離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

ジェネレーションギャップ!!

最近、強烈なジェネレーションギャップを感じた出来事があったので備忘録として記しておこうと思う。

 

きっかけはある動画だ。その動画はあるラッパーのMV(Music Video )なのだが、その舞台となっているのが天理教の教会の神殿なのだ。

 

僕は全て拝見したが、なかなか斬新な仕上がりとなっていた。

 

しかし、それ以上に衝撃的だったのがその動画を高く評価している天理教信仰者が多かった事。「良い」「凄く良い」と評している人が多い事に僕は驚きを感じずにはいられなかった。

 

「こういうのが受け入れられる時代になったんだなぁ〜」と理解はできるが、良いと思う感覚についていけなかった自分は、恐らくこれからの時代、淘汰されるべき人種なのかもしれないが、その前に問題提議をしておこうと思う。

 

第一に、神殿は神聖な場所である。信仰者にとっては聖域と言っても過言ではないだろう。世界の平和を祈り、人のたすかりを祈り、自らの心遣い、行いを省み、心を浄化する。そういう神聖な場所なのである。神の仕事場と言っても過言ではないだろう。そんな場所で人間の創ったラップなるもののMVを撮影するなど僕的には言語道断である。

 

天理教は陽気ぐらしなんだし、動画は陽気な感じだし、神様も喜んでるよ。」という人がいるかもしれない。確かに神様は陽気な状を喜んでくれているのかもしれない。しかしこれは神様が喜ぶ、喜ばないの話ではなく、僕たち信仰者が神殿をどう捉えているのか?という話なのである。神殿でこういう動画を撮影しようとする発想が出てくる事自体が神殿という場所を軽視しているし、それを許した人たちも軽視していると感じずにはいられない。

 

「いい布教やにをいがけになる」という人もいるかもしれない。確かにそういう側面もあるだろう。しかし布教やにをいがけの為なら何をしていいというわけでもないと思う。それが神を冒涜したり軽視する行為となるならどんなに布教やにをいがけになっても本末転倒であると僕は思う。いや本人的には冒涜や軽視をしているつもりは無いのかもしれない。しかしリスペクトもしていないだろう。少なくとも僕は感じない。

 

そして最も納得いかないのは、教会という場所に対するリスペクトが全く感じられないという事。いや、本人はリスペクトしているのかもしれない。しかし動画を観る限り、全くもって感じられない。教会とは先人、先輩方が長い年限をかけて運び、尽くした孝心の理により成ってきたものである。つまりそこには数多の人々の想い意志が詰まっている。教会とはそういう場所なのだ。にも関わらず、そういうところに配慮されていない演出に腑が煮えくりかえる思いでいっぱいだ。

 

次に言いたい事は、教会は家ではない。教会は教会なのだ。教会に住んで居るからと言って教会家族が全てを好きに使っていいという場所ではないのである。特に神殿は特別な場所だ。この撮影をするにあたって、ちゃんと信者さん達の許可は取ったのだろうか?「実家」というタイトルをつけているあたり、十中八九そんな話しはされていないと推察する。

 

僕たち現代の信仰者はそれが当たり前であるばかりに、雑な扱いをしている部分が多い。これは僕自身、大いに反省すべきところである。しかしながら、もっと問題なのは雑に扱っている事に気づかないという事ではないだろうか。もう少しそこら辺の感覚と向き合うべきなのかもしれない。

 

それにしてもこの動画が有りだと思う信仰者が思いのほか多い事には驚きである。神殿という場所が神の聖域という感覚から人間の領域という感覚にシフトしてきているのだろうか?これが良い事なのかどうかは判断しかねるが、神殿はおぢばの理を拝戴した神実様をお祀りしている場所である事を鑑みると、それなりの敬意と節度を持った配慮がなされるべきところであるのではないかと思う。可愛いおばあちゃんが出てくる動画は神殿じゃなくても撮れるし、素敵な家族の動画は神殿じゃなくても撮れる。

 

 

神殿という場所と真摯に向かい合える信仰者で僕はいたい。

 

 

 

 

 

教会長交代時に配慮されるべき事!!

皆さんこんにちは!!

 

今回のテーマは「教会長交代時に配慮されるべき事」です。よろしくお願いします。

 


教会長交代は前任教会長、新任教会長はもちろんの事、その教会に繋がるよふぼく、信者の方々にとっても、とても大きな節目ですよね。

 


前任者、新任者、教会役員などの人たちは、講習会やお運びなど、それに向けてやるべき事が盛りだくさんなので、比較的心の準備をする期間があり、実感も湧きやすいと思います。それに比べて、その他のよふぼく、信者の方々は、それに向けてやるべき事があまりなく何処他人事のような感じになりがちなのではないかと思います。

 


しかし、この大きな節目を円滑にする為にはそういう方々の意識的転換はとても大切だと思います。なので、今回は、僕の経験からこうした方が円滑な節目にできるんじゃないかな?と思う事をシェアしていきたいと思います。

 


まず、大切だなぁと思った事は引き継ぎです。これは当たり前過ぎるほど当たり前な要素なんですが、意外と引き継ぎがなあなあになってたり、前任者から全く引き継ぎがないケースも多いのではないかと思います。

 


現に僕が教会長になった時、前任者は僕の祖母だったのですが、引き継ぎは全くありませんでした。まぁ引き継ぎがなくても何とかなるといえばなりますが、あった方が新任者の負担はかなり軽くなると思います。なのでこれから交代される方々は、新任者の方にしっかりと引き継ぎをしていただけたらと思います。引き継ぎが教会長としての最後にやるべき仕事なんじゃないかなと思います。

 


中には、交代したにも関わらず、新任者に教会運営に必要な通帳や書類を渡さない方々もいるようですが、法人名義のものは、個人のものではなく、教会のものなので、任が解かれれば速やかに新任者の手に渡らなければならないものだと思います。

 


続いて大切だなぁと事は、ある意味これが最も大切だと思うんですが、認識の転換です。お運びが終われば新任者が教会長です。これは凄く当たり前の事なんですが、教会に繋がるよふぼく、信者の方々は日頃の習慣から前任者が教会長という認識がなかなか転換されません。特に古参信者の方々はなかなかです。長い人は一年くらい、前任者を会長さんって呼ぶ人もいます。前任者を会長さん、新任者も会長さんって呼ぶから会長さんが二人居る事になるし、どっちに呼びかけてるか分からない時もあってややこしいですよね。長年の習慣を一気に変えるのはなかなか難しいと思いますが、何とか努力して出来るだけ早く変えてあげてほしいと思います。

 


まぁこの現象の大きな要因は前任者と新任者が教会で同居するケースが多い事だと思います。教会それぞれに状況が違うのでなかなか難しいと思いますが、僕はベストな解決方は前任者が教会から出る事だと思います。出来ない場合は、相当配慮してあげないと新任者はやりづらいと思います。

 


たまに我、覇者なりみたいな顔で教会に君臨する前任者の話しを耳にする事がありますが、そもそも教会長は覇者ではないですし、ましてやもう任は解かれているわけですから出来るだけ早く勘違いに気づいてほしいと思います。

 


余談ですが、前任者を親会長や前会長と呼ぶ習慣も僕はどうかと思います。前任者に役職名を付ける必要はないと思います。敬われるべき存在ではありますが、教会の芯はあくまで教会長なので、変に誤解を生むような呼び方はしない方がいいんじゃないかなぁと思います。

 


以上が僕の経験から思った、教会長交代時に配慮されるべき事です。

 


最後に、これはちょっと生々しい話しになりますが、教会長になるのってかなりお金が掛かるんですよね。系統によって大分差があるみたいですけど、僕の時はちょっと引くくらい掛かりました。それは教会に繋がるよふぼく、信者の方々の真実で賄われます。僕たち教会長はそういう真実の上に教会長の任を任されているわけですから、その事を心に刻んで常に陽気で明るい教会の芯であれるよう尽力するべきだと思います。

 


寄り来る人たちみんながハッピーになれるような教会をお互い目指したいですね。

責任は誰がとる!!

 

僕が教会組織界隈で最も違和感を感じる感覚は、「やらなければしょうがない。」である。

 

この言い回しは本当によく耳にする。

 

信仰やらなければしょうがないなんて事はない。あるはずが無いのである。何故ならば信仰は自ら選択して行なっているものだからである。

 

自分の信仰に誰が責任を取ってくれようか。自分しか取れないのだ。

 

このコロナ禍、教会行事を例年通り挙行している教会の噂をたびたび耳にする。しかしながら、これらの行事が成立しているのは参加者がいるからである。参加するかしないかの選択権は参加する側にある。よって万が一、クラスターが発生した場合、その責任を問われるのは参加者全員である。

 

某行事で「責任は教会長が取ってくれます。」と息巻いた奥さんがいたらしいが何とも滑稽な話しである。他者の人生にどう責任を取るというのだろうか?そもそも取れると思っている事自体が傲慢であるし、その言葉を聞いて安心する人がもしいるとするなら、その人はきっと自分の人生を生きていない人である。

 

そもそもこれだけ本部行事が軒並み中止になっている現状において、例年通り教会行事を行なえている現象が不思議である。教会の主だったポストにある人たちのなかに「今年は自粛しましょう。」と言う人が一人も居ないのだろうか?居ないのであれば、その人たちの辞書に責任感という言葉はないのであろう。

 

起こった事象に対しての責任は参加者にあるが、その事象が起こるまでのリスク管理に対する責任は運営側(教会)にある。行事を成立する為には人を集めないといけない。その人を集める呼びかけをした人たちも運営側の責任は果たすべきであろう。そうであるなら、「自粛しましょう。」という意見が出ても何の不思議もない。

 

教会長のワンマン運営が成り立っている教会も一定数あるようだが、信仰を実践する場においてワンマン運営が成立している方が不思議である。教会は信者さんの親への孝心の理によって成立している。教会長なんて親を出汁にしているニートである。そんな奴に何をビビる必要があるだろうか?

 

確かに教会設立は神の働き無くしてあり得ない。神の働きを得る為の徳積みの道中は並々ならぬものであると思う。であるならその教会を設立した人の通り方は信仰者として見習うべきものである。しかしそれとて教会設立においてはその人一人の徳とは言い切れない。そこに寄り集った人々の徳と言えるだろう。

 

これは余談であるが、初代会長を神格化する教会が一定数ある。確かに初代の通った道中は並々ならぬものであると思う。その道中の上に僕たちの今がある事も事実である。しかし、それを苦労と認識して必要以上に敬い、神格化する必要は信仰においてはない。初代は苦労などしていない。何故なら信仰はする、しないを選択できるからである。苦労とは選択肢が一つしかない。それを選択しなければ生きていけない人にのみ成立する状態である。よって本教において苦労が当てはまるのは、おやさまとその家族のみであろう。他の人たちは信仰すると自ら選択し、その道に突っ込んできている。それを苦労とは呼ばない。

 

初代会長の努力と労力は凄まじいものだと思う。しかしながら、二代、三代など引き継いだ者たちは、出来上がっているものに乗っかっているだけである。そんな奴に何をビビる必要があるのだろうか?

 

「神様に喜んでもらう為に」。そんなのは当たり前の事なのだ。しかし、その形は千差万別なのだ。信仰の形は皆違うのである。信仰者の集まりである教会という場所でワンマン運営が成り立っていると言う事がその教会に繋がっている者たちの怠慢以外のなにものでもない。僕はそう思う。

 

教会長は人間なのである。教会長が「神様が喜んで下さる。」と言っても、実際本当に喜んでくれているとは限らないのである。喜んでくれているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。確率は50;50である。

 

教会長が思っている事=親の思っている事ではない。これが真実である。だからこそ僕たち信仰者は模索しなければならないのだ。本当の親の思いを。それをしなくなった教会はもはや教会ではない。

 

自分の信仰に責任を取るのは自分だ。それが信仰であり、人生である。コロナ禍はそういう部分をも浮き彫りにしている。

 

最後に、以上は僕の私的認識による見解である事を申し上げて終わりとする。

 

 

 

 

「八つの埃を科学する」を視聴して!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は、先日大教会当番の時に勧められたYouTube動画 陽気チャンネル正代分教会長 茶木谷吉信先生「八つの埃を科学する」を視聴してのプレビューを備忘録として綴ります。

 

この記事は自分自身が動画の内容を自分の中で整理する為の言語化であり、この内容=動画の内容とはならないという事を前提としてお読みくだい。

 

それではよろしくお願いします。

 

今回視聴した動画のテーマは八つの埃でした。茶木谷氏曰く、八つの埃を題材とした本を書く人が誰もいない。だから八つの埃に対する悟りは100年余り殆ど変化していない。これは現代人の怠慢だ。と語られています。確かに、この八つの埃は理解しているようで理解できていない教理であると思います。これはつまり、自分の中には落とし込めているが、これを言語化できない。他者に説明できない。という事だと思いました。実際、茶木谷氏も動画の冒頭で「自分自身も余りできていない。」と語られています。

 

八つの埃は信仰生活の核となる教理です。しかしながら、そこを掘っていく、つまり本質を理解しようとする作業をする人はたぶんそんなに多くは無いと思います。故に、何となく理解している状態のまま生活している。しかしそれでは、八つの埃を払う事はできないと思います。実際茶木谷氏もそういう主旨の事を言われていました。

 

今回視聴した動画は、それ自体が十分分かりやすいです。今回のブログは僕自身の思考の整理の為の記事なので、分かりやすい説明を希望される方は是非動画をご視聴ください。

 

https://youtu.be/EQSn9UxGSuM

 

天理教の人なら誰もが知っている。八つの埃。これを知らずして信仰生活を送る事など不可能です。

 

をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん。

 

これらの八つは二種類に分類できるそうです。

 

ものを掻き寄せる時に生じる埃ものを離す時に生じる埃。

 

ものと自分の関係性には三種類しかないそうです。自分に近づいてくるもの、自分から離れていくもの、自分との距離を一定に保っているもの。

 

氏曰く、をしいほしい親戚だそうです。

をしいとは物理的なものが離れていく時に生じる埃。ほしいとは物理的なものを掻き寄せる時に生じる埃。この場合、ものと自分の関係性はをしいについては自分から離れていく。ほしいについては自分との距離を一定に保っている。という状態だと思います。つまり、自分から離れようとするものがある時、自分に近づいて来ないものを掻き寄せようとする時に生じる埃なのだと理解します。

 

氏は親戚という表現をされましたが僕は対なるものという印象を受けました。

 

次ににくい、かわい。これも対の関係になります。

にくいとは精神的にものを離そうとする心遣い。かわいとは精神的にものを引き寄せ離さない心遣い。この場合、ものと自分との関係性は、自分に近づいてくるになると思います。つまり、自分に近づいてくるものを拒絶する、または抱きしめて離そうとしない時に生じる埃なのだと思います。

 

これは僕の考え方ですが、正確にいうとかわいという感情自体は埃ではないと考えます。何故なら自分を可愛いと思う、自分の子供を可愛いと思う感情は生きていく上で必須であるからです。おやさま自分が可愛いと思う心を戒められているのではなく、自分が可愛い一条の心を戒められていると理解します。一条、つまりこれだけという精神を戒められていると思います。

 

次にうらみはらだち。これらの根源は怒りだそうです。怒りという感情をどう処理するかによって変わってくるそうです。現代風に表現するとアンガーマネージメントだそうです。

 

怒りの感情を溜め込むとうらみになり、発散するとはらだちになるそうです。閉じ込める解放するかです。

 

次によくこうまん。これらには埃になる条件があるそうです。「第三者の目線」です。動画ではメタ認知という表現をされていました。要は身の程を知るという事だそうです。

 

これは僕の考え方ですが、これらの埃は自分自身で認識する事が不可能だと思います。自分を俯瞰的に観察する事ができれば、自分自身で認識する事も可能なのかもしれないですが、僕は、自分を100%俯瞰的に見れる人間はこの世に存在しないと思っています。それは人間は自分を正当化する生き物だからです。故にここでは、よく、こうまんの埃は自分自身で認識する事は不可能であるとします。

 

いやいや、じゃあ自分に埃が積もってるか分からんやん!!

 

って人がいると思いますが、大丈夫です。おやさまはそれでも認識できる方法をちゃんと教えて下さっておられます。

 

世界は鏡。

 

この世界は自分の心通りの姿が写るようになっています。つまり、自分の周りの人たちを見れば自分に埃が積もっているかどうか認識できるという事です。例えば、周りにあの人こうまんやな〜って人はいませんか?もし居るならそれは自分がこうまんだからそう感じるのです。

 

周りを見渡せば、あの人、欲深いなぁ〜とかあの人こうまんやなぁ〜って人は一人は必ずいます。つまり、よくこうまんの埃は常に積んでいると認識して間違いないと思います。もし一人もそういう人がいないというのであれば、それは自分自身によく、こうまんの埃がないと思ってもたぶん大丈夫です。

 

八つの埃は内の属性を持つものと外の属性を持つものに分類できるそうです。

 

をしい、かわい、うらみ、よくは内の属性。

ほしい、にくい、はらだち、こうまんが外の属性。

 

更に根源となる要素は三種類に分類できるそうです。

 

をしい、ほしい、にくい、かわい執着。

うらみ、はらだちアンガーマネージメント。

よく、こうまんメタ認知

 

執着を取り払うには今あるものや環境に感謝する事であると語られています。

 

アンガーマネージメントを上手にするコツは自分を顧みる事だそうです。怒りを他者に向けるのではなく、自分を顧みて反省する。これは慎み。

 

メタ認知身の程を知る事により、無理をしない。変な頑張り方をしない。これはたすけあい。

 

結論

 

感謝、慎み、たすけあいの心で日々を通れば、埃は自然に払われる。

 

氏曰く、「よくおつとめをすれば、ひのきしんをすれば埃が払われると教えられるがそんな事は無い。いくらおつとめをしてもひのきしんをしても上の空であったり、不足しながらでは埃は払えないどころか、逆に埃を積んでしまう。感謝とたすけ心でおつとめをし、ひのきしんをするからこそ埃は払われる。

 

僕もそう思います。おつとめやひのきしんはどういう精神でやるかが最も大切な事なのに、そこの説明が端折られているケースが非常に多いです。つまり、訳も分からずやっているケースです。それでは、100%の効果は期待できないと思います。何故やるのか?を理解してしっかり意識する事がとても大切であると思います。

 

今回は、「八つの埃を科学する」という動画を視聴して自分の中に落とし込む事を目的としての言語化が主な目的ですが、これが皆さんの教理理解の一助となればと思いシェアします。

 

お役に立てれば幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

感覚とセンスと努力!!

 

 

物事や技術を習得する事において感覚やセンスの良さといった要素は重要である。

この感覚やセンスの良さといった要素は先天的な要素なので、努力でどうこうなるものではない。ただ、こういう要素が重要になるのは最高水準の技術を習得する場合である。世の中で最高水準の技術が必要なケースは極めて少ない。もちろんある一定水準の技術は必要ではあるがそれは万人が到達できる水準である。そのある一定水準のレベルにおいて感覚やセンスの不足は洞察力、判断力、経験などの要素で十分に補う事ができるし、これらの要素は後天的なものなので自分自信の努力で高めていく事が可能だ。逆に言えば、ある一定の水準の技術を習得するまでは、感覚やセンスの良さといった要素は殆ど関係ないと言ってもいい。よく感覚やセンスの悪さを嘆いている人がいるが、そういう人の殆どがある一定の水準にすら達していない。これはつまり、自分の努力不足を感覚やセンスという要素を言い訳にして正当化しているのだ。ただ怠惰なだけなのである。

 

確かに努力しても自分がイメージするだけの水準に到達できない事はある。しかしながらそれは、努力の仕方を間違っているか、あるいはその水準に達す為の努力が不足しているだけである。人の感覚は千差万別、十人十色である。全ての人が同じやり方でできるようになると考える事自体がナンセンスである。自分の感覚に合った努力を模索し、正しい努力をしなければいつまで経っても水準は上がらない。この模索する作業はなかなかに厄介であるし、周りの人たちの理解、つまり環境という要素も絡んでくる。よって正しい努力をできている人は極めて少ない。また、同じ水準に到達する為に必要な努力の量は人それぞれ違う。故に同じだけ努力してもその水準に達する事ができる者とできない者が分かれるのは当然なのである。

 

そもそも、感覚やセンス良さといった要素は人間誰しもが持ち合わせている。ただ自分がどの分野においての感覚やセンスの良さを持ち合わせているのかを自覚している人は極めて少数である。この現象の最も大きな要因は教育である。日本はそれを自覚できるようになるような教育をしない。しかしながら近年は教育の仕方も変化しつつあるので、自分がどの分野において感覚やセンスが良いのかを自覚できるようになる人たちはこれから増えていくだろう。ただ、自分が感覚やセンスの良さを持ち合わせている分野が必ずしもその本人にとってやりたい事、楽しい事とは限らない。結局人間は心で生きていく生き物なのだ。故に水準を上げるのに最も大切な要素は感覚やセンスの良さではなく、やりたいかやりたくないか、楽しいか楽しくないかである。物事を楽しむ為に必要な事。それは余白、余裕である。物事を楽しむ為には、その物事を味わえる冷静さが必要で、その冷静さに余裕は必須である。楽しいからこそ人は更なる楽しさを追い求め、その結果として水準が上がっていく。つまり、水準が上がらないのは楽しんでいないからとも言えるのである。

 

最後に、感覚やセンスの悪い分野において、努力だけで最高水準に達する事ができるか否か。不可能では無いと思う。この世に不可能な事はたぶん無い。もし不可能な事があるとするなら、それは自分自身が不可能だと決めつけているもののみであろう。

 

正論は剣ではなく盾であるべき!!

伊藤健太郎(23)ひき逃げで逮捕!!

 

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6375010

 

最近のワイドショーはこの話題でもちっきりだ。大の大人たちが正論という剣を振り回して言いたい放題である。

 

僕は正直。この話題がイマイチピンときてない。伊藤健太郎氏の知名度が僕の中で低すぎるくらい低すぎるからである。何故こんなに騒がれるのかが???である。

 

まあ何はともあれひき逃げは犯罪である。たとえ不意な事故だとしても運転手は被害者を救助する義務がある。そんな事は誰でも知っている。正に正論なのである。

 

しかしながら、正論を現実に体現できるか?と問われればである。人間には心があり、その心は目紛しく変化するからだ。

 

事故とは不意に起こるから事故なのである。これから事故起きますよって誰かが教えてくれたら伊藤氏ももっと紳士的な対応を思案できただろうが、そんな事はありえない。

 

人間はとかく不意に起こる事象の対処に冷静さを欠くものである。巷の若者たちが言う所謂テンパるという状態だ。事故発生直後、伊藤氏もさぞやテンパった事だろう。この平和な国日本で、何不自由なく育った23歳。テンパらない方がヤバい奴である。まぁヤバい奴である可能性も否めないが。。。

 

人間には自分を防衛しようとする本能が潜在的に備わっている。故に冷静さを欠いた人間はとにかく自分を守ろうとする。この本能がこの場合、現場から立ち去るという選択肢を選ばせたのだろう。

 

僕がもし、23歳で伊藤氏と同じ状況になったとしたなら90%の確率でその場から立ち去るだろう。これはあくまで23歳だったらという想定の話である。around 40である現在は、不意な事故にも冷静に対応できるくらいの経験をおそらく積んでいると思うので、立ち去らないとは思うがその自信はあまり無い。

 

調子に乗っていたとか天狗になっていたなんて報道もあるが、それと今回の事故は関係ないし、23歳で周りからチヤホヤされたら誰だって調子に乗るし、天狗になる。少なくとも僕にはその自信がある。正常範囲内の事である。

 

とは言ってもやはりひき逃げは犯罪であるし、擁護する気はさらさらないが、この話題を正論を武器に騒ぎ立てるいい年をした大人たちはいただけない。ひき逃げをした伊藤氏と同じくらい残念な人たちである。

 

大人たちは正論を振りかざす。そして正論ほど人の精神を追い詰めるものはない。このSNS時代。正論に追い詰められて自ら命を絶つ若者が何人もいるというのに、それでもまだ正論で若者を追い詰めようとする大人たちは頭がピーマンなのだろうか?

 

もっとよく考えて、正論を振りかざすのは程々にしてほしいものだ。

 

 

 

 

 

天理教の教会及び信者子弟は天理教をしなければならないのか?

皆さんこんにちは!!

 

今回は天理教の教会及び信者子弟は天理教をしなければならないのか?」について僕の私的見解を備忘録として綴ります。

 

天理教の教会及び信者子弟は天理教をしなければならないのか?

 

僕の見解は必ずしもしなければならないという事はないです。

 

そもそも親が信仰している宗教をその子供が必ずやらなければならないという考え方自体が宗教的にはナンセンスです。

 

僕たちが住むこの日本という国には、信教の自由という権利法律で定められています。

 

日本国憲法 第20条

 

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

 

何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 

国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

信教の自由は国民一人一人に与えられている権利です。それはたとえ親子であろうと侵す事はできません。

 

しかしこれはあくまで宗教的な見解ではという事です。信仰的な見解ではという事になるとまた別の話です。

 

そもそもこんな法律を盾に信仰は自由なんだと主張する方々は宗教信仰混同しています。

 

宗教信仰似て非なるものです。よって信教の自由があるからといって信仰をしなくてよいという結論に至るのは信仰的にはナンセンスです。

 

自分が天理教という宗教をしているのか?天理教を信仰しているのか?この感覚の違いには雲泥の如き差があります。これは個人の価値観の問題なのでどちらが良い、悪いではないですが、自分がどちら側にいるのかを見つめ直してみるのもいいかもしれません。

 

では、宗教信仰本質について考察していきたいとと思います。

 

宗教とは人間が創り出した概念です。この概念の主体は人間です。つまり宗教という概念は人間を基準に成立しています。神<人間です。何故なら人間が神という概念を創ったという思考が核にあるからです。これが宗教の本質です。

 

信仰とは人間に芽生えた概念です。この概念の主体は人間では無い何か(神)です。つまり信仰という概念は神を基準に成立しています。神>人間です。何故なら神が人間を創ったという思考が核にあるからです。これが信仰の本質です。

 

信仰的な思考では基準はにあります。この世で起こる全ての事象は神の御技と考えます。もちろん人一人がこの世に生を受ける時間や場所、環境もです。つまり、信仰的天理教の教会及び信者家庭に生まれた意味を模索する時、そこには神の意図が必ずあると考えます。よって信仰的に今回のテーマを思案するなら、信仰すべきである。という見解が妥当です。

 

しかしながら、信仰する事が苦痛であるなら、無理に信仰する必要はないと思います。信仰しないからといってそれはあなたのせいではありません。信仰心芽生えるものです。もしあなたにその信仰心の芽生えがないならそれは、芽生えない本人に原因があるのではなく、芽生えさせてあげられない周りの大人たちの通り方に原因があると考えるべきです。

 

どんな事にも言える事ですが、人間が興味を持つきっかけは凄くシンプルです。

 

楽しいそうか。楽しそうじゃないか。

 

周りの大人たちが信仰の喜びに溢れて、日々楽しそうに信仰していれば、それを見て育つ子どもたちは信仰に興味を持つと思います。

 

逆に、周りの大人たちが悲壮感を漂わせながら、信仰していれば、それを見て育つ子どもたちは信仰を敬遠するようになるでしょう。

 

今盛んに教内で叫ばれている人材育成。その背景には、次世代の信仰離れがあり、その信仰離れの背景には、悲壮感漂う信仰が少なからず影響しているのではないかと思います。

 

やはり、なんだかんだ、信仰を楽しんでいる姿を見せる事が一番のにをいがけになるんじゃないかと思います。

 

おしまい!!