離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

信仰と悟り!!

 

個人の悟りは結局、個人の悟りという概念を脱し得ない。個人の悟りはそれ以上でも以下でもないのだ。

 

現代の天理教の信仰者にとって最も大きな問題は信仰的な正しい解答を得る事ができないという事だろう。おやさまは現代においても御存命ではあるが、御身は隠されているので親しく会話を持つ事は不可能だ。故に現代において信仰的な正しい解答を知っている者、又は理解している者はこの世には存在しない。

 

信仰とは何なのか?

 

それは悟りを得る事であろう。悟りを得ずして成人などあり得ないし、成人無くして陽気ぐらし世界の実現など不可能である。

 

教え悟りを得る為に存在する。誰がどんな悟りを得ても構わないし、どんな悟り方をしなければならないなんて決まりもない。誰でも自由に悟りを得ればよいのである。誰がどんな悟りを得たとしてもそれを肯定や否定をする権利は誰にも与えられていないし、そもそも肯定や否定をする事自体が不可能である。何故なら正しい解答を知っている者がいないからである。

 

ただ気をつけ無ければいけない事、心得ていなければいけない事はある。それはその悟り=天理教ではないという事。全ての信仰者の悟りは全て天理教ではないのだ。

 

現代の教内には天理教蔓延している。天理教の教えじゃないけど、天理教の教えっぽいものが蔓延している。少なくとも僕はそう感じている。

 

悟り=教えではない。教えは悟りを得る為のものである。教えが先なのである。悟り<教えなのである。教えを説くとは悟りを説く事ではない。ここを勘違いしている信仰者が多いのだ。

 

自分の悟りをさも天理教の教えが如く説く先生と呼ばれる方々は思いのほか多い。これは現代に限った事ではない。先人、先輩方の中にもそういう輩はいたであろうし、現に現在の教内には、出典不明の言葉や表現が数多と存在している。

 

個人の悟りを説く事が悪いわけではない。個人の悟りをさも天理教の教えが如く説く事が悪いのである。

 

信仰とは悟りを得る事である。であるなら、個人の悟りを説き、語り合う事はごく自然な事であろう。しかしあくまで個人の悟りとして説くべきである。何故ならそれは正解ではないのだから。

 

信仰とは悟りを得る事である。そして、信仰とは正解を得る事ではない。

 

悟りとは必ずしも正解でなくても良いのである。大切な事は親の思いを理解しようとする姿勢ではないだろうか?ならば信仰的に最も怠惰な事は悟りを得ようとしない事である。そして現代信仰者にはこのタイプが思いのほか多いと感じる。

 

おしまい!!

 

 

無駄にハードルを上げない!!

 

人間関係、特に恋愛対象に対して第一印象は大切である。生物は本能的に対峙する生物が自分にとって安全な存在かどうかを見極めようとすりる習性がある。それはおそらく人間も例外ではない。進化の過程で高度な知能を有した人間はその習性をコントロールする術を編み出した。要は対峙した者に安心感やポジティブなイメージを与えて自分はあなたにとって安全な存在であるという事を印象付けるテクニックを使い対峙する者の印象を操作するのである。

 

このテクニックは今や人間社会の常識であらゆる分野や場面で用いられ、学問としてもその地位を確立している。

 

しかしながら、人間関係においてその関係のはじまりが必ずしも第一印象からとは限らない。

 

例えば、友人や知人の紹介によって出逢う場合、その友人や知人が自分たちが感じているイメージを先鋒に伝えている場合がある。この場合は第一印象よりも前に対峙した相手にイメージを創られている場合がある。所謂先入観と呼ばれるものである。特に恋愛においてこのようなケースは多いと思う。

 

人間の受ける印象というものは千差万別である。それは、それぞれの持つ概念のベースが違うからである。

 

例えば、イケメンと言われる概念にしても、木村拓哉はイケメンだと思うけど、小栗旬はイケメンだと思わないという人がいる。この場合、イケメンだからと小栗旬を紹介されてもその人にとってはイケメンではないのでイメージ(先入観)と違う印象を受ける事になる。更にイケメンと言う先入観があった事によりその先入観が覆った事の反動で印象が悪くなる場合も往々にしてある。

 

万人に対してイケメンな人などいない。しかし人は自分がイケメンだと思う人は万人に対してイケメンである。と思ってしまう。これは外的要素だけでなく内的要素においても言える事である。

 

 

僕は人に紹介されるのが苦手だ。それは第三者によって自分という人間の印象が操作されるからである。しかしこの場合、この第三者に悪意はない。寧ろ善意しかないのである。しかしその善意が人間関係の構築において弊害になる場合が往々にしてあると言う事を心得ておかなければならない。

 

人を誰かに紹介する場合、必要以上に紹介する人の情報を先方に与えないというのは非常に大切な事だろう。特に自分の持つ印象やイメージは伝えない方が良いと思う。伝えるにしても自分の持つ印象やイメージであるという事を強調するべきであると思う。

 

印象やイメージは当事者たちがお互いの関係性の中で構築していくものではないかと思う。もちろんサポートを求められれば話しは別だが求められないサポートをする必要はたぶん無い。

 

 

 

 

 

 

 

信仰的意義付け!!

新型コロナウイルスの蔓延により、人間が密集する行事を自粛する風潮が強まりをみせる時世により、その社会的責任をとる形で教内でも本部や各教会での行事は軒並み中止になっている。その中にあって僕の直属の大教会は青年会総会を挙行するようだ。

 

しかしながら正直この時世下にあって、この取組みに対する僕のモチベーションは皆無である。

 

大教会の月報におふでさきを引用して「この時世だからこそおつとめを務めなければならない。だから青年会総会をやるんだ!!」という言い回しの文章を見かけた。しかしながら、おふでさきにおいてのつとめがさすものはかぐらづとめであると僕は解釈している。

 

そもそも信仰的にかぐらづとめと各教会で務められるおつとめ別物と考えるべきであろう。ましてや青年会総会で務められるのはおつとめまなびである。これらを同一と認識する事は味噌と糞を同一に認識する事と同義である。

 

おつとめはたすけを求めてつとめられるものである。その点においてはかぐらづとめも各教会で務められるおつとめも個人で務めるおつとめもその理はなんら変わらないと思う。しかしながら、その根底にある位置付けは雲泥の如き差がある事を信仰者はまず心得なければならないだろう。そして全てのおつとめの根源はかぐらづとめだという事。この事実を心得ずして、どんなにおつとめを務めたとしてもその意味は皆無である。

 

つまり、かぐらづとめを各教会で務めるおつとめおつとめまなびと同一視するような解釈や認識はあってはならないし、またその逆も然りである。

 

そしてこの時世にはそういうところに対する戒めも込められているように僕は感じる。つまりは「物理的要素よりは精神的要素においての親の仕込みなのではないか!?」という見解である。

 

本部月次祭に参列できないからこそどれだけ本部月次祭で務められるかぐらづとめに思いを馳せる事ができるかが試されているのではないかと感じる。それはどれだけ世界のたすかりを本気で念じているか、陽気ぐらし世界を実現しようとしているかという事になると思う。

 

おつとめまなびはあくまで学びである。そして学びは個人の自主性があってはじめて成り立つものではないだろうか?つまり、どれだけ大々的にやったとしてもそこに自ら学ぼうという気概がなければ、その学びは学びにはならない。そして体感として僕の直属の大教会の青年会総会においてその気概は極めて低いと感じる。行事だからやるというニュアンスの方が強い印象である。

 

人を集めて何かをやる事が信仰ではない。確かにやっている感は感じられるのだろう。しかしそのやっている事に対してその参加者が信仰的に何かを掴もうという意欲がなければ、そのやっている事に信仰的意義は皆無であると思う。それに一つのやり方に固着する必要性もないだろう。その時世や状況に合ったやり方でやればいいと思うし、おつとめまなびに関してだけで言えば今の時世、その気になれば一人で学ぶ事もできるのだから、そんな大々的に学びをやるニーズは昔と比べれば低いと思う。そうであるならわざわざこの時世において青年会総会を挙行する意義は極めて低いと思うし、やるなら何故今やるのか、それなりの意義を提示しなければならないだろう。

 

信仰的活動が人を集めて何かをやる事という認識は改めなければならない時に来ているのは明らかだ。

 

求められているのは物理的活動ではなく精神的変化であると僕は思う。

 

リーダーの二極化!!

 

人の上に立つ者には大きく分けて二種類の人間しかいない。自分が偉いと思いどこまでも傲り高ぶる人間と自分は周りの人達に支えられているからこそ存在できていると思い、何処までも謙虚である人間だ。そしてとかく人は、自分で自分を正確にジャッジできない生き物である。

 

何故、このような二極化が起こるのだろうか?

 

その大きな要因は人格とか性格といった要素だと思う。これらの要素は自分自身で形成するという部分もあると思うが、大部分、殆どの部分が教育により育まれものであると僕は認識している。つまり、この二極化が起こる原因は教育、特に日常生活で関わりの深い人達、親や同居人といった人達との関係性の中で受ける教育が最も大きな要因であると思う。

 

人間は歳を重ねるに従って教育を受けるという要素が薄れていく。それは人間は歳を重ねるごとに自我が強くなる生き物でその自我教育を受ける事において様々な弊害をもたらすからである。よって人間は歳を重ねるにつれて教育を受けるから自ら学ぶというスタンスに移行していく。この段階において上手く移行できない者とできる者に分かれる。そしてこの二極化に影響を与える要素もそれまでに受けてきた教育である。

 

天理教組織においてもこれらの二極化は起こっている。組織上層部において特に顕著に現れているようだ。教えの性質上、信仰家庭に生まれれば圧倒的後者に育つ可能性が高いと思う。しかしながら前者になってしまうケースも一定数いるようだ。その要因はやはり教育だと思う。

 

教え通りに生きていく。これが信仰者の理想のライフスタイルであろう。しかしながら、そううまくいかないのが人生なのである。

 

信仰的教育において最も弊害となるものはやはり人情であると思う。これは人情が必要ないというわけではない。寧ろ人情教育には欠かせない要素である。しかし、強すぎる人情弊害となる。天理教的に言えばの心遣いになると思う。血縁関係において親は子に過剰な人情を掛けがちになる。これはある意味人間の性(さが)なのだろう。しかしながら、仕込むべき事を仕込まれなかった人間の末路は裸の王様である。

 

前述もしたが、教育を受けるという段階、自我がまだ確立していない段階の教育により、人格や性格はほぼ完全に形成されると考えて間違いないと思う。つまりこの段階において質の良い教育を受けられなかった人間がその後、その人格や性格を劇的に好転させる可能性はかなり低い。

 

特に天理教には理の親という概念が存在する為、組織的な上層のポストについた者、或はその可能性がある者を他者が教育できるケースは極めて少ない。つまり例えば、本部員や大教会長のポストに着いた者、或はそのポストに着く予定の者が教育を受ける段階において良質な教育が受けらなかった事により適切な人格を形成できなかった場合、その人物がそれから後適切な人格者になる可能性はほぼ皆無である。

 

教内でよく「うちの大教会は〇〇だから仕方ない」とか「うちの大教会長は〇〇だから。。。」のような言い回しを時折耳にする。しかしながら、それは大教会大教会長自体が悪いのではない。寧ろそれを創り出した教育、もっと言えばその教育に携わった者が悪いのである。順番が逆なのだ。大教会長がそうであるからそういう教会になったのではなく、そういう教会にしようと教育したからそういう大教会長になったのである。

 

はっきり言うなれば、そういう大教会になったのは、そういう大教会にしようと教育した周りの大人達の責任なのである。そう考えるなら年配の直轄や部内の教会長が若い大教会長を悪く言うのは何とも滑稽な話である。何故ならばその直轄や部内教会長がそういう人格になるような関わり方(教育)をしたからそういう大教会長になったわけであり、その原因は自分たち自身にあるからだ。

 

人一人の人格や性格の形成は僕たちが思う以上に多くの人間の関わりの中でなされていくものなのだと思う。そして、何より教育を受ける側教育を行う側を思う以上に観察している。教育を行う側の一挙手一投足が受ける側に影響を与えると思って間違いないだろう。そして、忘れてはならない事は教育を受ける側において関わる全ての人間が教育を行う側になり得るという事。自分にはそのつもりがなくとも、他者には何かしらの影響を与えているものだ。

 

それを意識した振る舞いこそ育成には必須であると僕は思う。教育を行う側がまず人格者でなくてはならないし、そうであれるよう自分自身努力し続けたい。

 

 

 

肩書きと信頼!!

皆さんこんにちは!!

 

離島の働く教会長!!です。

 

今回は、「肩書きと信頼!!」というテーマで僕が思う事を綴ります。

 

よろしくお願いします。

 

 

この世界で生きていく上で避けられないもの。それは人間関係です。人間は生きていく中で必ず他者と何かしらの関係を築きます。そもそも人間は誰一人として自分の力でこの世に生まれ出る人はいません。お父さんとお母さんがいてその愛の結晶としてこの世に生まれ出るわけですからこの時点で既に人間関係は築かれていると言えます。

 

人間関係に大切なもの。それは信頼だと思います。この信頼がないと円滑な人間関係は築けないと思います。もしあなたが誰かとのどこかギクシャクした関係に悩んでいるなら、それは信頼がないからです。

 

信頼関係の構築。これは人間関係において最も優先されるべき事項です。数多とある面接合コンなどにおけるテクニックと呼ばれる事柄は、全て信頼関係を築く為のものです。

 

信頼関係は築くのが難しく、壊すのは簡単。

 

これが世間一般的な定説のようです。しかしながら、比較的簡単に信頼を得る事ができる要素はあります。それが肩書き(ブランド)です。

 

例えば、街中で急に体調が悪くなり倒れてしまった人がいるとします。その時、颯爽と現れて救命活動をする人が、何の肩書きもない人と医師という肩書きを持っている人だったら、断然後者の方が安心すると思います。それは医師という肩書きが信頼できるものと認識されているからです。

 

しかし、その医師の肩書きを持っている人は本当に信頼できる人なのでしょうか?

 

例えば、その人が若いなら、その人は医師になりたての研修医かもしれません。

 

例えば、その人が年配者だった場合、その人は第一線を退いて何十年も医療行為に携わっていないかもしれません。

 

肩書きがある事とその状況に対処できる事は違います。しかしながら、人はその人に肩書きがある事でその人はできると認識しやすくなります。

 

肩書き(ブランド)は先人、先輩方が築き上げた信頼です。つまり、その肩書きを得る事で先人、先輩方が築き上げた信頼を得る事ができます。

 

肩書きは手っ取り早く信頼を得る方法です。しかしながら、その信頼はその人自身に向けられたものではなく、その肩書きに向けられています。その事実を忘れてはいけません。

 

あなたはその肩書きを得る為の努力はしたでしょうが、信頼を得る努力はしていないのです。故に、あなたがその肩書きが持つ信頼感に相応しい人間であるかどうかはまた別の話しなのです。

 

人として人と接する時、得るべき信頼はやはり肩書きに向けられたものではなく、その肩書きを持つに向けられたものでなければならないと思います。

 

たとえ最初は肩書きに向けられた信頼感だったとしても、最終的には自分自身に向けられる信頼感へと昇華できるだけの努力は必須だと思います。

 

天理教内にも立派な肩書きを持っている人は多くいますが、その肩書きに相応しいだけの信頼感を持っている人は思いのほか少ないのではないかという印象です。

 

なかには、その肩書きに向けられた信頼を自分に向けられていると勘違いしている人さえいます。しかし、この世の中に全く信頼を得るような関わりなく、信頼をしてくれる人などいません。そして自分自身に向けられる信頼を得る為にはやはりそれなりの時間が掛かります。

 

大教会長、分教会長、布教所長、教会役員など教内における肩書きを所有する人はがあるのではなく、その肩書きに見合うだけの成人をするよう促されている人たちだと思います。そう考えるならその肩書きを得た人たちが励むべきはその肩書きに見合う人になる為の成人の努力ではないかと思います。

 

日々自分を顧み、肩書きに相応しい人になる為の成人の努力をし続けられる人でありたいと思います。

 

終!!

 

 

 

 

 

 

遠慮はこうまん!!

皆さんこんにちは!!

 

約1ヶ月ぶりの更新。皆さんお元気ですか?

 

離島の働く教会長!!です。

 

皆さん、帰ってきましたよーーー!!

 

今回は「遠慮はこうまん」というテーマで考察していきたいと思います。

 

よろしくお願いします。

 

今日、Twitter「体調が悪いけど休むのは気が引ける」という主旨のツイートを見ました。

 

この気持ち、凄く分かります。みんなが頑張っているのに、自分だけ何もしないのはなんだか心苦しくですよね。

 

しかし、ここで考えてみましょう!!

 

何故《心苦しい》と思うのか?を。

 

それは、身体が自分のものだと思っているからじゃないですか?

 

違います。人間の身体は親神様からのかりものなんです。この大前提を忘れてはいけません。

 

神様は人間全てに同じ仕様の身体を借しているわけではありません。

 

それぞれの魂の徳に応じた身体をお借しくださっています。身体が強い人もいれば、弱い人もいるし、持病がある人もいれば、そうじゃない人もいる。

 

この違いは前世から引き継いだ悪いんねんによって決まるなんて言われる時もありますが、だからと言って気に病む事はないと僕は思います。

 

それは親神様を与えているのではありません。成人の糧を与えてくれているのです。陽気ぐらしをさせてやりたいから。

 

 

 

日本人は働き過ぎです。それは働く事が美徳とされているからです。この風潮は令和という時代になってもなかなか払拭できないみたいです。特に責任感の強い人は自分がやらないととか自分が頑張ればとかという思考に陥りがちになりますが、これって自分が、自分がって《我》を張ってないですか?これってこうまんですよね?

 

身体はしんどいけど自分が頑張らないとって思うのもかしもの、かりものの理を忘れたこうまんの姿なんじゃないかなって最近思うんです。

 

体調が悪くなるのは、体調が悪くなる原因があるからです。それは勿論心遣いです。心に埃が溜まっちゃってるんです。だからまずやるべき事はその溜まった埃を掃除するって事だと思います。

 

自分の心と向き合う

 

神様はその為に身体を自由に動けなくしたんですから、しっかり自分の心と向き合う時間をつくるべきだと思います。

 

そしてその時間の中であなたは多くの人たちの支えによって生かされている事にも気づくはずです。その事に気づいたなら、その方々にも感謝してあなたもその方々の支えになってあげてください。

 

この世界は、みんなでハッピーになろうとしないと誰もハッピーになれない世界。僕はそう思っています。みんなとは自分を含めた周りの人達です。みんなでハッピーになる為にまずは自分のを取る事が大切だと思います。

 

お互いがお互いに甘え合える。そんな要素も陽気ぐらし世界にはきっと必要だと僕は思います。

 

おしまい!!

 

 

 

 

 

徳と理!!

 

皆さんこんにちは!!

 

今回は《徳と理》の関係性 について考察していきたいと思います。

 

 

 

目次

 

 

世界のルール

 

 

皆さんにとって良い人生とは何ですか?

 

僕が思う良い人生とは 思う事が思うようになる人生 です。やっぱりなんだかんだ 自分の人生を自分の思うように したいですよね。しかし、世の中そんなうまくはいかないものです。うまくいく時、思い通りになる時はあります。しかし、うまくいかない、思い通りにいかない時の方が 圧倒的に多い ですよね。

 

その原因は何だと思いますか?

 

まあ原因はいろいろあると思いますが、僕が思う最大の原因は 理が働かないから です。

この世界の全ては絶対的な 原理、原則(理)の上に成り立っています。成ってくる事全ては、それが成ってくる 理 が働いているからです。自分に都合の悪い理が働けば、自分に都合の悪い事が成ってくるし、自分に都合の良い理が働けば、自分に都合の良い事が成ってきます。この世界はそういう ルール になっています。では、

 

それは誰が決めたのか?

 

神様 です。

 

この世界は 神様 が 人間の陽気に暮らす状を見る為 に創られた世界です。なので、人間に 陽気ぐらし をさせる為の ルール により支配されています。要はその ルール を理解して、自分に都合の良い事が起こるように操作する事ができれば、自分に都合の良い人生が送れるという事になります。

 

どうすればルールを操作する事ができるのか?

 

まず、その ルール を理解する事、そしてそれを操作できる  を得る事が必須です。

 

操作する力とは何なのか?

 

それは  です。徳 とは 魂の力 (筋肉)だと考えます。自分に都合の良い 理 を働かせるにはそれに見合った が必要です。結局、自分に都合の良い人生を送るには 徳 を積むしかないのです。徳 は人から貰ったり、人にあげたりする事はできません。また一気にガツンと積む事もできません。日々、常々、地道にコツコツと積み上げていくしかできません。

 

ではどうすれば徳が積めるのか?

 

それを考察していきたいと思います。

 

 

 

かしもの、かりもの

 

 

徳積み を考える上において必須の概念はやはり かしもの、かりもの だと思います。この意味を理解すれば 何が徳積みになるのか? が自ずと分かるはずです。

 

人間の身体は 神様からのかりもの。ではそもそも 神様 は 何故人間に身体を借しているのか?

 

答えは 陽気ぐらしする状 を見る為です。

 

では何故借すというシステムにしているのか?

 

僕はこの理由は二つあると考えます。

 

一つは 自分の人生に集中させる為 です。もし身体が自分の もの であったなら、人間は自分自身で身体のありとあらゆる機能を管理しなければなりません。つまり、現在無意識に行われている領域の働きをも意識しなければならなくなります。この場合、意識が無くなる=死 です。そもそも巧妙で複雑な人間の身体を全て意識して管理する事など恐らく物理的に無理であるし、できたとしても、管理する事に全神経を集中しなければならないと思うし、そうなると 陽気ぐらし どころではなくなります。あくまで 神様 の目的は 陽気ぐらしを見る事 なので、それが可能なだけの 余裕 を持たせる為に 借す というシステムにしているのではないかという考察が一つ。

 

もう一つは、好き勝手使わせない為 ではないかという考察です。かしもの というシステムにする事により身体の 実権 は借し主である 神様 にあります。そうする事で  人間が好き勝手に身体を使う事を制御している と考えます。つまりこれは 身体は自由に使っていいけれど、無秩序に使ってはいけない という事になると思います。僕たちは 神様 が創り、支配する ルール の範囲内であれば、身体を自由に使えるけど、そうでない場合はその限りではない という考察です。

 

これらの考察から、徳積み となる行為は 陽気ぐらしの実践 になると考えます。

 

 

 

実践のかどめ

 

 

こうなると 陽気ぐらしって何? という疑問が生じます。はっきり言ってそれは分かりません。何故なら 未知の領域 だからです。そもそも陽気ぐらし世界を目指している現状において それ はまだ実現していないという事になるので当然といえば当然です。困りました。どうやら 徳積み についての思考はここで頓挫してしまったようです。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安心してください。続きますよ!!

 

 

現状、陽気ぐらし世界は実現していません。しかしそれは、世界 が実現していないだけです。個人となると話しは別になります。先人、先輩達の中には 陽気ぐらし を体感したであろう人達が何人かいます。つまり、個人レベルにおいて 陽気ぐらしを実践し、体感する事 は十分可能であると考えます。そしてその かどめ を おやさま は残されています。人間でありながら神の言葉を取り次ぐ仕事を許された先人にされた仕込み。それは、

 

朝起き、正直、はたらき

 

です。

 

この三つをしっかり実践すれば 徳 は積まれていくはずです。少し考察します。

 

朝起き; 朝起きる事ですね。早起きではなく朝起きです。正確に言うと朝起きに 朝早く起きる という意味が含まれているみたいですが、早起きではなく朝起きと表現されているのは何か意図があると考えます。僕が思うに 早く起きましょう というより 朝に起きましょう  というニュアンスが強いと感じます。この意味は やるべき時にやるべき事をしましょう という事ではないかと考えます。また、我が身可愛い一条 に陥らないようにという戒めもあると考えます。睡眠は人間の三大欲求であり、中でも毎日健やかに暮らす上で絶対に必要な行為です。この絶対に逃れられない 欲  を如何に制御できるかが 朝起き にはあります。埃に負けず自分を律する という事も含まれているのではないかと考察します。

 

正直;おやさま は 蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのはその身が嘘になるで。と言われています。この 正直 に込められた思いは 素直に実行する という事だと思います。

 

はたらき;おやさま は 働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや。と言われています。陽気ぐらしの実践において基本となる精神はやはり周りの人たちに楽をさせる事だと思います。これは 優しさ とか 思いやり のような概念に近いと思います。自己を中心に判断するのではなく、利他を中心に判断する事が必須であると考えます。

 

 

最後に

 

 

今回は、「自分に都合の良い人生を送る為にはどうしたらいいのか?」から出発した考察でした。結果、「自分に都合のよい人生を送るには周りの人が都合よく生きれるように尽力しましょう!」という結論に着地しました。この事から世界は 自分一人で好き勝手生きていけるようになっていない と僕は考察します。この世界はみんなでハッピーになろうとしないと誰もハッピーになれない世界なのだと思います。この世界での生き方の正解はたぶん、みんなでハッピーになろうとする事  だと僕は思います。

 

おしまい!!