離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

僕の教理研究⑥

皆さんこんにちは!!

 

今回は僕の教理研究⑥をお届けします。

 

今回は、天理教の信仰において大切な三つのかどめ、朝起き、正直、はたらき について、掘り下げて考えていきたいと思います。この三つが意味するところは何なのか? という事を自分なりに思案して紹介します。

 

どうか暖かくお見守りください。

 

目次

 

 

【逸話篇】

 

この三つのかどめは逸話篇で紹介されています。

 

1つ目は、逸話篇 29 三つの宝 飯降伊蔵 本席さまに おやさま が諭されているお話です。

 

逸話篇 29 三つの宝

 

  ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、

 

「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」

 

と、仰せられた。

 

    伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、

 

「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」

 

と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、

 

「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」

 

と、仰せられた。

 

伊蔵は、生涯この教を守って通ったのである。

 

2つ目は、逸話篇 111 朝、起こされるのと の中で、飯降よしゑさんへ諭されています。

 

逸話篇111 朝、起こされるのと

 

   教祖が、飯降よしゑにお聞かせ下されたお話に、

 

「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのはその身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。」

 

と。

 

僕はこれらの逸話を拝読して、この 三つのかどめ  は、その行為が大切だという側面と、例えとして 大切な精神 を説いている側面があるのではないかと考えます。

 

 

【朝起き】

 

まず、朝起き について考えていきたいと思います。

 

朝起き! 読んで字の如く朝、起きる事だと思います。意味的にはそういう意味だと思います。ただ、朝起きる生活習慣にない人たちがいます。

 

そういう人たちは朝起きの実践ができない事になるのか?

 

という疑問が生じます。僕はそんなことはないと思います。そういう人たちにも実践できるように おやさま は説かれているはず!!

 

という仮説から 朝起き という言葉に隠された信仰的に大切な精神を考えていきたいと思います。

 

まず、朝起き という行いに必要な要素。

 

  • 目覚める。
  • 朝であるという事を認識する。
  • 起きようと決心する。
  • 自分の眠たいという欲求に打ち勝つ。
  • 起き上がる。

 

これを信仰生活に当てはめて考えると、

 

  • 目覚める。→ 親の思いを悟る。
  • 朝であるという事を認識する。→ 時間、時期の把握。→ 旬を読み取る。
  • 起きようと決心する。→ 心定めをする。
  • 自分の眠たいという欲求に打ち勝つ。→ 自分の中の甘さに打ち勝つ。
  • 起き上がる。→ 心定めを実行する。

 

という事に繋がるのではないか?という仮説に行き着きました。

 

また、逸話篇 111 朝、起こされるのと の中で、朝起き について、

 

朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。

 

と おやさま は語られています。これは、自発的に行うことと他者に促されて行うこととでは大きく徳、不徳に分かれるで。という解釈もできると思います。

 

これらのことから 朝起き に込められた信仰において大切な精神は、自ら求めて、親の思いを悟り、旬の中でしっかり心を定め、甘えることなく、実行すること。即ち、やるべき時にやるべき事をやる精神。と解釈します。

 

【正直】

 

次に、正直 について考えていきたいと思います。正直の言葉の意味は、

 

正しく素直で、偽り・ごまかしをしない性質・態度。

 

だそうです。

 

おふでさきには

 

月日にハうそとついしよこれきらい

このさきなるわ月日しりぞく(12-113)

 

と歌われています。

 

また、おさしづでは

 

さあ/\正月二十六日と筆に付けて置いて、始め掛けた理を見よ。さあ/\又正月二十六日より、やしろの扉を開き、世界ろくぢに踏み均しに出て始め掛けた理と、さあ/\取り払うと言われてした理と、二つ合わして理を聞き分けば、さあ/\理は鮮やかと分かるやろ、と。よく聞き分けてすれば、分からんやあろまい。世界ろくぢに踏み均しに出て居る。疑いもあろまい。なれど疑い心があるなれば、尋ねて見よ。神は幽冥と思うやろ。幽冥と思うなよ。五十年以前の道の理を思案して見よ。神は嘘と追従これ嫌い。(明治22年3月10日)

 

と語られています。

 

嘘とは、事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽  り。

 

追従とは、他人の気に入るような言動をすること。こびへつらうこと。また、その言動。

 

だそうです。

 

これらのことから思案すると 正直 に込められた信仰において大切な精神は 誠の心 だと解釈します。

 

逸話篇 111 朝、起こされるのと では

 

蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのはその身が嘘になるで。

 

と諭されています。

 

日々、しっかりと教えを実践し、八つの埃を払い、自分を良く見せようとしたり、相手から良く見られようとする心や言葉遣いをしないよう、自分の心と向き合い、陰、日向なく、心と言葉と行動が一致するような通り方をすることが大切であると諭されているのだと考えます。

 

【はたらき】

 

最後に はたらき について考えていきたいと思います。はたらき について おやさま は、逸話篇 197 働く手は の中で、

 

働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽·ハタラク)と言うのや。

 

と、諭されています。

 

また、逸話篇 111 朝、起こされるのと の中で、

 

もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。

 

と、諭されています。

 

この側楽については以前書いたブログ、側楽について考える の中でも紹介しましたが、

 

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2019/05/22/215815

 

目くばり!気くばり!心くばり!

 

これらの精神が大切なんじゃないかな?と思っています。

 

周りの状況を観察して情報を得る!!

 

その情報から何が必要とされているか気づく!!

 

その気づきから何をすれば周りが楽になるか判断し、実行する!!

 

この精神はつまり、人を思う心!人に尽くす心!だと思います。

 

即ち、人をたすける心! に通じるのではないかと考えます。

 

おふでさきには、

 

いまゝでハせかいぢううハーれつに

めゑ/\しやんをしてわいれども(12-89)

 

なさけないとのよにしやんしたとても

人をたすける心ないので(12-90)

 

これからハ月日たのみやーれつわ

心しいかりいれかゑてくれ(12-91)

 

と歌われています。

 

人をたすける精神が広がっていくことが たすけあい に繋がっていくと思います。たすけあいの精神 が 陽気ぐらし に繋がっていく精神だと考えます。

 

【最後に】

 

今回の内容をまとめると、しっかりと  の思いを悟り、日々、教えを実践し、旬の中で心を定め、自分の甘さに負けることなく、誠の心でたすけあいの上に心定めを実行する。

 

もっとザックリ言うと、たすけあいの上に誠の心で、やるべき時にやるべき事をやる精神。

 

これが、お道の信仰生活のかどめなのかな!?と感じました。

 

あくまで個人の見解ですし、僕の主観的偏見がかなり入っていると思いますが、こんな考え方もあるんだな〜 くらいで ゆ〜るく 受け取ってもらえると嬉しいです。

 

ご拝読ありがとうございました。