あなたのうちのお嫁さんこそ、Standard in Japan!!
皆さんこんにちは!!
今回は、うちの嫁はほんとにダメな嫁だ と思っている日本の 姑 さんに捧ぐブログ!!
題して「あなたのうちのお嫁さんこそ、Standard in Japan!!」をお届けします。
全国の 姑 さんに問います。
いい嫁ってどんな嫁ですか?
優しくて気が利く、自分(姑)を大切にしてくれる、私(姑)の言う事に逆らわない、息子(旦那)を立ててくれる。
挙げればまだまだあると思います。
ハッキリ言いましょう。現代社会にこういう性質を持つ女性が育つのは極めて稀です。
ひと昔前の日本では、女性の美学として奥ゆかしさがありました。それは、日本の国内のトレンドとして、そう教育する風潮が蔓延していたからです。よって何の疑いもなく、
良い女性=奥ゆかしさ という構図が成立していました。そしてそれが日本独自の 女性観 を形成していました。
しかし、現代は 奥ゆかしさ という美学は既に、崩壊 しています。寧ろ、自分の意思を主張する事が良い事とされ、そう教育されています。よって、姑 さんの言いなりになるような女性がお嫁さんに来る可能性はほぼ皆無です。もし、そんな女性がお嫁さんとして来たとしたら、それは、アマゾン で 絶滅危惧種 に遭遇したくらいの幸運です。
現代日本は、人権を尊重する思想を特に重んじています。それは、男性 も 女性 も皆平等にしあわせになるべきという考え方を スタンダード なものにしました。それはそれで、とても良い事であると同時に、女性 が 男性や家族 を支えるという美学を喪失させました。
つまり、女性 のしあわせが 男性や家族を支える事 という考え方が スタンダード だった時代は既に終わっています。
そしてそれは、家族の繋がりや絆 を崩壊させました。全てが平等であるべきであるが故、個人、個人の人生が 最優先 される時代になったのです。それは、他者との繋がりが手枷や足枷になる という 認識 を生み、結果、できる限り手枷、足枷となる要素を排除する為に、人(親)との繋がりを切る という選択をする人たちを増加させています。
今、現代日本は歴史史上最も人と人との繋がり、特に 血縁関係 の繋がりが 気薄 な時代に突入しています。
こういう時代背景を考慮すると、舅、姑と同居するお嫁さんが存在する事の方が奇跡 です。
そもそも 結婚 という概念自体も消えかかっている、現代日本です。息子さんと結婚してくれるだけでもこの時代では、ありがたい事 だと思います。その上、子孫を残してくれたのなら、もう言う事無しですよ。それぐらいの 寛容さ が必要な時代になっています。
うちの嫁は気が利かない とか、我が強い とか言っている姑 さんを教内でも、多く見かけますが、一緒に暮らしてくれているだけでもう十分良いお嫁さんなんです。我が強いんじゃなくて、自分の意思を主張するよう教育 されているだけなんです。
お嫁さんを自分が育った時代の 価値観 で判断する前に、まずお嫁さんが育った背景を理解してあげる事が大切なんじゃないでしょうか?
そして、うちの嫁は気が利かない と不足を言う 姑さん方、きっとあなたの息子はそれと同等かそれ以上に 気が利かない人間 のはずです。自分の息子の事をまず棚から降ろしましょう。
せんしょのいんねんよせてしうごふする
これハまつだいしかとをさまる(1-74)
おしまい!
人生はつづくよどこまでも!!
皆さんこんにちは!!
今回、【人生は続くよどこまでも!】と題して、「出直し」と「いんねん」について考察していきたいと思います。
よろしくお願いします!!
目次
出直し
この世に存在する全てのものにおいて、絶対的に働く原理、原則。それは、「はじまる」事と「終わる」事ではないかと思います。どんなものにも、どんな事にも はじまり があれば 終わり があります。僕たち人間もその原理、原則の中で生きています。人生はいつか終わる時が来ます。世間一般的にその終わりは「死」と定義付けられています。
この「死」と定義いう付けには 宗教の思想 が大きく影響していると思います。
殆どの宗教には、死後の世界が存在します。インドに端を発する宗教には 六道輪廻 という考え方があり、釈迦 はその 六道輪廻 から 解脱 しない限り、苦 から逃れる事は出来ないと考えて、悟りを啓きました。それが 釈迦 の 入滅 後、弟子達によって纏められたのが、最初の 仏教 です。
ユダヤの民族宗教、ユダヤ教 から派生した キリスト教 や イスラム教 にも 天国 や 地獄 が 死後の世界観 として表現されています。
天理教 には 死後の世界 は説かれていません。説かれているのは、神様がこの世に人間を創造した目的 と、どうすればその目的が達成されるのか だけです。それは 天理教 には、死 という概念がないからです。世間一般的に 死 と定義付けられているものは 出直し と表現します。
天理教 を信仰している人の中には、出直し=死 と解釈して 出直し にあまり良いイメージを持っていない人もいますが、出直しと死は違います。概念が違うのです。
天理教 では、人間の身体は かりもの であり、魂 に身体を借りていると考えます。借りているものはいつか必ず返さなければならない時が来ます。そして返す事を 出直し と表現します。何故、こう表現されるかと言うと、魂 に新たな身体を借りて、新たな人生がはじまる時が来るからです。つまり人間は生まれ変わりを繰り返しているという事です。
死 は 終焉 ➡︎ 滅する事 を意味しますが、天理教 の 出直し は 新たなはじまり を意味します。
この 出直し の考え方では、人生は身体を 借りては返す を繰り返しながら続いていきます。今世 の前には 前世 があり、来世 がやってきます。前世 の記憶はなくなるようですが、行った 善行 や 悪行 は 魂 に刻まれ持ち越します。
因みに、ごく稀に 前世の記憶 が残ったまま生まれ変わって来る人もいるようです。
前世 での行いが 今世 に、今世 での行いが 来世 に反映されます。
いんねん
人生で起こる事は、何事も原因があり結果が現れます。原因のない結果などありません。しかし、原因があっても結果が現れるとは限りません。その差はその原因と結果を結び付けるものがあるかないかではないかと思います。この結び付けるものを 天理教 では いんねん と表現していると考察します。
人生には、自分に身に覚えの全くない事や自分が関与していない事に左右されてしまう事があります。それは 前世 の行いが 今世 に影響を与えていると考えます。
良き人生を送ろうと思えば、まず過去の自分の行いを顧み、悪いところを反省し、同じ過ちを起こさぬよう、今という時間を大切に生きる。それにより未来が拓けてきます。
世間一般の人生観では今世の時間の流れの中でそれが行われます。しかし、天理教の人生観は 前世、今世、来世 と世を跨ぐ時間の流れの中でそれを試みます。
今世での 自分の心遣いや行い により起こってきた事ならば、自分の過去を思い返せば、原因に辿り着く事ができますが、前世の自分の心遣いや行いにより生じ、持ち越した いんねん を自覚するのはなかなか難しいです。何故なら記憶にないからです。身に覚えがないからです。
まさに「記憶にございません」状態です。しかし、やった事はしっかり刻まれています。
いんねん には 白いんねん と 悪いんねん があります。白いんねんは良いいんねん、悪いんねんは悪いいんねんです。
僕は、人間は元々 白いんねん しか持っていないと考察します。それは 親神様 が人間を御創造された目的が、人間の陽気ぐらしの状を見たい だからです。しかし、その事実を知らない人間は、これまでに生きた時代、時代で心に 埃(非道徳的な精神)を積んでしまい、その積んでしまった埃が魂に染み込んだ結果、持ち越しの 悪いんねん になってしまっています。
天理教 の目指す 陽気ぐらし世界 を実現する為に、魂を純粋な 白いんねん に戻す必要があります。その為に 悪いんねん が魂に染み込んでしまわないように 埃 を日々 掃除(反省し戒める)し、前世 から持ち越し、魂に染み込んでしまった 悪いんねん を取り除く事を軸に信仰が展開されます。
具体的には、まず自分がどんな 悪いんねん を積んでしまっているのかを自覚する事です。自分の 悪いんねん の自覚は、周りの人間関係や起こってくる事、御先祖様の人生などからアプローチしていきます。天理教 では、周囲の人の姿は自分を投影している鏡であると教えられます。そして、前世で積んだ悪いんねんを さんげ し、自分自身の魂が浄化されるような心持ちと行いで日々の生活を送れるよう心掛ける事が大切であると思います。
陽気ぐらしは、自分だけではなく、周囲の人々も陽気な心持ちで暮らせる世界であると思うので、自己中心的な考え方を慎み、周りの人たちとたすけあい、支え合えるような関係を築いていく事が必須であると思います。この様な心持ちを天理教では たんのう と表現します。つまり、天理教の信仰者が目指すのは たんのうの心 で日々の生活を送れる人です。
しかし、この たんのうの心 は理解していても、実践する事はなかなか難しいです。悪いんねん が悪ければ、悪い程、周りに引き寄せられる人たちの 癖 も必然的に強くなるので、どうしても心に埃を溜めやすくなるからです。しかし、魂が浄化されて 白いんねん にならなければ、人間が本来営むべき姿、即ち しあわせ にはなれないという事なので、信仰生活は如何に たんのうの心 になるかを模索し続ける生き方とも言えます。
最後に
今回は【人生は続くよどこまでも!】と題して、出直し と いんねん について考察しました。天理教 の人生観では、人生に終わりはありません。今この瞬間の生き方が、これから何100年も何1000年も時代を越えて自分という人間にのし掛かってきます。しかし、それは、しっかりと今を大切に丁寧に生きてさえいれば、人生は必ず しあわせ に近づいていくという事でもあります。明るい未来を現実のものとする為に、お互いサボらない人生を歩んでいきたいですね。しかし、人生は続くよどこまでも!ですから道のりはエンドレスです。なので疲れた時は休みましょう。サボる事と休む事は違いますから。
以上です。
ありがとうございました。
【理】についての考察!!
皆さんこんにちは!!
今回は、【理】について考察したいと思います。以前にもこのテーマで考察を深めたブログを書いた事がありますが、最近、理の親 について色々な考え方に触れる機会があり、ある種の 不毛さ を感じ、それは、「結局のところやはり理という概念が曖昧だからではないか?」という結論に至ったので、改めて考察していきたいと思います。
尚、この考察は、僕自身の考えを整理する為の作業として行うもので、絶対解 を提示するものではありません。
僕が少年期から疑問を感じていて、未だに何処か曖昧さを感じる 信仰的概念 の中で、理 はまずトップクラスに入ります。トップと言っても過言ではないでしょう。
(僕の中での話です。)
それは間違いなく、理 という概念を明確に説明してくれる 大人 がいなかったからだと思います。何故 大人 たちは明確に説明してくれないのか?という疑問は、大人になって理解できました。それは、説明できないからです。つまり 概念を明確に定義付けできていないから、要は分からないんです。しかも、たぶんあえて 定義付けしない事 を 選択 しています。それは所謂、巷で言われる 大人の事情 という現象だと僕は理解します。
しかし僕は、自分の後輩たちに 大人の事情 で彼らの疑問を有耶無耶にするような 卑怯な大人 になりたくはないですし、自分自身がその 曖昧さ に便乗して、自分に都合の良い使い方をしてしまわないように、自分の中である程度の定義付けをしておきたいと思います。それはその為の試みです。
まず 理 の本来の言葉の意味と教理で使われている 理 の意味に相違があるのかを考察します。理 という言葉には本来、もっともな事。道理。条理。理由。わけ。理論。理屈。のような意味が含まれているようです。
また、読み方は、り、ことわり、すじ、おさ(める)などがあるようです。
元々は、中国哲学の概念であり、本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味するそうです。
そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味に派生していったと考えられているようです。
神様は人間にその考えを伝える為に、人間の言葉を用いているわけですが、その時の言葉のチョイスは、神様のイメージに近い意味の言葉を選ばれているはずなので、本来の言葉の意味と全く違うことになるような使い方はされていないと推察します。
理 の本来の言葉の意味は総じて、決まり事や決め事 という事になるのではないかと理解します。つまりそれは、法則 であるのではないかと考察します。
法則とは、いつ、どこでも、一定の条件のもとで成立する関係。きまり。守るべき規範。という意味だそうです。
人間がこの世に存在する目的が、陽気に暮らす状を神様に見せる事 と定義されている 天理教 において、理 とは、その状を実現する為の 法則 であると僕は定義します。
理 は神様により決められた 陽気ぐらし をする為の 法則 で、それは神様のイメージする 陽気ぐらし をベースに決められていると考察します。世界はこの 法則 により支配されていて、その支配を司るのは 親神様 であると考えます。
もし、神様が語源の意味を含ませていると考えるなら、魂を磨く為の行程 という考察もできなくもないです。
イメージを明確にする為にいくつか例を挙げます。
例えば、いんねんの理 という言葉がありますが、僕の考察からこの言葉を変換すると、いんねんの法則 となります。これは いんねん という条件下に成立する関係であると考察します。
親の理 という言葉は、親の法則 と変換できます。これは 親 という条件下に成立する関係であると考察します。
最後に、親の理 については、まず、親 の条件を満たす必要があるわけですが、天理教 において親と定義付けられる条件としては、この世、人間を御創造された 親神様、この世の 元初まり において 神として拝をさせる という契約の下、月日のやしろ として定められた おやさま 、そして おやさま が現し身を隠された後、その名代の役割をする事を許されている立場(よふぼく)となると考察しますが、親神様、おやさま に関しては 無条件 で親の条件を満たしているのに対して、よふぼく は、役割を全うしようとする時のみその条件を満たすと考えます。この意味は、親 の条件が、よふぼくになったその個人に与えられているのではなく、その 役割 に与えられているという事です。
こう考えると、お互いに よふぼく同士 である場合は、親 である側面と 子 である側面が両者にあるのではないかと考察できます。つまり、教会長や布教所長 と その教会に繋がるよふぼく との関係は、お互いが 親 でもあり、子 でもあると考えられます。状況に応じて、その立場が入れ替わる事により、お互いを成人させる事が、よふぼく お互いの在り方なのかもしれません。
今回は、理=法則 と定義付けましたが、三原典での 理 の使われ方には、必ずしも 法則 と解釈できないものもあります。しかし、基本的には、この 意味から派生していると僕は考えます。つまり、法則 という概念を何かしら孕んでいる表現になっているのではないかと考察します。
以上です。おしまい!
日常を無駄にカッコよく表現するシリーズ①
目を閉じて深呼吸をする。
潮の香りと太陽の匂いが混じり合う。
微かに初夏を感じながら、目を開けるとそこには瀬戸内の多島美が悠然と広がっている。
どこまでも続く蒼い空と海が、何も変わらない淡々とした「日々」という時間を洗い流すように全てを優しく包み込む。
大自然の雄大さに自分という存在の小ささを思い知らされながら、舵を取る船の針路に朧に人生を重ねているのだろうか。
その面もちは、何処と無く哀愁を漂わせている。
ふりかえると、白銀に光る航跡が、穏やかな水面に立つ緩やかな波に儚く揺れている。
時の流れの中で、景色は漫然と移り変わり、今日の業も終わりを向かえようとしている。
太陽は海面に金色の海路を映し出しながら、颯爽と走るその雄姿を静かに讃えていた。
終
三代真柱様の見解について思うこと。
皆さんこんにちは!!
今回は、ほこりまみれの信仰者 こーせー さんの note を読んでの感想を綴ります。
⬇︎
https://note.com/hokorimamire/n/n7ca593773633
最近、Twitter で 理の親 論争が勃発しているみたいですね。僕が思うにその火種を投下したのは こーせー さんではないかと思います。
(あくまで個人の推察です。)
煽っているのは、教団批判をしている人たちだと思いますが。。。
因みに こーせーさんの note はとても良い内容なのでぜひ読んでみてください。
(貼り付けられていた note の記事は僕は嫌いですが。。。)
⬇︎
https://note.com/hokorimamire/n/n1506e4843b58
因みに僕も 理の親 についての私見をブログに綴っていますので興味のある方は読んでみてください。
今回は こーせー さんの note に引用されている 昭和47年3月号 の みちのとも に掲載された、三代真柱様の 少年会年頭幹部会におけるお話 において、三代真柱様が示された、信仰的 親 についての見解に対する僕の私見を綴ります。
一部抜粋します。
これは信仰上考えましても、親神様のお与え、親神様の御守護というものは、私達の真実の量によって変わってくるのであります。勤める理によって徳を頂くのであります。これは信仰的に考えた場合でありますが、やがて子供が段々大きくなって親になって参りますと、与える立場をも併せ持つということになるのであります。それなら親になったから与えるばかりかといえば、やっぱり求めることも人間である以上、これは終生考えると思うのであります。これはいったい何を意味するのか。そこで私の辿り着いたことは親と言う言葉で言い現されるお方は、親神様以外にはおられないということなのであります。親という言葉で意味するお方は、教祖以外におられないのであります。
私は六人の子持ちであります。六人の子供の親父であります。その上道の上では教えにつながる人々の真柱という立場を頂いているのであります。しかしながら、私とて人間であります。親神様の思し召しに近付くように、日夜身も心も治める努力をしているのであります。これはおそらく九十歳になっても百歳になってもどこまで生かして頂けるか分かりませんけれども、これでよしというようなことはないと思う。常に人の道、教えの道から外れた行いをしないようにと努力をしていることは、親に喜んで頂きたいが一途な気持ちなのであります。
人間の努力に対して与えられるお方は、真実の親しかおられない。親とは親神様であり、教祖である。たとえ私達が六人の子供の親であると言う言葉のように、親と言う言葉を用いましても、それは親になってしまえというのではなく、私達の親は親神様・教祖以外におられないのです。私達がその言葉を用いましても、真の底から親になってしまってはいけない。
このお言葉から 信仰的親 について三代真柱様の考えを理解しようとする時、親 とは与える立場のものという事になるのではないかと思います。そしてその 与える立場 に該当するのは、親神様、おやさま しかおられないという見解だと僕は理解します。そしてその意味は人間が 信仰的親 の立場になってはいけないという事だと考えます。文の構成や表現はかなり柔らかな感じですが、僕はこの文章に 人間を信仰的に親と表現 する事への強い否定を感じます。
それは、例え自分自身が 親 という自覚がなくても、周りから 親 と認識される事により、自分でも無意識に 自分は親だ と勘違いしてしまう事への 警鐘 ではないかと思います。
これは、親 とか 理の親 とかと言う呼び方の問題ではなく、立場の認識 の問題であると思います。人間が信仰的に 与える立場 になれると認識するのか、なれないと認識するのか。
三代真柱様は信仰的には なれない と認識されていると理解します。僕も なれない と考えます。
理の親 は 親 とは違うという認識もあるようですが、この認識は僕は屁理屈だと思います。親 という言葉が使われている以上、理の親 とて 与える立場 という意味を孕む言葉であると僕は思います。
信仰において怖いのは、自分の立場の認識を見誤る事だと思います。理の親 という言葉で自分や周りの人生が狂ってしまった人は少なくはないと思います。僕はあまり軽々しく使うべき言葉ではないと考えます。
おしまい!!
「理の親」はやっぱり親神様、おやさまであるべきだと思う。
皆さんこんにちは!!
信仰において 親と理の親は違うという 解釈にイマイチ納得できない男。
教理的解釈 においてやっぱり 理の親は親神様、おやさま を指していると思う男。
【よふぼく】を理の親とする信仰がお道の信仰の真髄 という解釈に吐き気をおぼえる男。
離島の働く教会長です。
おさしづに使われている 理の親 という言葉が 親神様、おやさま を指していないと解釈されている記事を読みました。
明治三十二年八月二十八日
峰畑為吉三十九才身上願
さあ/\尋ねる事情/\、どうも身上に心得ん。心得ん理いかな理であろ尋ねる。事情尋ねば、一つさしづ。よく聞き分けて、めん/\心に治めてくれ。これまで長らえてめん/\治め方通る処、治まったる。治まったるやこそ、何か順序。他に分教会順序これまでそも/\であったやろ。何か事情心に掛かったやろ。一時事情前一つ理はもう無くなった理、又改まりた理は、道順序の理。道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ。出越したる処心に掛かる。何処と言わん、心に掛かる。心に掛かる事無きよう。楽しみ以て一日の日も悠うくり。身に一つ事情は案じる事要らん。日々万事事情心通り受け取ったる/\。楽しみ通りこれまでどうも分かり難ない。どうなろうか知らん、どうしたらよかろ、どうも心いずみ切り、一寸どうなろと言うた日もあったやろ。道に理治まったら、又身上不足無く、不自由無くば、心楽しむは道理であろ。さあ案じる事要らん/\。
押して(松坂の方でありましょうか)さあ/\尋ねる事情/\、それ/\こちらにこうして又あちらへと言えば、一日の日も心休まる事あろまい。めん/\万事道理今一時であろ。前々は、その日/\の道理を見て、心に分かるがよい。
道の親 とは道においての親であると考察します。道をつけた親と考えるのが自然な気がします。辿るのは子です。親が先に歩いてつけた道を子が辿る。お道において道をつける役割をされたのは おやさま【親神様】 しかおられません。
理の親 とは、理を統べる親であると考察します。理とは法則、それは 天の法則 であると思います。天の法則を統べる親はお道において 親神様 【おやさま】しかおられません。
親 は既におられるのに、何故別の意味を持つ 親 を創る必要があるのでしょうか?
理の親 という言葉が使われているのは僅かに一回だけです。これは 心得違い を正す意味で使われていると考察します。道の親、理の親 の存在は 唯一無二 の存在であるという意味もこの一回という回数に含まれてるいるのではないかと考察します。
人間が創った 道の親、理の親 という造語が本来あるべき 親 と認識されるべきものとは違うものを指す意味で使われ、それにより、本来の 親 がつけた道から外れてしまっている事への戒めであると考察します。
このおさしづにおいて 理の親 が指しているのは、親神様、おやさま であると考えます。
たぶん、理の親 は造語です。よって おやさま が説かれた教えには 理の親 という言葉は無かったと思います。できたとしたら現し身を隠された後であると推察します。そして、この 理の親 という表現により勘違いをする者がではじめたのがこのおさしづを頂かれた背景にはあると思いますし、それを戒める意味でこのおさしづは出されたのだと推察します。よって 理の親 という表現は使うべきではないし、理の親信仰こそお道の信仰の真髄 なんて解釈は言語道断、吐き気がします。
という僕の勝手な推察と解釈でした。
おしまい!!
僕が「理の親」という表現が嫌いなわけ!
皆さまこんにちは!!
【よふぼく】を理の親とする信仰こそお道の信仰の真髄 という解釈を聞いて、自分の信仰観が音を立てて崩れてしまい 信仰 というものが分からなくなってしまった男。超ダメダメ、自分の心の埃で前が見えなくなってしまいお先真っ暗になってしまった男。離島の働く教会長!!です。
この打ち拉がれた気持ちは、たぶん暫く続くと思われます。今回ばかりは、天理教を批判する人たちの気持ちが非常によく分かりました。自分が否定するものを肯定する、自分が肯定するものを否定するものに触れる事は、たとえ自分自身に向けられていなくても、自分自身を 全否定 された気持ちになるんですね。それを信じる気持ちが強ければ強い程、その反動も大きいという事を痛感している今日この頃です。
そして、自分自身も今まで、自分が今感じている憤りを他者に感じさせてしまっていたかもしれないと思うと、本当に自分の浅はかさというか、愚かさを 猛省 する次第です。
今まで、僕のブログを読んだ事により、不愉快な思いをされた方々に、心よりお詫び申し上げます。
基本的に僕は、理の親 とか 親 という言葉を 教理的解釈 で人を表現する意味で使う事が 大嫌い です。もう一度言います。大嫌いです。もう一度言います。大嫌いです。
大嫌いなんです!!!!!
それは、この使われ方に、個人を尊重する という要素を感じないからです。
信仰において 親 の立場にある人の思考は全てです。僕はそう解釈しています。親 の立場にある人の考え方や意見には逆らえないと思っています。その 親 の立場を人間に与えられているという解釈は、必然的にその立場の人には逆らえないという事になるからです。
人間は不変ではありません。それは、不完全な存在であるからです。そんな存在に 親 という絶対的な権限を与えてしまう要素のある解釈は、大きなズレを必ず生みます。
親 と表現するにしろ、理の親 と表現するにしろ、親 は 親 です。絶対的な権限を持つ立場である事に変わりはないと僕は理解しています。
信仰的解釈 で 理の親 を人間を表現する意味で使う事は、個人の解釈の問題なので、有りだとは思いますが、僕はできれば使って欲しくないです。
僕の担任している教会の前会長(僕の祖母)は信者さんが自分の思い通りに動かない時、自分が理の親である事 を用いて信者さんをコントロールしようとするような言い回しをしていました。また教内においても、そういう用途で使われるケースが圧倒的に多いと感じます。その言い回しは、私が神だ! と解釈されても致し方ないですし、現にそういう意味も含まれていると思います。しかし、この感覚は既に本来あるべきお道の姿からは外れていると感じます。少なくとも僕はそう感じます。
こういう思想は、親 や 理の親 という表現を人間を表現する意味で使う事によって生じた勘違いです。この言葉が生まれた背景を僕は存知得ませんが、現段階で言える事は、多くの人は 信仰において人間を親と表現することを上手く制御できていない という事です。そうである以上、人間に 親 という権限を与える表現はすべきではないと僕は思います。
現在、巨大な組織を構築し、その性質上、組織の重要ポストがほぼ 世襲制 に近いシステムである現状において、主要ポストに着く 親 の権限を与えられるであろう人たちが、本当の意味で よふぼく であると必ずしも言い切れない可能性がある昨今、【よふぼく】を理の親とする信仰こそお道の信仰の真髄 という考え方は、信仰者を精神的に苦しめてしまう要素を十分過ぎるほど孕んでいます。
最後に、勘違いしてしまうのは、勘違いした人が悪いのではなく、勘違いしてしまう要因を与えてしまう解釈と雰囲気に問題があるのだと思います。よってその要因を改善する事が、正しい対応だと思います。また、今回のこの考察自体がズレている可能性もあるという事をご理解いただきたいと思います。自分自身の思考を整理する目的で考察しています。
ありがとうございました。