とらくだに水を飲ませてくれる女性をイサクの嫁とさせてください。

 

と祈りました。

 

井戸に水を汲みに来た多くの女性の中で、美しい娘 リベカ がエリエゼルとらくだに水を与えてくれました。

 

リベカ イサク の妻となり、エサウ ヤコブ の双子の息子を産みました。

 

 

ヤコブ

 

 

イサク エサウ の方を愛し、エサウ を後継ぎに決めました。イサクエサウ を祝福しましたが、祝福を受けたのは エサウ のふりをした ヤコブ でした。エサウ は激怒します。

 

ヤコブ は母リベカの兄のラバンのもとへ逃げました。

 

ラバン にはレアとラケルの二人の娘がいました。ヤコブ ラケルの美しさに心を奪われます。そして7年間の無償労働を条件に結婚を許されます。

 

7年後の婚礼の夜、ラバンは ヤコブ をしたたかに酔わせ、レアのベッドに連れ込みます。翌朝 ヤコブ は結婚相手がラケルでないことに気付きます。そしてラバンを問いただしました。ラバンは、「さらに7年間働けばラケルとも結婚を許す」と言いました。レアは ヤコブ の最初の妻になります。

 

7年後、ラケルヤコブの2番目の妻となりヨセフ を産みました。

 

ある日、神は ヤコブ に故郷に帰るように告げました。ヤコブ は家族を連れて兄のところに向かいます。その道中、何者かが ヤコブ に襲いかかり、夜明けまで格闘します。ヤコブ には勝てないのを見て取った相手は、ヤコブの足の関節を外しました。

 

それでも ヤコブ は相手を放さず、私を祝福してくださるまではあなたを去らせません と言いました。格闘するうちに、ヤコブ は相手が神であることを悟っていたのです。神は、

 

お前は神を打ち負かしたのだから、これからはイスラエルと名乗るように 。

 

と言って ヤコブ を祝福しました。ヤコブ エサウと再会し和解しました。

 

 

【ヨセフ】

 

 

ヤコブ には12人の息子がいて、その息子たちがイスラエル12部族の祖、つまりユダヤ人の祖となります。彼は末っ子のヨセフをかわいがりました。兄たちはこれを妬み、ヨセフを奴隷商人に売り飛ばします。ヨセフ はエジプトに連れて行かれ、ファラオの侍従長の奴隷となります。ヨセフは侍従長に気に入られますが、侍従長の妻の誘惑を拒否したため、無実の罪で投獄されます。

 

2年後のある日、ファラオは「七頭の痩せた牛が、七頭の肥えた牛を食べつくす」という夢を見ます。その夢の謎を誰も解き明かすことができませんでした。しかしヨセフがそれを解き明かします。

 

今から7年間エジプトは豊作だが、その後7年間は飢饉が続く。豊作の間に飢饉に備えよ。

 

ファラオは感心してヨセフを宰相に抜擢します。そして予言通り、すべての国が飢饉に襲われます。しかし、エジプトには穀物が豊富にあり、世界中の人々が集まってきます。その中にヨセフの兄たちもいました。

 

ファラオは、一族を呼び寄せるように勧め、一族はそろってエジプトに移住します。その後イスラエルの子孫達はエジプトで奴隷にされ、400年後にモーゼに率いられてエジプトを脱出します。

 

 

以上です。一応僕なりにまとめてみました。大事な部分が抜け落ちていたり、間違っているところが多少あるかもしれないですが、だいたい合ってると思います。広い心で受け止めていただけると嬉しいです。

 

ご拝読ありがとうございました。

他宗教を学ぶ①

 

 

 

皆さんこんにちは!!

 

僕です!!

 

突然ですが皆さん、他の宗教ってどんな教えなのか気になりませんか?僕は気になったりします!!

 

という事で、僕の私的な疑問から他宗教を学ばせていただきたいと思います。

興味のある方は読んでみてください!

 

ぼちぼちやります!(笑)

 

今回のテーマは キリスト教です!!

 

世界三大宗教の一つですね!!!

 

それでは参りましょう!!

 

 

目次

 

 

【キリスト】

 

 

キリスト教の教祖は言わずと知れた イエス・キリスト ですよね!皆さん エス さんの名前の意味知ってますか?

 

エス は 人名で ヘブライ語からギリシャ語 に転写されたものらしいです。救う者 を意味する言葉らしいです。

 

キリスト は 膏をつけられた者 という意味の、救い主の称号だそうです。

 

膏をつけられるのは旧約聖書において王・預言者・祭司らしいです。

 

つまり、名前の意味は、王、預言者、祭司であるエス て事になると思います。

 

因みに キリスト さんの英名は  Jesus Christ (ジーザス・クライスト)です。何か英名の方がかっこいいですね!

 

ここで僕、気づいちゃったことがあります。映画とかでよく聞く、セリフ、Jesus  って キリスト さんの名前だったんですね!

 

僕たちが、 おやさま っていうのと同じ感覚なのかな?と思ったりします。

 

 

【出生】 

 

 

まず、エス さんの出世について学びたいと思います。

 

エス さんの出世に関しては諸説あるみたいです。

 

イスラエルの首都であるエルサレムから、北に約150kmほどのところにナザレという小さな田舎町があました。そこにマリアという名の処女が住んでいたそうです。

 

この方が エス さんのお母さんです。当時、13〜15歳くらいだったそうです。

 

かなり綺麗な人だったらしく、町では評判だったそうです。また人間性も非常に優れていて、信仰も熱心にされていたみたいです。因みにマリアさんユダヤ教です。

 

ユダヤ教ユダヤ人特有の民族宗教で、一神教、きびしい律法、ユダヤ人だけが救われるという選民思想、そして救世主を待望することなどが特徴みたいです。


ユダヤ人たちは他の民族に支配されてきた歴史が長いようで、みずからのアイデンティティを守るために、こうした特徴的な宗教を生んだのだと考えられているようです。

 

そして、そのマリアさんがヨセフさんと婚約します。つまりヨセフさんが エス さんのお父さんです。ユダヤ式の結婚の流れでは、婚約してから正式に結婚するまで、1年程の期間を置くらしいです。

 

マリアさんがヨセフさんと婚約して、穏やかな日々を送っていたある日、マリアさんが夕食を終えて、1人部屋で休んでいると、白い衣を纏った天使っぽい男性が、いきなり部屋に入ってきて、こう言ったそうです。

 

おめでとう!恵まれた方。主(神)があなたと共におられます。

 

さすがにマリアさんもびっくりしたらしく、状況が把握できないまま、パニック状態になっていると、その人は続けて次のように語りかけてきたそうです。

 

恐がることはない、マリアよ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたは妊娠して、男の子を産みます。名を『イエス』とつけなさい。 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 彼は永久にヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。

 

この言葉を聞いたマリアさんは、この人、天使ガブリエルや、神さんの遣いできたんや! って思ったそうです。それで次のような質問をしたそうです。

 

どうしてそんなことが起こり得るでしょうか?私はまだ男の人を知りませんのに。

 

 

するとガブリエルさんはこう言ったそうです。

 

神の霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。

 

 

マリアさんはかなりの衝撃を覚えたみたいです。何か私の身にとてつもないことが起ころうとしてるって直感したそうです。と同時に彼女は熱心な信仰者だったので、このガブリエルさんを通しての神様の宣言に熱い思いが沸き起こったそうです。そしてこう言ったそうです。

 

ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉通りのことが、この身になりますように!

 

 

この言葉を聞くとガブリエルさんは去っていったそうです。

 

マリアさんは生まれてくるこどものことをユダヤ民族が歴史的にその到来を待ち望んできた 救い主 (メシア)だと理解したようです。

 

 

それから、しばらく経ってマリアさんは本当に妊娠していることに気づきます。しかしヨセフさんには身に覚えのない子どもです。当然一悶着あります。しかし、紆余曲折はあったものの、最終的にはヨセフさんも理解して、結婚に向けて着々と準備を進めていきます。

 

そんな折、時のローマ皇帝アウグストから、全世界に住民登録を求める勅令が出されます。

 

勅令によれば、帝国内の全ての住民は、自分の故郷の町へ帰って登録をしなければならないとのことでした。

 

当時はナザレに住んでいた身重のマリアさんとヨセフさんも例外ではなく、2人は故郷のベツレヘムに向かいます。

 

そして無事ベツレヘムに到着したのですが、勅令により、多くの人々が帰郷していたため、宿舎を取ることができません。ヨセフさんは町中探し回ってやっとの思いで宿がとれそうな場所を探してきました。それは家畜用の洞穴でした。

 

ヨセフさんは申し訳なさそうに、マリアさんのところへ戻ったそうですが、マリアはそんなことは気にもしないといった感じで、むしろ体を休めれる場所が見つかったことを神に感謝したそうです。

 

そして、ちょうど洞穴についた頃から、マリアさんが産気づきはじめます。ヨセフさんはただただ神に祈り、同行していた何人かの親族も神に祈りながら見守ったそうです。

 

そして、遂に元気な男の子が誕生します。その男の子が エス さんです。

 

エス さんが生まれた夜、生まれた洞穴からそう遠くないベツレヘムの野で、野宿をしながら羊たちを見守っていた羊飼いたちがいました。その羊飼いたちの前に突然天使が現れました。羊飼いたちがびびって、戸惑っていると天使が語りかけてきました。

 

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです!あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

 

 

するとたちまち、その天使と一緒に、たくさんの天使の群衆が現われました。そして、神をたたえながら次のように語りました。

 

いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。

 

 

そして、天使たちは天へと帰っていきました。

 

残された羊飼いたちはしばらく呆然としていたそうですが、ふと我に返り、状況を把握します。メシアが誕生したんだ!見に行かなきゃ!

そして羊飼いたちは洞穴へと向かいます。

 

洞穴についた羊飼いたちはマリアさんたちに訪問の理由を説明します。そして、毛布に包まれ飼葉おけに眠っている赤ちゃんをみつけます。

 

あの子だ、天使たちの告げた通りだ!

 

その瞬間、そこにいた誰もが驚くと同時に、生まれてきた男の子が メシア であることを確信したそうです。

 

 

【イエスの生涯】

 

 

エス さんはおそらく30歳頃に洗礼者 ヨハネ さんから洗礼を受けたのではないかと言われているそうです。

 

それまでをどう過ごしていたかは、聖書には明記されていないのでわからないみたいです。しかしお父さんの ヨセフ さんが大工さんだったことや、他人から あの人は大工さんだよね!? って言われている節があるので、大工さんだったのではないかと推察されることが多いようです。

 

洗礼を受けた エス さんは、ユダヤ教に対して改革的な運動をしはじめます。かなりの 異端児 だったみたいです。

 

当時、多くの民衆は貧しく飢えていたそうです。また徴税人や娼婦、病人や非ユダヤ教徒たちは卑しいものとされ、虐げられ、迫害されていたそうです。

 

エス さんはそういう社会的弱者こそ、神から愛され、そして天国に行くことができると説きました。そして、自らもその愛を実践し、他の者にもそれを勧めました。

 

同時にユダヤ教の排他的で厳しい教えを批判したのです。その思想は社会的弱者に支持され、多くの人々が エス さんを慕うようになります。そして エス さんの見せた数々の奇跡も相まって、次第に師と慕う人たちも現れはじめます。

 

しかし、ユダヤ民族宗教ユダヤ教から一歩踏み出した考え方は、ユダヤ教の指導者たちには、なかなか理解されなかったようです。そして エス さんと エス さんを メシア として崇め、慕う人たちをローマからユダヤ民族を独立させようと目論む反乱者の集団として、危惧しはじめます。

 

当時、ローマの支配下で指導的立場にあった人たちは、そんな反乱が起きれば、自分たちも責任を取らされ立場を追われてしまう。どうにかしなければ。 と思うようになります。

 

そんな折、エス さんの弟子のユダさんがその指導的立場にあった人たちに、奴を反乱者のリーダーとして、ローマに差し出したら、反乱も起きないし、謝礼金も貰えるんじゃない?僕も手伝うんで、分け前くださいよ! みたいな感じで(ここは僕の妄想!)提案を持ちかけます。その指導的立場の人たちはその話に乗っかることにします。

 

エス さんは自分が処刑されることやユダさんの裏切りなどを以前から予言していたようです。

 

そして、エス さんは捕らえられて、ローマに引き渡されます。ローマへの反逆者のリーダーとして捕らえられた エス さんは十字架にかけられて処刑されることになります。

 

この十字架の刑が、まぁなんとも惨たらしい刑なのです。あまりに惨たらしいのでここではカットさせていただきますが、刑の執行から終了まで約3時間。エス さんを メシア と信じていた人たちは落胆し、エス さんに罵声を浴びせ続けます。エス さんは罵声を浴びせ続けながら、最後の時を迎えます。

 

 

【復活】

 

 

しかし3日後、なんと エス さんは 復活 します。正確に言うと弟子たちが 復活した と言い広めたんですけど...

 

そして、弟子たちは エス さんは全ての人間の罪を償う為に自ら進んで処刑を受け入れたこと、エス さんの処刑により全ての人間の罪を神様が許されたこと、それにより全ての人間が天国に行けること、故に エス さんも復活したことを言い広めます。

 

そして、弟子たちは イエス さんの説いた教えを広めると共に、その教えと生涯を書に記録します。この記録された書が  新約聖書 です。そして、だんだんと キリスト教 という宗教が確立していきます。

 

キリスト教 では エス さんが処刑される前に神様と人間の間で交わされ契約の書を 旧約聖書、 処刑の後に新たに神様と人間の間で交わされた契約の書を 新約聖書 として位置づけしているようです。

 

 

エス さんが 復活 したという解釈は2通りあるようです。

 

1つは肉体と魂が両方復活した、つまり生き返ったという解釈と、もう1つは魂のみ復活したという解釈です。

 

いずれにしても、この エス さんの 復活 を信じるか、信じないかが、キリスト教 を信仰するか、しないかの分かれ道になるのだと思います。

 

天理教 でいうと おやさま御存命の理 を信じるか信じないかっていうところに通じるものを感じます。

 

【最後に】

 

 

皆さんいかがだったでしょう?

 

僕は今回、キリスト教 を勉強させていただいて 天理教 と近いものをいくらか感じました。考え方は違うけど、目指すところは同じなのかな?と思います。

 

なにぶん素人ですので、解釈の間違いやキリスト教の方々にとって大切な部分抜け落ちてる ってところもあると思いますが、そこらへんは広い心で見守っていただきたいと思います。

 

またあったらこっそり教えてください。

 

とりあえず、今回はここで締めさせていただきたいと思います。次回は詳しい教理を勉強させていただきたいです。また力が回復したらはじめます。

 

ご拝読ありがとうございました。