離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

僕が「理の親」という表現が嫌いなわけ!

 

皆さまこんにちは!!

 

【よふぼく】を理の親とする信仰こそお道の信仰の真髄 という解釈を聞いて、自分の信仰観が音を立てて崩れてしまい 信仰 というものが分からなくなってしまった男。超ダメダメ、自分の心の埃で前が見えなくなってしまいお先真っ暗になってしまった男。離島の働く教会長!!です。

 

この打ち拉がれた気持ちは、たぶん暫く続くと思われます。今回ばかりは、天理教を批判する人たちの気持ちが非常によく分かりました。自分が否定するものを肯定する、自分が肯定するものを否定するものに触れる事は、たとえ自分自身に向けられていなくても、自分自身を 全否定 された気持ちになるんですね。それを信じる気持ちが強ければ強い程、その反動も大きいという事を痛感している今日この頃です。

 

そして、自分自身も今まで、自分が今感じている憤りを他者に感じさせてしまっていたかもしれないと思うと、本当に自分の浅はかさというか、愚かさを 猛省 する次第です。

 

今まで、僕のブログを読んだ事により、不愉快な思いをされた方々に、心よりお詫び申し上げます。

 

基本的に僕は、理の親 とか 親 という言葉を 教理的解釈 で人を表現する意味で使う事が 大嫌い です。もう一度言います。大嫌いです。もう一度言います。大嫌いです。

 

大嫌いなんです!!!!!

 

それは、この使われ方に、個人を尊重する という要素を感じないからです。

 

信仰において 親 の立場にある人の思考は全てです。僕はそう解釈しています。親 の立場にある人の考え方や意見には逆らえないと思っています。その 親 の立場を人間に与えられているという解釈は、必然的にその立場の人には逆らえないという事になるからです。

 

人間は不変ではありません。それは、不完全な存在であるからです。そんな存在に 親 という絶対的な権限を与えてしまう要素のある解釈は、大きなズレを必ず生みます。

 

親 と表現するにしろ、理の親 と表現するにしろ、親 は 親 です。絶対的な権限を持つ立場である事に変わりはないと僕は理解しています。

 

信仰的解釈 で 理の親 を人間を表現する意味で使う事は、個人の解釈の問題なので、有りだとは思いますが、僕はできれば使って欲しくないです。

 

僕の担任している教会の前会長(僕の祖母)は信者さんが自分の思い通りに動かない時、自分が理の親である事 を用いて信者さんをコントロールしようとするような言い回しをしていました。また教内においても、そういう用途で使われるケースが圧倒的に多いと感じます。その言い回しは、私が神だ! と解釈されても致し方ないですし、現にそういう意味も含まれていると思います。しかし、この感覚は既に本来あるべきお道の姿からは外れていると感じます。少なくとも僕はそう感じます。

 

こういう思想は、親 や 理の親 という表現を人間を表現する意味で使う事によって生じた勘違いです。この言葉が生まれた背景を僕は存知得ませんが、現段階で言える事は、多くの人は 信仰において人間を親と表現することを上手く制御できていない という事です。そうである以上、人間に 親 という権限を与える表現はすべきではないと僕は思います。

 

現在、巨大な組織を構築し、その性質上、組織の重要ポストがほぼ 世襲制 に近いシステムである現状において、主要ポストに着く 親 の権限を与えられるであろう人たちが、本当の意味で よふぼく であると必ずしも言い切れない可能性がある昨今、【よふぼく】を理の親とする信仰こそお道の信仰の真髄 という考え方は、信仰者を精神的に苦しめてしまう要素を十分過ぎるほど孕んでいます。

 

最後に、勘違いしてしまうのは、勘違いした人が悪いのではなく、勘違いしてしまう要因を与えてしまう解釈と雰囲気に問題があるのだと思います。よってその要因を改善する事が、正しい対応だと思います。また、今回のこの考察自体がズレている可能性もあるという事をご理解いただきたいと思います。自分自身の思考を整理する目的で考察しています。

 

ありがとうございました。