離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

子、孫視点から観る 嫁姑問題!!

 

皆さんこんにちは!!

 

僕です!!

 

雨降りの週末いかがお過ごしですか?

今回は僕が日々お母さんとおばあちゃんの関係を観察する中で感じる 嫁姑問題 について綴っていこうと思います。

 

目次

 

 

【嫁姑問題】

 

どんなに時代が移り変わろうと巻き起こる問題、それが、嫁姑問題ですよね。まさに 人類の永遠のテーマ と言っても過言ではないくらいどの時代も人はこの問題に頭を悩めてきました。

 

教内においても、この問題は非常に深刻な問題です。離婚という価値観が社会的地位を確立しつつある現代社会、この嫁姑問題で別居または離婚する教会長や教会子弟も少なくないと思います。

 

この問題は、嫁姑だけではなく、家族全体や若年層育成という側面においても影響してくる問題です。なのであまり軽く考えるのではなくもっと大々的に取り上げるべき問題だと思いますが、教内の感覚では比較的軽く考えられる傾向があると僕は感じます。

 

【姑】

 

これは僕のおばあちゃんを観察する中での僕の感想なので、そこを理解していただきたいのですが、おばあちゃんは自分がピラミッドの頂点だと考えているのだと思います。そして、自分の息子をかなり美化して捉えています。なので、自分と自分の息子に刃向かう嫁という存在をうっとしいと思う傾向があるようです。

 

特に天理教では、親孝行の思想が強く、親に意見することを悪と考える傾向が強いです。なので、特に、天理教の教会や熱心な信者の家に嫁がれている方々は信仰的にも逃げ場のない状況になるケースが往々にしてあると思います。

 

【嫁】

 

僕のお母さんを観察していて思うことは、基本的に人の意見を聞かないです。自分の意思を押し切る所謂、我が強いタイプです。だから、姑に何を言われても我が道を行きます。だから常に反発し合ってます。

 

新しい世代の人たちは古い世代の人たちの考え方ややり方を否定する傾向が強いです。なので、姑に言われても、今はそんな時代ではない。 と思う傾向が強いのかな?と思ったりします。

 

 

【ジェネレーションギャップ】

 

ひと昔前の結婚観は、結婚を家対家の行事として捉えられる傾向が強かったですが、最近は個人対個人の行事として捉える傾向が強まってきていると感じます。なので嫁は旦那と結婚したのであって、その両親の面倒をみる為に結婚したのではないと考える傾向が強まりつつあるように感じます。

 

結婚を家を 引き継いでいくこと という思想で育った人と 新しい自分たちの家族を創ること という思想で育った人の 価値観の隔たり はかなり大きいです。

 

【親孝行】

 

天理教内でこの嫁姑問題を治めようとする時、真っ先に説かれるのが、親孝行 です。どんな中も、親を立てて たんのう して通りなさい。僕のお母さんもよく上級教会の奥さんに言われています。

 

しかし、僕の観る限りでは、お母さんは日々かなり たんのう していると思うし、口ごたえ はしますが、行動はかなり 親孝行 です。なのでそんな人に 親孝行 して たんのう して通りなさい。なんて言ってしまうと、逆にその人を追い詰めてしまうと思います。幸い僕のお母さんはアイアンスピリットの持ち主なので、何も問題になってないですが、弱い人は精神的に追い込まれていくと思います。

 

 

【諭すべきは両方】

 

 

天理教は、親孝行 の思想をかなり拡大解釈している傾向があると思います。なので、嫁姑問題で諭されるのは基本的に嫁の比率がかなり高くなります。下手をすると、姑にはお咎めなしみたいなケースも少なくないです。

 

確かに 親孝行 は大切です。しかし、それは子どもからの視点においてです。親 からの視点で親孝行の大切さを説いてはいけないと思います。そして、姑にもしっかり 子を満足させることの大切さ を説くべきだと思います。

 

せんしょのいんねんよせてしうごふする

これハまつだいしかとをさまる(1-74)

 

です。お互いが いんねん  の自覚ができるような諭しをしてあげるべきだと思います。

 

お母さんのやり方におばあちゃんがクレームをつける時があります。また逆のパターンもあります。僕が聞いている限り、どちらも間違ってないです。ただやり方が違っているだけです。ただ2人共自分の意見を他者に押し付けようとする傾向があります。他者には他者のやり方があります。問題が起こらない範囲内であれば、関与しないというマインドも必要だと思います。

 

【最後に】

 

僕は、ある講社でこんな話をさせていただいたことがあります。

 

天理教では、一般的に、親孝行の思想が強く、親に意見することは、あまり好まれない傾向が強いです。

 


しかし基本的には、人間は皆きょうだいです。おさしづでは、

 


可愛から口説き話やで。しっかり聞き取れ。これ言えばどうやら、これ言えば入り難くい出難くいというようでは真のより兄弟と言えるか。遠慮気兼人間の義理を病むは一のほこり、悪気とも言う。さあすっきり掃除、明らかならばどんな雨風でも怖わい恐ろしいは無い。すっきり掃除をして心に錠前を下ろして置け。遠慮気兼は要らん。すっきり要らん。遠慮気兼はあってはどうもならん。遠慮気兼あっては真の兄弟と言えるか。互い/\の疑いは神の理やない。このやしき神やしきと言う。どのようにも言う。皆伝えるよう。すっきり掃除が出来ねば寄る理は無い。大抵の道は説いてある。

(明治二十四年十一月十五日)

 


と言われています。

 


なので思ったこと、言いたいことは言えばいいと僕は思います。

 


ただ、相手に不足ささないよう心を配る必要はあると思います。相手に不足させるのは自分が不足するより深いいんねんを積むことにも繋がります。

 


おさしづに

 


皆来る者優しい言葉掛けてくれ/\。道には言葉掛けてくれば、第一々々やしきには優しい言葉第一。何も知らん者、道はこんなものかと思てはならん/\。

 


と言われています。

 


相手に不足させないよう優しい言葉で、お互いがお互いを尊重し、わかり合うようつとめることが陽気ぐらしにも繋がると思います。

 


お互いに、親神様、おやさまにお喜びいただけるような通り方をさせていただきましょう。

 

人間は一れつ皆きょうだいです。高低の概念を用いて相手を変えようとする諭しではなく、お互いが成人できるような悟りをさせていただきましょう!!

 

僕の日々の生活で感じたことを綴っていますので、全てのケースに当てはまる見解ではないことをご理解いただき、こんな考え方もあるだな! くらいで受け止めてくれると嬉しいです。

 

ご拝読ありがとうございました。